邂逅1
水。
それは神聖なるもの。
生命を育む神秘なるもの。
確かにそこに存在していながら、純粋な水は驚くほど透明度が高く、さらに全ての生物の命を支えている。人間だって約七十パーセントが水なのだ。
そうと知っていながら駄人間どもは、汚らしい色素や香料を混ぜて水を浪費している。
ああほら、また。
「瑞瑠ちゃん」
唐突に名前を呼ばれて瑞瑠は振り向いた。
「ん、なぁに?」
「今日放課後空いてる?」
その問いで彼女の意図を理解する。
「あー、ごめん。塾行かなきゃ」
「そっかぁ。じゃあまた今度ね」
「うん」
本当は塾になど行っていないが、ばれることはまずない。
彼女らは毎日のように遊びに行くのだ。勉強もせずに。
気が乗らないので断った。
瑞瑠は、彼女らが皆教室を出るのを見届けてから席を立つ。そして帰宅路の途中にある土手へ向かった。
川の畔は気持ちがいい。たいてい誰もいないし、そういうときはまだ自分に素直でいられる。
最近は川も生活排水などで汚されているにしても、水のない空間に比べて遥かに空気が澄んでいるように感じられた。
しかし、今日はいつもと異なるところがあった。
人がいたのだ。
男子高校生のように見える。瑞瑠とは違う学校の制服を着ていた。
彼は瑞瑠が土手に登ってから、いや、おそらくそれより前からずっと空を見上げている。
その様子が自分が水を眺めているときと重なり、少しぞっとした。
何を考えているのかは自分でもわからない。ただずっと、無心に視線を向け続ける。
瑞瑠ははっと我に返り、いつの間にか止まっていた歩を進めた。
彼はまだ空を見上げている。
幸い、瑞瑠がじっと彼を見ていたことには気づいていないようだった。面倒は避けたいので関わらないことにする。
その横を通り過ぎようとしたとき、そばに人がいることを知ってか知らずか彼が言葉を発した。
「あ、雨」
あまりに唐突だったので、無意識にその言葉に反応してしまった。
「え、雨?」
「あ、はい」
彼も驚いたようだった。まさか人に聞かれているとは思っていなかったのだろう。
「す、すいません。気にしな
「あなたもっ」
ほとんど反射的に口を出た謝罪に、彼は言葉を重ねて言った。
「いや、あなたは、……空が、好きですか?」
予想外の質問だった。
「え?えと、まあ、はい。空の青ってきれいですよね」
「そうですか。あ、すいません。つい、聞いてしまって。忘れてください」
辛うじて返した瑞瑠にそう言って彼は、そそくさと走り去ってしまった。
なんだったのかわからないまま、再び歩き出す。
忘れて、と言われても当分忘れられそうにない。
そうしてとぼとぼ歩いているうちに、雨はどんどん強くなっていった。
久しぶりに雨に当たるのはいいが、鞄の中の教科書やノートが濡れるのはいただけない。たとえどれだけ乾かしても、歪んでしまうのは目に見えている。
だが、瑞瑠の迷いを非難するかのように雨はますますひどくなっていく。
仕方なく急いで帰ることにした。
蒼羅は、自分のベッドに倒れ込んで先程の思わぬ出来事を悔いていた。
いや、それに対する自分の行動を恨んでいた。
何故あそこで空が好きかなどと聞いてしまったのか。
何故自分で話を振っておいて冷たく返してしまったのか。
何故、逃げてしまったのか。
そして何より、こうして知らない少女に、それも再び会うかどうかも分からない少女にどう思われたかをうじうじ気にしている自分が嫌だった。
ベッドに突っ伏して嘆いていると無性に空が見たくなった。
先ほど降りだした雨はあっという間に激しくなっている。雷まで鳴り始めた。
もうこうなると病気であるかのようだ。こんな病気など聞いたこともあるはずがないのだが。
それでも特にその欲求に逆らう理由もないのでそのまま寝返りを打った。
その時、背中に違和感を感じた。何か硬いものを踏んだような。
ティッシュの箱でもあっただろうか。
元の体勢に戻って目を向けてみたが、何もない。
それどころか肩甲骨の辺りにへばり付いてきているようにすら思える。
