九月 切創 ①
身元不明の女医学生である氷上小春を新選組が拾ってから、七日が経っていた。
一時は「新選組に異人が来た」と噂になったが、沖田や近藤が「彼女は無事に居住地に帰した」と言うとすぐに沈静化した。誰も、新選組の屯所である前川邸の一室に、その異人とやらが閉じ込められているとは思っていない。
世話役を務める井上源三郎の話によれば、彼女は従順で礼儀正しく、不便な軟禁生活にも一切の不満を漏らしていないらしい。ところどころ常識に欠けている面があるが、抜群に要領が良く、大抵のことは一度教えただけですぐ覚えてしまうと言う。
小春に本当に医学の心得があるのかは今のところ定かではないが、暇な時間は模擬体相手に縫合の練習をしているそうだ。それはどの外科でも見たことがないほど手早く鮮やかなものだった、と沖田も言っていた。
(どうすっかなぁ……)
土方はきりきりと痛むこめかみを揉んだ。
壬生浪士組から新選組へと隊名が変わった途端、まるで空から降ってきたかのように突如現れたあの女。それをどう扱うか、土方は考えあぐねていた。
ただでさえここ最近は芹沢鴨の暗殺計画に忙しいというのに、小春の扱いにまで知恵を巡らせるほどの余力がない、というのが本音だ。
だが、ただ彼女を飼い殺しにしているわけにもいかない。
近藤が彼女を隊に置くと決意したのは、彼女が医師の代わりになると踏んだからだ。
今の新選組には金がない。
簡単な治療ならば彼女にやらせることで治療費が浮くし、ずっと医師が隊に常駐しているようなものだから、病人の看護もやりやすくなる。そういう試算で、近藤は小春を保護してやったのだ。
それには土方も同意だった。小春は間者の線も薄く、いないよりいる方が隊の為になる人材だろう。たとえその扱いに少々手間がかかるとしても。
ただ――
(本当に、それだけか?)
土方の直感は、彼女の利用価値はそれだけではない、と物語っていた。初めて会った時、土方はあえて過度なくらいに彼女を脅したが、それでも頑なに自分の正体を言いたがらないところや、わざわざ医師ではなく医学生だと訂正した辺りに、彼女の芯の強さが窺えた。
その辺にいくらでもいるような医師の代わりではなく、もっと小春を有効に使う手立てがあるのではないか、と、そう思った。
そのためには、もう少し彼女を知らなくてはならない。
(ちょっくら行ってみるか)
小春を部屋に閉じ込めて以来、土方は小春の顔を見ていなかった。芹沢に関する監察の報告を待つ間、彼女の部屋に顔を出してみることにした。
「足が床から離れすぎだな。もう一度」
「はい」
土方が小春の部屋を覗くと、そこには美しい総髪の青年が、井上に歩行法を教えてもらっていた。
青年――小春は土方に気付くと、ぱっと目を見開いた。
「あっ、土方さん。お久しぶりです」
「お、おお……」
(あの小便臭い女が――)
と、内心で土方は驚嘆した。初めて会った時は珍妙な服に身を包み、怯えきった顔をしていて、とても沖田の言うような二十二歳とは思えなかった。しかし、こうしてきちんとした格好をしていると年相応に見える。そして、妙に男装が様になっている。
土方が部屋に入ると、井上は「いやはや」と嬉しそうに言った。この無口な男には珍しく、かなり上機嫌だった。
「歳さん、この子は非常に筋がいいよ。何でもすぐに覚える。剣を握ったことがないのが残念でならん」
「ありがとうございます」
井上の言葉に、小春は心底嬉しそうにはにかんだ。こうして見ると、井上が老けているのも相まって父と息子のように見える。
辞去しようとする井上を「大した用じゃありませんから」と留めて、土方は続けた。
「何か不便はないか」
「はい、おかげさまで」
「そうか。ところで……」
土方は単刀直入に聞くことにした。
「お前、今の世についてどう思う」
「は?」
「倒幕か佐幕か、どっちだって聞いてんだ」
開国にあたって、今のこの国の思想は大まかに言って二つに分裂していた。
倒幕とは、徳川幕府を打倒して政権を天皇に譲渡しようとする思想のことで、佐幕とは、今まで通り天下泰平の世を維持してきた幕府を支持する思想のことである。
