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八月 タイムスリップ ⑤

 翌日、目を覚ますと、そこには病院の白い天井があった。



 ……というわけにもいかず、小春の視界には木の天井が広がっていた。


 (やっぱり、夢じゃないのか……)


 一晩寝れば元の時代に戻れているんじゃないか、などという小春の淡い希望は木っ端微塵に打ち砕かれていた。何もかもが昨日床に就いた時と変わっていない。つまりここはまだ幕末だ。新選組の屯所の一室だ。

 布団から起き上がると、ずきりと腰に鈍い痛みが走った。


 (家のベッドが恋しい)


 いつも柔らかいマットレスの上に寝ていた小春にとって、この時代の布団は中々腰に負担がかかるものがあった。しかし、それくらいで音を上げていては、これから先とてもやっていけない。なにせこれからは男の格好をして、この世界に生きていかなければならないのだから。


 小春が布団を畳んでいると、障子の向こうから声がした。


 「氷上君、起きているかな? 朝餉を持ってきたよ」

 「あっ、おはようございます、井上さん!」


 障子を開けると、人の良さそうな顔をした中年男性が膳を持っていた。この男は井上源三郎といって、昨日から小春の世話を任されている人だ。小春が女であることを知っていて、色々不便のないように気遣ってくれている。昨日、小春に男装の仕方を教えてくれたのもこの人だった。


 「うむ、元気そうだね。服がきつかったりはしないかい?」

 「大丈夫です、ありがとうございます」


 小春は着流し姿の両腕を広げた。袖も身頃もぴったりだ。ただ一つ気になる点があるとすれば、いわゆる西洋式の下着をつけていないので若干股の辺りがすーすーすることくらいだが、流石に井上にそれを言うわけにもいかない。


 (昨日は本当に気を遣わせてしまって申し訳なかったな)


 昨日は小春の着ていた服の上から着物の着方を教えてもらったのだが、それでも井上はなるべく小春を見ないようにしてくれたし、肌が触れるだけで平謝りされた。小春からすれば「そんなことくらいで」と思うが、この時代ではみだりに女性の肌へ触れるものではないらしい。まあ、元の時代でも決して気軽に触っていいというものではないが。


 小春は目の前に置かれた朝餉に視線を落とした。


 「では、いただきます」


 両手を合わせて、味噌汁に口をつける。食事は普通に美味しいのが救いだった。




 小春が食べ終えて箸を置いたところで、井上が言葉を発した。


 「何かしたいことはあるかい? この部屋の中で出来るものなら、なるべく便宜を図るけれど」


 (なんて良い人なんだ……)


 捕虜のような身の自分の要望を聞いてくれるなんて、新選組にもこんなに親切な人がいたのか。

 井上の感動的なまでの優しさに胸を打たれながら、小春は遠慮がちに言った。


 「お暇なときで良いんですけど、歩き方を教えてほしいんです」

 「歩き方?」

 「はい。どうも私の歩き方は可笑しいらしくて」


 そう言うと、小春は立ち上がり、昨日のように部屋の隅から隅まで歩いてみせた。散々なまでに特徴的だと言われた歩き方だ。それを見て、井上も不思議そうに顎に手を当てていた。


 「ずいぶん体の軸が揺れているね」

 「そういうものなのでしょうか」

 「それだと帯が緩んでしまうだろう」


 井上の言葉に、小春は自分の服を見下ろした。確かに、動く度に帯や合わせが緩んでいる気がする。それらは歩き方に起因するものだったのか、と小春は納得した。

 おそらく、現代でも着物を着慣れている人であればきちんと歩けていたのだろうが、小春が着物を着る機会なんて七五三くらいしかなかった。京都を着物で歩き回る、という小粋な真似さえしたことがない。

 井上は「わかった」と一つ頷いた。


 「今日はこれから仕事があるんだが、それが終われば必ず教えよう」

 「ありがとうございます」


 小春は深く頭を下げた。それから、「くれぐれも部屋から出ないように」と言い残して、井上は去っていった。



 再び静かになった部屋で、小春はぼんやりと障子の向こうを見つめた。


 「暇だ……」


 引き篭もりは得意です、とは言ったものの、テレビもスマホもないし、読めそうな本もない。となれば、やることは一つしかない。

 小春は鞄から縫合練習用キットを出した。


 「やりますか」


 縫合の腕が小春の行く末を左右する、と言っても過言ではないのだ。しかもこの時代は麻酔がないので、苦痛を最小限にするためにも、なるべく早く縫い終わらないといけない。

 部屋の隅にあった机の前に向かうと、小春は縫合の練習を始めた。

 


 



 遠くで鐘の鳴る音がして、小春は顔を上げた。いつの間にか、太陽が南中して西の方向へ過ぎていた。


 「いたたたた……」


 ずっと下を向いて作業していたので、首と背中が痛い。ついでに足も痛い。小春は立ち上がると屈伸を繰り返した。


 (そういえば、白衣皺になっちゃうな)


 ふと思い出し、鞄の中から白衣を出した。できればハンガーがあれば良かったのだが、この時代にあるのかどうかがわからない。あったとしても、それを頼むのはちょっと申し訳ない。

