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九月 切創 ③

殺人描写注意

 雨の叩きつける中を、沖田は小走りに駆けていた。雨音が気配を消す。


 この夜、近藤らによる芹沢暗殺計画が実行に動いていた。実行者は、土方、沖田、そして新選組副長の山南敬助(やまなみけいすけ)と助勤の原田左之助(はらださのすけ)の四名。

 いずれも相当な剣の手練であったが、それでも芹沢という新選組きっての剣豪の暗殺を前に、全員の気は極限まで張り詰めていた。


 前川邸の一室で待っている土方の元へ上がると、沖田はほとんど息だけで囁いた。


 「芹沢先生がお休みになられました」

 「そうか」


 土方は短く頷くと、着ていた羽織を脱ぎ、たすきをかけた。残りの三名も、それに倣って準備を始める。

 それからわずかばかりのうちに、雨が上がり、月が姿を表し始めていた。まるで、これから芹沢を殺しに行く自分達の足元を照らしているかのようだ。


 四人はほとんど音も立てずに、芹沢の眠る八木邸へと突入した。芹沢ともう一人、お梅が眠っている部屋の前で、沖田はそっと剣を抜いた。

 興奮に沸き立っていたはずの体中の血が、一瞬にしてすぅと冷めきった。



 ――殺す。



 剣を握ったその時、沖田の世界は澄み渡る。そこには道徳も法律も良心も存在しない。ただ眩いばかりの命だけがそこにある。


 それを摘むのが、沖田の仕事だ。


 障子を開けると、素早く部屋に飛び込んだ。芹沢が裸のままで眠りこけている。その奥で、窓から差し込む月明かりが、同じくほとんど裸になったお梅の白い脚を照らしていた。


 それを見て、なぜか、盥の縁を握る小春の細腕が脳裏に浮かび上がった。

 

 「……」

 

 その連想ごと叩き斬るかのように、沖田の刀が闇を一閃した。


 「ああっ!」


 右の肩を斬られた芹沢が、まるで獣の吠えるような声をあげて飛び上がる。追撃を土方に任せ、沖田はもう一度刃を翻した。お梅を殺すためだ。そして、

 

 ぱっ、と。

 白い布団に、赤が散った。

 

 赤はみるみるうちに広がり、布団からはみ出して畳をも血に染めた。首の皮一枚を残して切断されたお梅の顔には、一切の苦痛が浮かんでいなかった。未だ微睡みの中にいるような顔だ。


 その顔を見ていると、自分の中の何かが壊れてしまうような気がして、沖田は顔を背けた。芹沢の方へ体を向けた。


 土方による二撃目を受けてもなお、芹沢は絶命するまでには至らなかった。刀も持たないまま廊下に迷い出た芹沢は、何の因果か、そこにあった文机に転んで両手をついた。

 沖田は翻るようにして彼の背後へ忍び寄った。


 そして、もはや何の意識もしないままに、その心臓へと刀をまっすぐに突き立てていた。

 

 ――命の光が、消えた。


 「…………」

 

 息もなく、芹沢が唇を動かす音がした。彼が何を言おうとしたのか、土方にも沖田にもわからない。

 

 芹沢の取り巻きは山南と原田が既に殺していた。それを一瞬のうちに把握すると、四人は突入した時と同じ速さで八木邸から引き上げた。

 そして、誰も一言も話さないまま前川邸へと戻り、それぞれの部屋に散っていった。





 

 わずかに欠けた月が、眠る屋敷を静かに照らしていた。湿った土の匂いが鼻をつく。

 だんだんと世界に雑念が戻り始めてくるのを感じながら、沖田は吸い寄せられるように小春の部屋へ向かっていた。


 (逃がそう)


 それは一種の発作だった。だが、今の沖田にはそのことしか頭になかった。

 お梅の四肢に小春の影を見たその瞬間から、沖田の心はあの姫様然とした女を、どこかここではないところへ逃してしまおうと決めていた。


 あの娘にこんな血なまぐさい組織は似合わない、と思ったのかもしれない。もしくは、あの女が側にいると自分の剣が鈍る、と思ったのかもしれない。いずれにせよ、この衝動の理由を明確に説明するのは困難だった。


 服には一切の返り血がついていなかったが、代わりに重苦しい死の匂いが満ちていた。沖田は着替えもしないまま、廊下を音も立てず、だが足早に進んでいた。


 あと一歩で小春の部屋につく、という時、ふいにその部屋の障子が開いたので、沖田はぎょっとした。


 (気付かれたのか……?)


