三月 鉄欠乏性貧血 ③
嘔吐描写注意
「何事だ!?」
「こっちから聞こえたぞ!」
悲鳴を聞いて駆けつけた隊士達が見たものは、向かい合って腰を抜かしている小春と馬越の姿だった。途端に、張り詰めた雰囲気が白けたものになっていく。
「おいおい、鉢合わせてびびったのか? 勘弁してくれよ」
だが、へたり込んでいる小春にとっては、それどころの話ではなかった。
(つ、土! 土食べてたよこの子!!)
普通、夜中に出歩いて土を食う人間など見ることがあるだろうか。いや、ない。今も小春の心臓はばくばくと早鐘を打っていて、変な汗が体中から吹き出ている。驚きすぎて、まだまともに声を出せないくらいだ。
その時、隊士の人垣を割って、眉間に深い皺を寄せた土方が現れた。
「氷上君……幹部ともあろう者がこんな醜態を晒して、恥ずかしいとは思わんのかね」
相当頭に来ているのか、まるで山南のような口調になっている。寝静まった夜中に悲鳴で起こされたのでは、その怒りももっともだ。
腰が抜けてまだ立ち上がれそうになかったので、小春は正座して頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。いかなる処分もお受けいたします」
「もっ、申し訳ございませんでした!」
隣で馬越が慌てて土下座したのが見える。その体はガタガタと震えていて、見ていて哀れみさえ抱かせるほどだった。
頭上から、はぁ、と土方の溜息が聞こえた。
「次やったら二人とも減給の上謹慎だ。幹部とて容赦はしない、わかったな。では解散だ」
土方の言葉に、隊士達が一斉に散っていく。
その中で行燈を持った沖田が、庭下駄を突っ掛けて降りてくるのが見えた。
「小春さん、大丈夫ですか?」
「沖田さん……すみません」
腰が抜けているのを察したのか、沖田が小春を引っ張り上げてくれた。そのまま手を軽く握られる。握られて初めて、小春は自分の手が震えていたことに気がついた。
「小春さんがあんな悲鳴あげるなんて、只事じゃないでしょう。本当に何もなかったんですか?」
「はい。夜中に出くわしたので、ちょっと驚いただけです。起こしてしまってごめんなさい」
「ふぅん……本当に?」
沖田の目が暗闇で光ったように見えて、小春はぐっと息を詰めた。だが、まさか「馬越君が砂を食べていたんです」などと本人の許可もなしに言うわけにはいかない。
小春はこくこくと頷いた。
「ほ、本当です」
「そっかぁ……」
そうは言うものの、明らかに納得していない顔をされる。
気まずさに視線を逸らすと、馬越が唇を噛み締めて俯いているのが見えた。夜闇で見えにくいが、彼の口の端にはまだ数粒の砂がついている。まるでお菓子の食べかすのように。
そういえば、馬越は沖田のことをだいぶ尊敬している様子だった。そんな馬越を前に沖田と長々話し込むのは、精神衛生上あまりよろしくないだろう。
小春は沖田の手をそっと外した。
「先に戻っていてください。私はちょっと……彼と話すことがあるので」
「そうですか。じゃ、行燈は置いていきますね」
「はい。ありがとうございます」
沖田の姿が見えなくなるのを待って、小春は馬越に向き直った。もう恐怖心は落ち着いている。
自然と目尻が釣り上がった。
「……さっき食べたもの、全部吐き出しなさい! 口ゆすいで、ぺっ、しなさい! ぺっ!」
「はい……」
土には身の毛もよだつような細菌やウイルスがいることもあるのだ。
馬越は井戸に連行された。
馬越が井戸水で口をゆすいでいるのを、小春は隣に立って見つめていた。気まずい沈黙が流れる。
何度かうがいをした後、馬越がぼそりと呟いた。
「どうして……」
「ん?」
「どうして、言わなかったんですか……俺が、土、食ってたって……」
その声はあまりに弱々しく、今にも掠れて消えてしまいそうだった。まるで重罪を犯して処刑を待つ罪人のようだ。
小春は小さいながらもはっきりとした声で答えた。
「私は医者ですから。患者の症状をみだりに他人に口外するような真似はしません」
「症状……? 土を食うのが?」
「はい。流石にびっくりしましたけど……今のでわかりました。多分、貴方は貧血を起こしているのだと思います。鉄欠乏性貧血、というやつです」
今思えば、真っ青な顔をして息を切らしていたのも、少し脈が早かったのも、全て貧血の症状だったのだとわかった。血液、特に赤血球は酸素を運んでいるから、貧血になると体中に酸素が足りなくなって、息切れや倦怠感などの症状が出る。やたらと小春に当たりが強かったのも、貧血でイライラしていたせいなのかもしれない。
土を食べるのは異食症といって、鉄欠乏性貧血の一症状として現れることが多い。現代では氷をひたすら食べるのが有名だが、この時代には氷がないから土を食べていたのだろう。
馬越は信じられないようなものを見る目で小春を見た。
「貧血……狐が憑いてるんじゃなかったのか……」
「はい。狐は憑きませんよ」
「……ここ数日、疲れが酷くて……なぜか土を食べてみたら、どうにもやめられなくなったんだ。それで、俺は頭がおかしくなったんじゃないかと……でもそうか、貧血だったのか」
