九月 切創 ④
翌朝。
小春は雀の鳴き声と共に目を覚ました。雨上がりで空気が澄んでいる。
布団を畳んでいると、ふぁあ、と間の抜けた欠伸が漏れた。
(結局、沖田さんは何の用事だったんだろうか)
昨晩、小春の部屋に訪れた沖田はどこか様子がおかしかった。どうやら話がありそうだったのだが、小春の尿意がそれどころじゃなかったので出鼻をくじく形になってしまったのだ。ちょっと申し訳ないことをしたかもしれない。
などと思っていると、部屋に近づいてくる足音がした。なんとなく井上ではない気がする。
(誰だろう)
念の為、小春は自分の服装がちゃんと男に見えるかどうか確認した。着流し姿ではあるが、胸も潰しているし、男に見えるはずだ。多分。
足音は小春の部屋の前で止まり、さっ、と躊躇いもなく障子が開けられた。
そこにいたのは、やはり井上でも沖田でもなかった。
「おい、仕事だ」
「……おはようございます、土方さん」
新選組、鬼の副長こと土方だった。
「賊!?」
「しっ、声がでかい」
やたらと騒がしい屯所の廊下を歩きながら、小春は思わず声をあげていた。
土方の話によれば、昨晩八木邸に賊が侵入し、新選組にいたもう一人の局長とその腹心が殺されてしまったらしい。小春に任されたのは彼らを生き返らせること……ではなく、巻き添えを食らった八木家の子供の治療だった。
小春はその話を聞いて背筋が寒くなった。
「賊が押し入るなんて、恐ろしいですね」
もしかして、昨日沖田が部屋を訪れたのも、その事件があったからではないのか。小春のことを心配してくれたのかもしれない。
(沖田さん優しいからなぁ)
小春が納得していると、土方はなぜか機嫌を悪くしたようだった。
「おい、あんまり賊、賊って言うんじゃねぇ」
「えっ? あ、ああ、すみません」
確かに、新選組の局長ともあろう人が、寝ている間に賊に襲われて殺されたなどというのはちょっと面目が立たないかもしれない。小春は口を噤んだ。
それにしても、巻き添えを食らって怪我をした子供は本当に可哀想だ。PTSD(心的外傷後ストレス障害)などにならなければいいが――
小春は前川邸を出て、八木邸へと向かった。
八木邸に入ると、玄関からほど近い一室に案内された。怪我をしたと言うその子供は思ったよりケロッとしていて、子供より母親の方が顔面蒼白だった。
(まあ、だいたいそんなもんだよね)
小春は小児科の実習を思い出した。「小児科は子供だけでなく親もケアする場所である」と言ったのはどの先生だったか忘れたが、的を射た表現である。子供が怪我をした時、だいたいは親の方が泡を食っている。
なるべく柔らかい物腰を心がけて、小春は自己紹介した。後ろでは土方が腕を組んで見ている。
「土方さんのご紹介で参りました、氷上小春と申します。本日はどうされましたか」
「あぁ、お医者さまの……」
(医者じゃないけどね)
とは、小春は言えなかった。土方にも医師だということにしておけと言われたのだ。
母親は震える手で子供の着物の裾をまくった。
「あ、あの、うちの子の足の裏が、こない斬られてしもうて」
「これは……」
確かに、子供の足の裏に晒布が巻かれている。それは茶色く乾いた血に染まっていた。
「晒布を取ってもらってもいいですか?」
「は、はい」
母親が晒布を取ると、軟膏の塗られた患部が顕になった。踵の部分に、長さ3cmほどの切創(切り傷)がある。よほど鋭利な刃物で斬られたのか、傷口は美しいまでにまっすぐだった。
見た目は皮下脂肪までの深さに見えるが、筋肉や腱が断裂していると一大事である。
小春は子供の小さな足を持ち、自分で足首を曲げたり伸ばしたりしてもらった。
「動かしにくいとかある?」
「ううん」
どうやら運動機能に異常は無さそうだった。
となれば、後は単純に傷だけの問題だ。小春は母親を見た。
「これ、昨日のいつ頃に怪我されました?」
傷を負ったのが6〜8時間前までであれば、傷を縫い合わせることも考慮に入れられる。それ以降は傷口に菌が入っているかもしれないため、縫合は推奨されない。
だが、それを聞かれた母親は、急に顔を真っ青にして土方の方を見た。
「え、えっと、それは……」
(なんだ?)