他にも尊王とか攘夷とか色々論点はあるのだが、話を簡潔にするためにそこは聞かなかった。
倒幕、と答えれば斬る。佐幕、と答えれば、もう少し突っ込んで詳しく聞く。あまり政治にうるさいようなら、折を見て追い出す。
そのつもりで聞いていた。
しかし、小春から返ってきたのはどちらの答えでもなかった。
「私、政治には興味ありません」
「…………」
「医学に触れられればそれでいいので」
(なるほど……)
小春の顔には、一切の嘘をついている色がなかった。本当に医学にしか興味がないのだろう。そしてそれは、土方ら新選組の士道を全うする信念とどこか相通じるものがあった。
もう一つ、土方は質問をした。
「お前、なぜ医学の道を選んだ」
女なのに、とは言わなかった。なんとなく、彼女の前では性別など些細な問題でしかないのではないか、と思ったからだ。
小春は凛とした声で言った。
「人の体が好きだからです」
「………………」
あくまで真面目なその声色に、土方はまじまじと小春を見つめた。その瞳には一欠片の邪心もなく、物心ついたばかりの子供のような、純粋な探究心に満ちあふれていた。
(変わった女だ)
普通、医者なら「人を助けたい」という言葉が第一に出てくるだろう。土方の生家は薬屋だったが、薬屋でさえ「誰かのためになりたい」と、そう言っていたのだ。
だが、彼女は違う。別に人を助けたくないわけではないだろうが、彼女にとっては医学を学ぶのは自分の為なのだ。
そしてその答えに、土方は密かに胸を撫で下ろしていた。
もし、小春が「人を助けたいから」と答えていれば――新選組は人を斬る集団だ。いつか流れる血の量に耐えきれず、姿をくらませてしまう日が来るだろう。そうなれば、彼女を新選組の法に基づいて裁かなければならなくなる。その時自分の刃が鈍らないかどうか、土方は自信がなかった。
だが、今、予感は確信に変わっていた。
(この女、使える)
目の前にいる男装の麗人は、必ずこの隊の役に立つ。ただの新選組お抱えの医師としてではなく、彼女にはそれ以上の能力が秘められているはずだ。もしかすると、この新選組の運命を変えてしまえるほどの力が。土方はそう信じていた。
しかし、彼女の力を十分に使うには、今のままではいけない。
(芹沢鴨……)
あの暴虐を絵に描いたような男の前に、小春を出すわけにはいかない。何をされるかわからないからだ。男装していたとしても、あらぬ言いがかりを付けられて殺されてしまうかもしれない。
小春に陽の当たるところできちんと仕事をしてもらうためにも、やはりあの男は早く斬らなければならなかった。
難しい顔をして黙りこくっていた土方に、消え入りそうなほど小さい声がかけられた。
「あの……」
見上げると、小春が怯えと不安の混ざった顔で土方を見ていた。「何か変なことを言ってしまっただろうか」と、顔にはっきり書いてある。
それを見て、土方は溜息をついた。
「そんな情けねぇ顔すんな」
「は、はい」
「俺達はお前をここに置くと決めた。決めた以上は、無闇に殺すような真似はしない。お前には色々と役立ってもらわなきゃならねぇからな」
その言葉に、小春の顔はにこっと花のように綻んだ。
「任せてください!」
ぐっ、と小春が胸の前で両の拳を握りしめる。袖から顕になった白く細い腕に、土方の目が吸い寄せられた。
無論、その女々しい魅力に、というわけではない。
「……」
――貧弱。
まさにその一言が当てはまる、棒のような細腕に、土方は呆れて長い息を吐いた。
(もやしか何かか、こいつは)
「……井上さん」
「どうした」
「こいつを鍛えてやってくれませんか」
「ああ、任された」
井上が頷くと、小春はみるみるその顔を青くした。
「えーっ!」
「んな情けねぇ声あげてんじゃねぇ! なんだこの細っこい腕は! 本当にここでやっていく気あんのか!?」
「でも運動は嫌いなんです……」
「てめぇ……井上さんにその歪んだ根性叩き直してもらえ!」
「まあまあ」
かくして、小春の日課に筋肉の鍛錬が加わった。