 ポケットから聴診器とボールペンを取り出し、今後いつ着るのかわからない白衣を丁寧に畳んでいた時だった。


 「小春さん、入っていいですか?」


 沖田の声だ。小春が「どうぞ」と返すと、障子の開く音がした。そして、


 「わあ」


 というちょっと間延びした歓声があがった。見ると、沖田が小春の姿を見て目をぱちぱちと瞬かせている。


 「小春さん、その格好よく似合いますね」

 「……ありがとうございます」


 男装が似合うと言われても別に嬉しくはない。小春は複雑な気分で礼を言った。

 

 沖田は白衣を畳む小春を、何が楽しいのかにこにこと頭の先から爪先まで眺めていた。その視線が気になって、小春は顔を上げた。


 「なんでしょうか」

 「いや、立派な死装束だなぁと思って」

 「死装束!?」

 

 小春はぎょっとした。患者を診るための服なのに、死装束だなんて縁起でもない。

 だが、沖田はどうやら本気で言っているようで、小春の反応に首を傾げていた。


 「違うんですか?」

 「違いますよ! これは白衣と言って、患者を診る際に医師が羽織るものです。白は清潔感を表しているんですよ」

 「そうかなぁ。そんなんで枕元に立たれたら、余計に具合悪くなりそうだ」


 (よし、もう白衣着るのやめよう)


 どうやらこの時代の医師は白衣を着ていないらしい。おまけに白はあまり縁起の良くない色のようだ。小春はなおさら丁寧に白衣を畳んだ。

 畳み終わった白衣を丁寧に鞄の中に戻し、部屋の隅にそっと置いた時、沖田は「そうだ」と声を上げた。


 「小春さん、外科も出来るんですよね? ちょっと布か何かを縫って、私に見せてもらえませんか」

 「ああ、それなら」


 小春は今しがた向かっていた文机に戻り、縫合練習キットの蓋を開けた。練習用の人工皮膚を取り出す。


 「ちょうど練習していたところなんです。大して上手くないですけど」


 そう言いながら、小春は針に糸をかけた。


 縫合用の針は半円形の特殊な形をしていて、尾側が鈎のように糸を固定できる構造をしている。それを持針器という先が平たい鋏のようなもので掴み、皮膚組織に刺す。そして抜けた針先をピンセットで掴む。これを繰り返して縫っていく、というわけだ。


 元の世界にいたときも、小春はこの縫合という手技が妙に好きで、暇な時に動画を見ながら練習していた。おかげで並の医学生よりはだいぶ上手くできる。まさかそれがこんな形で役に立つとは思っていなかったが。


 すいすいと進む小春の手捌きに、沖田から唸り声が漏れた。


 「これはすごいなぁ。これだったら町医でも十分食っていけますよ、わざわざこんなとこにいなくても」

 「ははは……」


 仮に沖田の言葉が本当だったとしても、見知らぬ時代で開業できるほど小春の心臓はタフではない。小春は笑って流した。

 糸を結んでしまうと、解くのに糸を切らなければならず勿体ないので、小春は結ばずに糸を抜いた。


 「ざっとこんなものです」

 「感服いたしました」


 素直な沖田の褒め言葉に、小春も鼻高々に笑みを浮かべた。自分が頑張った成果を人に褒めてもらえるというのは気分が良いものである。

 沖田は満足そうに続けた。


 「これで、隊士がいつ怪我を負っても安心ですね」


 小春は、はっと我に返るような気分だった。


 (そっか……怪我を負うのか、この人達は)


 医師代わりにこの新選組に置かれるということは、つまり彼らの怪我も小春が責任を持って診ないといけないということだ。それもただの擦り傷や切り傷ではない。小春が診るのは、元の世界でも経験しなかったような刀創だ。中には治療の甲斐なく死んでいく者もあるだろう。だが、誰がいつ、どこで死ぬのかは、新選組史に詳しくない小春には全くわからなかった。


 ただ、そんな小春にも一つだけ、知っていることがある。

 小春は沖田を見つめた。


 (……この人は、結核で死ぬんだよね)


 別に試験に出たわけでもないが、何故かそれだけは覚えていた。結核は内服薬で治る、そんな時代に生まれた小春には、結核が死ぬ病気だ、というのがいまいちピンと来ていない。治療薬が出る前は肺を切除していた、という話を聞いて「まるで癌みたい」と他人事のように思っていたくらいだ。


 小春より一つ歳下で、にこにこと無邪気な笑みを浮かべるこの男が、あの結核で死ぬなんて。

 到底信じられなかった。

 


 「どうかしました?」


 そんな小春の心中など露知らず、沖田は不思議そうに首を傾げている。小春は無理に笑みを浮かべた。


 「なんでもありませんよ」

 「そうですか。もうすぐ井上さんが帰ってくると思いますから、待っていてくださいね」


 そう言うと、沖田は部屋から出ていった。残された小春は、持針器を持っている右手をぼんやりと見つめる。夕陽が長い影を作っていた。


 この針では結核は治せそうになかった。

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