邂逅2
少し考えて気づく。
水の溢れ方がおかしい。
掬ってすぐに流していたからなかなか気が付かなかったが、水が落ちないのだ。
勿論、手のひらに収まりきらない水は溢れ出た。
だが普通は指の隙間などからも、どんどん流れ落ちてゆく。
指に隙間が出来ないように頑張ってくっ付けている訳ではない。
ただ軽く曲げて椀の形にしているだけで、隙間だらけである。
それでも水は、まるで粘性のあるスライムのように、溢れもせず手の中に収まっている。
落とそうとすると普通に流れてゆくのに、掬うと落ちない。
これはどういうことだろう。
遂に頭がおかしくなってしまったのだろうか。
それともこれは夢で、お風呂で寝てしまっただけだろうか。
頬をつねってみるが、ただ痛いだけで目が覚める気配はない。というより、目が覚めているから痛いのだ。
やはり自分の頭のせいだろうか。
頭がおかしいとはそれなりに自覚していたつもりだったが、現実の認識に支障が出る程とは思っていなかった。
しかし、何度やってみても結果は同じ。
こういうものは大抵自覚した時点で正気に戻ると思うのだが、寧ろ最初よりも溢れる水が減っている気がする。
これはつまり自分のせいではなく、水に何かが混ぜられているということか。粘性を生み出す何かが。
だが手のひらで掬った水以外は普通だし、掬った水にしても流れないというだけで触感は普通の水である。
手に絡み付いても来ない。
何かが混ぜられているならば、掬った水以外も同じような性質が出るはずだ。
さすがに不可解な現象に遭遇して超能力だと喜べる歳ではない。
そもそも掬った水が落ちないというだけで、水を操れる訳でもない。
見方を変えてみる。
掬うという行為は、水の流れを留め、手という器に溜める行為である。
たとえ溢れることを前提としていたとしても、その大部分は落ちないことを望んでする行為なのではないか。
そう考えると、今のこの状況は水を操っているということになるのではないか。
訂正しよう。
やはり超能力とか魔法とか、心が躍らない訳がなかった。
いくら瑞瑠が同世代の人間より世界に対して冷めていても、そういうものへの憧れはある。
実験をしてみる。
何をしたらいいかはわからないが、とりあえず念じることにする。
自然には起こらない現象が良い。
水が滴り落ちるように、浴槽から天井へ昇ってゆくというのはどうだろうか。
少なくとも地球上では起こり得ないはずだ。
しんと静まった水面が徐々に盛り上がり、括れてゆく。
そして耐えきれなくなった括れがぷつんと切れ、加速度を持って昇ってゆく。
意外にもイメージするのが難しい。
水が勝手に上にいくはずがないという常識がイメージを邪魔している。
もう一度。
しんと静まった水面が徐々に盛り上がり、括れてゆく。そして耐えきれなくなった括れがぷつんと・・・。
駄目だった。数回試してみたが、水面は揺れているだけで括れたりはしない。
普通に考えてみれば当然なのだ。
留まっていた水が重力に逆らって昇るなど起こり得ない。
これで最後、ともう一度だけ試みる。
相変わらず水面はたぷたぷと一向に静まらない。
これも当たり前。瑞瑠がお風呂の中にいるのだから。
動くつもりはなくとも、生き物は揺れ動く。
呼吸は止められても鼓動は止められない。
そこではたと気づいた。
波源は瑞瑠ではなかった。
波は浴槽の中央付近から端へ同心円状に広がってゆく。
しかし気づいた途端、波が崩れた。
すぐにいろいろな波が生まれて交じり合う。水面は再び自由に揺れ動き、瑞瑠の意思は感じられなかった。
集中が途切れたのだ。
瑞瑠のイメージ通りにはなっていないが、その過程であったと考えてもいいだろう。
そうでなければあり得ない揺れ方だった。
すっかりのぼせてしまった。
今日はこのくらいにしておくことにする。
風呂を出たところで家族は帰って来ていないが、できる限りの平静を装って部屋へ戻る。
それでも顔が引きつっているのが自分でもわかった。気を抜くとにやけてしまいそうだ。
大きな雷が鳴る。
ふと閃いた。
早速それを実行するべく台所へ行き、コップに半分程水を汲んで戻った。
鏡に映った大きな翼は、まるで神話に出てくる天使の様だった。
だがその前に居るのが男では神々しさも何もない。
ただただアンバランスでしかなかった。
何かが貼り付いているような背中の感覚は相変わらずある。
だが、一度その存在を認識したからだろうか、振り返って直接それを視認することができるようになっていた。
動かそうとすると自然に動く。
どこに力を入れているのかもわからないのに。
ぱたぱたぱたぱたぱたぱた、ぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱた。
あるいはこれはとんでもなく不自然なのかもしれない。
これ程大きいのに空気抵抗を感じない。もちろん、重さも。
果して自分はどうなってしまうのだろうか。
鳥にでもなるのだろうか。
困ったと思いながらも、一方ではそれはそれで楽しそうと思っている。空に向かって飛んでいきたいと。
しかし直近の問題はやはり、この翼が他人に見えているのか否かであった。
自分では、触れて存在を知り、鏡で見て確認して初めて実際に見えるようになった。
他の人でもその過程が必要ならば、知らない人には見えないだろうが、友人には見えずとも触れてしまうことはあるだろう。
明日、学校へ行くのが嫌になりつつあった。