 気配は完璧に消していたはずだった。

 だが、沖田を認めた小春は、その目をまん丸に見開いていた。


 「あ」


 どうやらたまたま出くわしてしまっただけらしい。なぜか、小春の顔に安堵の色が広がっていた。

 己の命を奪いに来たのかもしれないというのに、一体どこに安堵する要素があるというのだろうか。


 彼女はほっとした顔のまま言った。


 「厠行ってきていいですか? 沖田さん」


 その言葉に、沖田は張り詰めていた気が一気に抜けるのを感じた。


 「あ、ああ……」


 出鼻をくじかれるとはまさにこのことだな、と沖田は小さく嗤った。小春は沖田の思い詰めた様子になど微塵も気付いていない様子で、さっさと厠へ向かってしまった。


 厠から戻ってきた小春は、まるで髪を洗った後のようなさっぱりした顔をしていた。


 「それで、何か御用でしょうか」

 「いや、その……」


 まさか厠に行く許可を求められるとは思わず、沖田は話を切り出す切欠を失っていた。厠にも行ったことだし、ここから出て行ってくれ、とでも言えば良いのだろうか。それはあまりに格好がつかなさすぎる。


 沖田が口籠っていると、小春は不思議そうに首を傾げた。


 「ここでお話しにくいようなら、私の部屋にどうぞ」

 「えっ」


 その言葉に、沖田はぎょっとした。女性が夜分に男性を部屋にあげるなんて、その意味をわかって言っているんだろうか。

 否、


 (わかっているわけがないな)


 沖田は俯いて笑みを浮かべた。


 この人は、人を疑うということを知らないのだろう。恵まれた育ちだったと言うから、沖田や土方のように、人を騙して襲うような真似など想像できないに違いない。


 そう思うと、彼女の純粋な心が、無性に悲しくて仕方なかった。

 その悲しみが、沖田の唇を開かせた。


 「小春さん」

 「沖田さん」


 だが、同時に小春も声を発していた。二人ははっとして黙り込んだ。

 沖田は内心で嘆息した。


 (どうしてこうも間が悪いのだろう)


 つかの間の沈黙が流れたが、先に小春が口を開いた。


 「ずっと言いそびれていたことがあるんですが」

 「……何です」

 「あの時、助けてくれてありがとうございました」

 

 そう言うと、小春は深々と頭を下げた。沖田はそのつむじを見つめた。

 

 (……あの時、この女を助けたのは間違いだったのだろうか)

 

 眼前に、賊に絡まれていた小春の姿が蘇った。今にも折れそうな白く細い腕を引かれて、怯えた顔をしていた姿が。


 あのまま放置しておけば、彼女は見るも無残な状態になっていただろう、とは想像に難くない。賊を追い払った後も、小春はどこかぼーっとしていたし、随分困っているように見えた。別の賊に連れ去られるのは時間の問題だっただろう。


 それに、異人のような身なりをした彼女をそのままほったらかしにしていれば、程なくして攘夷を謳う浪士に斬り捨てられていたはずだ。

 

 だから、小春を助けたのは間違いではなかった。

 それは沖田にもよくわかっていた。


 なのに、

 

 「おかげで食い扶持も見つかりました。皆さんのご恩に報いるためにも、私、頑張りますね」

 

 意気揚々と拳を握る小春の顔が、沖田の胸を打った。


 気付けば、小春の腕を取っていた。

 

 「小春さん」

 「はい?」

 「……」

 

 逃げなさい、という言葉は、しかし続かなかった。


 逃げたところで、小春の行く宛などどこにもないことがわかっていたからである。京に来て日の浅い沖田には、彼女を匿えるような場所を作ってやることもできない。

 

 (結局、俺は……無力だ)

 

 沖田が項垂れていると、小春が不審そうに様子を窺ってきた。

 が、やがてはっと何かに気付いたように息を飲んだ。

 

 「もしかして、眠れないんですか」

 「はい?」

 

 先程の小春の返事を、沖田はそっくりそのまま返した。だが、小春の顔は至って真面目だった。

 真面目に沖田を心配していた。

 

 (医者の顔だ)

 

 と、沖田は思った。小春はその顔のまま続けた。

 

 「眠れない時は、手足を温めると良いですよ。温かい飲み物を飲むのも効果的ですね。あ、でもお茶やお酒は駄目です。睡眠薬代わりにお酒を飲む人いますけど、あれは本当にやめたほうがいいですね。それから……」

 「わかりました、わかりました」

 

 段々と熱が籠ってきた小春の話を沖田は遮った。このまま放っておくと、彼女はどこまでも際限なく話し続けそうだった。

 沖田は握っていた彼女の腕を離した。

 

 「すみません、ただ様子を見に来ただけなんです。もう戻りますから」

 「そうですか?」

 

 小春はあまり納得がいっていないように首を傾げていたが、やがてこくんと一つ頷くと、人好きのする笑みを浮かべた。

 

 「では、おやすみなさい、沖田さん」

 「……おやすみなさい」

 

 ひた、と静かな音がして障子が閉まる。小春が布団に潜り込む音を背後で聞きながら、沖田は来た道を戻った。


 確かに、自分は眠れなかったのかもしれなかった。彼女を逃がすためと言いながら、単に戦いの後の熱を彼女にぶつけていただけなのかもしれない。

 もうあの熱はどこかへ引いていた。

 

 (彼女、意外としぶとくやっていくかもな)

 

 ようやく訪れた眠気の中で、そんなことを思った。

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