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九月 切創 ②

 「それで、こんなことをさせられているんですか。かわいそうに」


 かわいそうに、と言いながらも、沖田はおかしさを堪えることができなかった。くすくすと笑みをこぼす沖田を、小春が恨めしげに睨んでいる。


 「かわいそうに思うんなら、どうにか口添えしてくださいよ」

 「土方さんは貴方のためにおっしゃったんでしょう」

 「くっ……まぁそれはそうなんですけど」


 沖田は水の入った(たらい)を持って立たされている小春を見つめた。


 室内から出ずに出来る鍛錬、ということで井上が考えたそうだ。新選組の隊士どころか、その辺にいる町人でさえこのくらいの負荷なら一刻(約2時間)ほどは黙って耐えられるはずだが、小春は始めてから四半刻(約30分)も経たないうちにもう苦渋の表情を浮かべていた。


 (本当に、一体どんな暮らしをしていたんだろう)


 盥の縁を握りしめる手も、畳を踏みしめる足も、まるで妓女のように白く細い。いくら医学生と言ったって、家事の一切もしないわけではなかったはずだ。なのにこの体力の無さは一体何だというのだろう。


 やっぱり沖田には、小春がどこかの藩の姫様なのだと言われた方がしっくり来た。

 というか、今でも心のどこかで、本当に姫様なんじゃないかと思っている。


 その姫様(仮)は、とうとう腰をかがめて盥を床に置いてしまった。


 「もう無理……」

 「あ、井上さんに言いつけてやろう」


 沖田が笑ってそう言うと、小春は目尻を下げて泣きそうな顔をした。


 「あんまりですよ。こんなの私の本分じゃないのに」

 「とはいえ、その体力で男だと言い張るのは無理がありますよ」

 「うぅっ……」


 小春は溜息をつくと、もう一度盥を持ち上げた。水の表面がぷるぷると小刻みに揺れている。その様子を見ながら、沖田はぼんやりと物思いに耽った。



 ――まるでこの部屋だけ別世界のようだった。



 この部屋の外では、芹沢の暗殺計画が着々と進行している。沖田も芹沢の部屋に行き、それと知られぬように部屋を検分した帰りだった。小春の部屋に来る前に、芹沢の情婦となったお梅という女とすれ違った。

 沖田の姿を認めると、お梅はその白く美しい顔を小さく傾げて微笑んだ。


 「芹沢先生は、お帰りにならはりました?」


 甘く囁くようなその声に、沖田は曖昧に苦笑して、


 「もうすぐお戻りになると思いますよ」


 と返した。苦笑したのは、芹沢の元へ毎日のように通っているお梅の熱心さにではない。


 (きっと、芹沢暗殺の日にもこの人は来てしまうのだろう)


 そして彼女をも殺すことになるだろう、という不吉な予感によるものだった。屯所で彼女の姿を見る度に、その予感は確かなものになっていった。


 可哀想だ、とは思ったが、彼女が芹沢の暗殺現場を見てしまったとなれば、どうあろうと生きて帰すわけにはいかない。たとえ、無理矢理芹沢に手篭めにされただけの哀れな情婦だったとしても。


 沖田も、土方も、近藤も、この屯所にいる者は皆、血なまぐさい世界を生きている。それがこの一室だけは、春の日差しが降り注いでいるかのように穏やかで、暖かくて、時間が緩やかに過ぎていた。

 それが、沖田には不安になった。


 (この部屋から出た時、この人は外の空気に耐えられるのだろうか)


 人を救うことを生業とする小春が、人を殺すことを手段としているこの隊の中で生きていけるのだろうか。


 初めて会った時に見せたあの笑顔を、ずっと浮かべ続けていられるのだろうか。


 寒さを耐え抜きやっと蕾を付けた花が、あっけなく萎れてしまうような、そんな様子を想像して、沖田の顔が曇った。



 「どうかしましたか?」


 それを見ていた小春が、眉間に皺を寄せたまま聞いてくる。沖田は何でもないと首を横に振り、憂愁から逃れるように立ち上がった。


 「そうだ、今日は井上さんの帰りが遅くなるそうだから、私が夕餉を持ってきてあげますよ」

 「そうなんですか。ありがとうございます」


 沖田がそう言って部屋を出た後ろで、ちゃぷん、と水の揺れる音がした。

 また盥を床に置いたに違いない。

 