ははっ、と、馬越はそれこそ憑き物が落ちたかのような顔で笑った。笑うとえくぼができて、随分愛嬌のある顔立ちだった。
「貧血なら俺の母も罹っていました。薬を飲めば治るんですよね」
(いや……どうだろう)
小春はその問いに、良い返事を返すことができなかった。
閉経前の女性なら、貧血はよくあるものとして片付けられる。だが男性の貧血となると、それは体内での出血など、何らかの異常を表していると考えなければならなかった。
一応、馬越は思春期で育ち盛りだから、成長に伴う貧血の可能性もなくはない。それならいいのだが。
「とにかく……今日はもう遅いし、早く寝ましょうか。また明日検査しましょう」
翌朝、小春は馬越と向かい合って座っていた。
「馬越さん。昨日は貧血だと言いましたが、なぜ貴方の体に血が足りていないのかを調べる必要があります。もう詳しく調べてもいいですか」
「はい。先生……昨日は失礼な態度を取ってしまい、申し訳ありませんでした。よろしくお願いします」
「いやいや、気にしないで」
彼の表情は、昨日初めて会った時よりもだいぶ穏やかになっていた。不調の原因が貧血だとわかってホッとしているのだろう。
だが、小春はあまり安心してはいられなかった。
一体どうして馬越は鉄欠乏性貧血をきたしたのか。体内で出血しているのか、体のどこかで血液が壊されているのか、低栄養のせいなのか、そして可能性は低いが、悪性腫瘍など消耗性の疾患にかかって貧血がおきているのか。血液検査ができない以上、身体所見と問診で絞り込んでいくしかない。
昨日のカルテを見比べながら、もう一度問診を取り直した。
「最近胃が痛くなったことはありますか?」
「いえ、昔から胃腸は丈夫です」
「便の色が黒かったり血がついていることはありますか?」
「そんなにちゃんとは見てないですけど、特にないですね」
便潜血の検査ができないから正確なことは言えないが、とりあえず消化管出血の可能性は低そうだ。男性の貧血で一番疑わなければならないのが、この消化管出血である。
小春はさらに問診を続けた。
「歯茎や鼻から血が出ることはありますか?」
「いえ、全く」
「今までに大きな病気をしたことはありますか?」
「子供の頃にはしかになったくらいです」
「なるほど」
小春はそのまま身体所見を取った。頭の先から足の爪先までのフルコースだ。
意識は清明で、身長は推定165cm、痩せ型である。体温は36度台で、脈拍は約90回/分、脈の異常を認めない。呼吸数は20回/分。
眼瞼結膜はやや蒼白で、青色強膜といって白目が青みがかっている状態になっていた。その他、リンパ節腫脹なし、心音と呼吸音とに異常なし、腹部は平坦・軟で、肝・脾を触知しない。下肢に浮腫を認めない。皮下出血や紫斑を認めない。
つまり、貧血である、ということ以外には特に異常がなかった。
(やっぱり成長期の貧血なのかなあ)
それにしてはだいぶ症状が過激な気がする。
しばらく悩んだところで、小春は一つ思い出した。
「そうだ、尿の色聞いてなかった。一番症状酷いの昨日でしたよね、尿の色はどうでしたか?」
「尿の色ですか? 見てないなぁ……厠行ってきていいですか?」
「どうぞ」
馬越は厠まで行って、その後けろっとした顔をして帰ってきた。
「どうでした?」
「普通でした」
「普通かぁ……ちなみに何色でした?」
「普通に、褐色です」
「それ普通じゃないから!!」
小春は悲鳴をあげた。
褐色尿ということはつまり、馬越は血尿を来している。尿路のどこかで出血しているのか、もしくは体の中で赤血球が壊れて溶血しているのか。
なんにせよ、鑑別疾患がかなり絞れてきたのは確かだ。
「いつも? いつもそうなんですか?」
「え、ええ、稽古を休んだ日はちょっと色が薄くなるような気もしますけど……俺、病気なんですか?」
「休むと黄色い尿になるんですか?」
「多分。そんなに小便ばっか見てるわけじゃないんでなんとも言えないですけど……」
運動後に限定した血尿。慢性的で脱水の可能性は否定的。となれば——
ぴんぽん、と小春の脳裏の電球が点灯した。
「おそらく、行軍ヘモグロビン尿症ですね」
「へも……?」
馬越が首を傾げた。
行軍ヘモグロビン尿症とは、運動など足の裏に強い衝撃がかかることで血管内の赤血球が物理的に粉砕され、血尿をきたす疾患である。大まかには「スポーツ貧血」とも呼ばれる疾患だ。運動をやめれば血尿も治るため貧血にまでなることは少ないのだが、馬越の場合は成長期で鉄の需要が増していること、そして貧血を起こしても稽古をやめなかったために重度の貧血になってしまったのだろう。
そうとわかれば早速治療だ。
小春は薬棚から鉄剤……とは名ばかりの鉄屑を出した。
「はい、お薬です。どうぞ」
「……これ鉄屑ですよね?」
「大丈夫です、私もたまに飲んでますから」
「そうですか……わかりました」
馬越は紙に乗った一包分の鉄屑を口に含むと、水で流し込んだ。
その次の瞬間だった。
「おぇええええっ」
「わぁああっ!」
まるで毒を飲まされたかのように、馬越の胃袋から水と鉄屑が勢い良く吐き出されたのだった。