なぜ土方の方を見るのだろう。不思議に思って小春も土方の方を見たが、彼はますます機嫌悪そうに眉間に皺を寄せるだけだった。
「んなもん、俺に聞かれたって知るかよ。昨日は寝てたんだから」
当然の答えのように聞こえるが、母親はそれを聞くと明らかにほっとしたような顔をした。
「それが、大体夜の四ツ半頃やったと思うんどすが……この子らは賊が襲ってきた時もよう眠っとって、私も気が動転していたもんであまりよう覚えとりまへん。慌てて親戚の家に逃げて、子供らの足を洗っとったら、この勇之助が痛い痛い言うもんで」
「そうですか……それは大変でしたね」
そう言いながら、小春は脳内で時間を計算していた。
この時代では時間を時計ではなく鐘の音で確認している。昼の12時に鐘が9回鳴り、それを午の刻(正午の”午”だ)と呼ぶ。そこから約2時間ごとに、14時には8回、16時には7回、というように回数を一度ずつ減らして鐘が鳴らされる。そして夜中の0時(子の刻)には鐘の回数が9回に戻り、また2時間毎に1回ずつ回数を減らして鳴らす……といった具合だ。
夜の四ツ半、と言えば午後11時である。今は、ここに来る前に鐘が5回鳴っているのを聞いたから、午前8時を過ぎたところだろう。となれば、約9時間が経過しているので、傷を閉鎖できる時間はもう過ぎている。
(まぁ、血も止まってるし、綺麗な傷だから縫わなくて平気だろう)
小春は顔を上げた。
「とりあえず、縫合は必要ないので傷を洗いましょうか。これ、何塗ってるんですか?」
「金創膏どす」
「きんそうこう……?」
聞いたことないな、と首を傾げていると、土方が口を突っ込んできた。
「金創膏も知らねぇなんて、それでも医者か? いくら蘭方医っつっても、それくらいは知ってんだろ」
「そんなに有名なんですか」
「当たり前だ。何百年前から使われてると思ってる」
「なるほど」
それだけ長く使われているということは、その軟膏の中に何かしらの有効成分が入っていると考えていいだろう。
小春はふむふむと頷いた。
「では、傷を洗ってからもう一度それを塗りましょう。一回お湯を沸かしてもらっていいですか?」
(本当は水道水がいいんだけど)
残念ながらこの時代には塩素の入った水道水がない。綺麗な水を使おうと思ったら、水を沸かして煮沸消毒するしかないのだ。
「お湯を?」
「はい。井戸水で洗うのはあまり良くないです。一度沸騰させて冷ましたものを使うようにしてください」
「わかりました」
それから使用人にお湯を用意してもらっている間に、小春は緊張のほぐれてきた親子と他愛もない話をした。先生はえらい美男やねとか、産科やったら旦那に斬られてまいそうやねとか、そんなくだらない話だ。
笑顔で相槌を打ちながらも、小春は内心で驚いていた。
(肝が座ってるなぁ)
だって、強盗殺人事件に巻き込まれた日の翌朝なのである。普通は怯えて話にならない状態になっていても何もおかしくないのだ。
母親は事件の話になると少し顔色を悪くしていたが、それでも世間話の時は笑顔を見せていたし、勇之助に至っては早く外で遊びたいと駄々をこねている。
やはり、新選組に部屋を貸すとなれば、そのくらいで驚いていては話にならないのだろうか。
小春が感心していると、ちょうどお湯の支度ができた。小春は厨の方へ向かった。