 

 

 小春が水を張った盥を持って立つ、という前時代的な(実際前時代なのだが)筋トレを始めてから、数日が経ったある日のことだった。


 太陽が南中して少し経った頃、膳を持って入ってきた井上が、深刻な顔をして小春の前に座った。なんだかいつもより顔が強張っている気がする。


 「いいかい、今夜は幹部の人達が皆屯所を留守にするから、絶対に外へ出てはいけないよ。悪いが、厠も最小限に控えてくれ」

 「わかりました」


 この男はすっかり小春に情が湧いたのか、まるで子供に言い聞かせるようにそう言った。小春も井上のことを父親のように思っていたので、素直に頷いた。


 (とはいえ、トイレを控えられる自信がないなぁ)


 夕方のギリギリに一回行っておくとして、それ以降水を一滴も飲まなければ大丈夫だろうか。でも夕餉もあるしなぁ。食事の水分量はばかにならないんだよな……

 などと小春が考えていた時だった。


 「本当は言ってはいけないんだろうけど」


 と、井上が声を潜めた。


 「あと数日で、君を出してあげられると思うよ」

 「本当ですか!」


 思わず声をあげてしまい、小春はぱっと手で口を覆った。井上が苦笑しているのを見て、小春は申し訳なくなる。

 小春は小声で言った。


 「では、今夜は早く寝ることにします」

 「ああ、そうしてくれ。夕餉はここに置いておくから、お腹が空いたら食べるんだよ。明日、膳を下げに来るからね」


 そう言うと、井上は部屋の隅に食事の乗った膳を置いて、さっさと小春の部屋を出て行ってしまった。朝餉の時も盥を持ってこなかったので、今日は筋トレは無いらしい。


 とはいえ、丸っきり体を動かさないというのもなんだか落ち着かず、小春は縫合の練習の合間に腕立て伏せをしたり、柔軟をしたりして過ごしていた。



 日が暮れる前に厠に行き、夕餉をもそもそと食べ始めていた頃に、辺りがどんよりと暗くなった。


 (雨だ……)


 幹部の人達は屯所を留守にすると言っていたが、どこかへ行くのに雨だと大変だろうな、と小春は思った。


 そのうち、どんどん雨脚が強くなっていった。


 早めに寝ると言った小春だったが、雨音があまりにもうるさいせいで、布団に入っても中々寝付けなかった。


 (こんな天気なのに外出してるなんて、大丈夫なのかな……)


 だが、そのうち他人の心配をしている場合ではなくなった。



 ――尿意が襲ってきたのである。



 「…………」


 小春は内股を合わせながら、ごろごろと布団の上を転がった。いつの間にか雨音が気にならなくなっていたが、今の小春にとってそれは特に嬉しくもなんともなかった。


 (寝れない、どうしよう)


 この尿意をなんとかしないことには死んでも眠れない。この年齢になっておねしょなどしようものなら、恥ずかしさで二度と部屋から出られないだろう。かといって、井上の言いつけがある以上、厠に行くのもなんとなく憚られる。

 いっそのことおまるとか持ってきてもらえばよかったかもしれない、と、小春は半ば冷静さを失いつつある思考の中でそう考えた。


 しばらく我慢しているうちに、とうとう冷や汗が出てきた。我慢の限界、というやつである。


 (もうだめ、トイレ行かないと無理!)


 井上も厠は最小限と言っただけで、行くな、とは言っていないのだ。これ以上尿意を我慢していると本当に気分が悪くなってきそうで、小春は意を決して立ち上がった。

 障子を開けると、右手に人影を見つけた。


 「あ」 


 小春は小さく声をあげた。相手はなぜか随分と驚いているようだったが、今の小春はそんなことを気にも留めていなかった。


 (これでトイレに行く許可が取れる!)


 ラッキー、と思ったまま、小春は声をかけた。


 「厠行ってきていいですか? 沖田さん」


 相手――沖田は呆気に取られた顔をしていた。

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