手を伸ばして探ってみると、何か硬い芯のあるふわふわとしたものに触れた。
振り返ってみてもそれらしきものは見えない。
だが、手触りだけがその存在をはっきりと伝えている。
慌てて洗面所に駆け込み、その大きな鏡を覗き込んだ。鏡に背中を向けるまでもなく、そこには当然のように純白の翼が存在していた。
いつからだろう。
自分を偽るようになったのは。
先生や同級生はもちろん、両親にさえ当たり障りの無い所謂『いい子』を演じている。
もはや本当の自分がわからなくなった。
雨は強くなる一方で、結局びしょびしょに濡れてしまった。これだけ濡れてしまえば、教科書のことを気にするのも今さらだろう。
雨は気持ちがいい。雨に打たれて感傷に浸るのも、たまにはいいかもしれない。
もともとは、自分は、思ったことをなんでも口に出してしまう子供だったはずだ。
いったいいつから言わなくなったのか、言えなくなったのか。
どちらにせよ、全く思い出せない。
雨に打たれる間に、幾つもの欲求が湧き出てはその度にそれを否定した。
足を止めて空を仰ぐ。大粒の雨が全身を打った。
やっぱり、早く帰ろう。
もしかしたら教科書はまだ少ししか濡れていないかもしれない。
明日も学校があるから制服だって乾かさなくてはならないのだ。
このまま雨に濡れていても、欲求不満だけが積み重なって気掛かりが心の隅を刺し続けるだけだろう。
遠くで雷が鳴った。
走るでもなく、早歩きで家へ向かう。
こんな天気では、唯でさえあまり見かけない通行人が更に少なかった。
生活音は聞こえず何の生命感もないと、この世界には自分しか存在しないように錯覚する。瑞瑠はこの孤独感が好きだった。
五分程で家に着くと、真っ先に洗面所へ向かう。
鞄は既に水を吸って重かった。
教科書のことは半ば諦めてチャックを開ける。と、そこには瑞瑠が入れた時のまま、しっかりと紙の張りを残した教科書やノートが整然と並んでいた。
不幸中の幸いというべきか、内部までは滲みなかったのだろう。
一冊ずつ確認しながら取り出してみるが、心配していた紙類は微かに湿っているだけで濡れてはいない。
途中で下に白い物が見えて、それでやっと体操服を押し込んだことを思い出した。
しかしその時には既に、鞄の中身が濡れているとは考えなくなっていた。
最後の参考書を出して確認を終え、体操服を掴もうと手を伸ばす。
「うわっ」
指先が触れた瞬間、予期せぬ不快感に思わず手を引いてしまった。
びちょびちょだったのだ。脱水のできていない洗濯物のように。
絞れば水が滴りそうである。
体操服はこんなに濡れているのに、なぜ教科書は無事だったのだろうか。
それも教科書の上を覆っていたならまだしも、完全に下にあった。順番に取り出さなければ気が付かない程に。
先に濡れるなら体操服より教科書だったはずだ。
だが教科書は無事だったので、考えても仕方のない疑問は置いておくことにした。
皮膚に張り付いた服がどうしようもなく不快だった。
すぐに制服を脱いで洗濯機に放り込む。今からならあまり急がなくても明日の朝までには乾くが、早くするに越したことはない。
全て入れてスタートボタンを押し、浴室に直行した。
浴槽を軽く洗い、お湯を張っている間に体を洗う。
満足にお湯が張られる前に体も髪も顔も洗い終わってしまったので、中途半端な深さのお湯に浸かった。
ドボボボボボボと一定のリズムを刻む音が耳に心地よい。
水は浄水場で様々な行程を経て綺麗に濾過されてこうして水道から出てくる。
それを再び、いや、それ以上に汚ならしくしてまで、添加物が大量に混ざった砂糖水を飲みたいか。
手でかき回してみる。底から水面へ、水面から底へ。
熱いお湯がぐるぐると動いているのがわかる。
やっぱり水は美しい。
目には見えず、その存在を知る方法は感覚だけ。
神との仲介役は皆、盲だったというが恐らくこういうことなのだろう。
水を掬っては流す。掬っては、流す。掬って、流す。掬って。
何気無く続けているうちに、ちくりと違和感が脳を刺した。