三月 鉄欠乏性貧血 ①
新選組常駐医師、氷上小春の朝は早い。
まずは朝の回診。腕を負傷している山南総長を始め、風邪、捻挫など、調子の悪い隊士達を手早く診察し、カルテに状態を記載していく。
それが終わったら、溜まっている雑務をこなす。
患者の治療計画を立てたり、井戸水を沸かして清潔な蒸留水を確保したり、使い終わった晒布を煮沸して消毒したり、その間にも頻繁にやってくる患者の相手をしたり——
「氷上先生、今よろしいですか?」
「あ、はい! すぐ行きま……あーっ!」
どさばさどたっ。
棚から降ってきたカルテの山に埋もれながら、小春は天を仰いだ。
「部下がほしい……」
それは心の叫びだった。
新選組の医師になってからというもの、小春の仕事は日増しに増え続ける一方だった。無理もない、五十人近くいる隊士の健康管理を一手に引き受けているのだ。患者の診察だけならまだしも、晒布の消毒や蒸留水の用意など、物品の管理も自分でする必要があるのは正直つらいところがある。
藤堂が病気で休養している時は、雑事を彼に頼めて大変助かったのだが、幹部である彼を雑用係にするわけにもいかない。医学的知識を持っている山崎が部下になってくれれば非常に助かるが、有能な彼は色んな仕事に引っ張りだこなのだ。残念なことに。
そんなわけで、小春はまだ特に部下を持っていなかった。だが、ずっとこの状態で過ごすわけにはいかない。いくら医師といえど、一人でできることには限界がある。
困った小春は、土方に相談しに行った。
「部下ぁ?」
「はい……」
隊士の名簿と睨み合っていた土方は、小春の「部下がほしいです」という切実な願いを聞いて顔を上げた。だがどう見ても、「全然オッケー☆」と言いそうな顔ではない。
小春は胃がきゅーっと絞られる感覚を覚えた。
(だめか〜)
確かに、藤堂の病気を診断したり、山南の怪我を治したりしたことで、新選組における小春の地位は去年とは比べ物にならないほど上がっている。が、やはり元は出自不明の居候もどきなわけだし、部下を持つには百年早かったかもしれない。
小春が項垂れていると、土方が口を開いた。
「いいぞ」
「やっぱりそうですよね……え?」
「許可すると言っている」
「え、あ、ありがとうございます!」
思いもよらなかった言葉に、小春は顔を輝かせた。だが、土方は「条件がある」と言い、小春に向かってぴっと指を一本立てた。
「部下はお前が自分で探せ。助勤以上の奴は無し、監察や勘定方も無しだ。平隊士の中で、お前の仕事を手伝ってやっても良いって言う奴にしろ」
「わかりました!」
元から平隊士の中で探すつもりだったし、土方の言う条件などあってないようなものだ。
小春は早速、部屋に戻ると募集のための貼り紙を作り始めた。
だん。道場の床を、裸足で一歩、強く踏み込む。
目を閉じる。刀を構えた敵が動くより早く、相手の胴に突きを入れる。届かない、ならばもう一度。
もっと深く、もっと鋭く、あの沖田総司にも匹敵するほどの速さで——
「おい、聞いたか? 氷上先生が、新しく医務方を作るらしいぜ」
「あの貼り紙だろ? 見た見た! 俺、ちょっと気になってるんだよな」
「……」
集中が乱れ、馬越三郎は目を開けた。
昼間だというのに、この新選組の道場にはどこか緩んだ雰囲気が流れている。隅の方では、面を取った隊士達が竹刀を置いて喋り込んでいる姿さえ見受けられた。馬越は口の中で舌打ちする。
(道場で喋ってるんじゃねぇよ)
報国の士が集う新選組の道場は、もっと神聖で厳かな雰囲気に満ちた場所でなくてはならないはずだ。馬越は常にそう思う。己の生存しか考えない獣のように、ただ国のことだけを見つめ、剣技という名の爪を研ぐ。それこそが、馬越の理想とする武士としての生き方だった。
入隊した当初は、新選組もそういう引き締まった雰囲気が流れていた。だが、最近の隊は正直緩慢としていて、集中力に欠けているように思う。先日も別の隊の伊藤とかいう平隊士が、「家の事情」という嘘だか本当だかわからない理由で脱退したばかりだ。
(皆、もっと高みを目指せばいいのに)
喋ってる隊士達は、皆馬越より実力が低い者ばかりだった。喋っているから腕が上がらないのか、それとも腕が上がらないから喋っているのか。
他人のことなんてどうでもいいはずなのに、苛立ちが止まらない。苛立つから、切っ先が震える。それにもっと苛立って、がむしゃらに稽古を続ける。
踏み込む。踏み込む。踏み込む。踏み込む——
「おーい、馬越。なにやってんだ、そんな下手くそな突きばっか繰り出しやがって」
「あ……先生」
馬越は面を取って、道場にやってきた男に一礼をした。永倉新八、馬越が所属する二番隊の隊長である。馬越が尊敬してやまない沖田と同じくらい、剣の腕が立つ名人だ。
永倉がやってきたことで、道場はにわかに活気づいた。皆いっせいに竹刀を持ち、稽古を始めている。さも半刻前から取り組んでいました、とばかりの彼らの白々しさに、馬越はまた気分が悪くなるのを感じた。
「すみません。集中が足りませんでした」
「そうか。っつうかお前、なんか顔色悪くねえか」
「え……そうでしょうか」
馬越は自分の頬を手で触った。当然ながら何もわからない。
だが永倉はじっと心配そうに馬越の顔を見て、「いや、やっぱり悪いわ」と頷いた。
「稽古に熱心になるのはいいけど、あんまり無茶すんじゃねぇぞ。藤堂だってこの前病気してたしな。お前はどっか藤堂に似てるところあるから、心配なんだよなぁ」
「ご忠告ありがとうございます。ですが、ご心配には及びません。この通り、健康ですから」
「藤堂の奴も『自分は健康だ』ってずっと言ってたけどな。まあいい、気分が悪くなったら氷上先生に見てもらえよ。じゃあな」
「はい、ありがとうございます」
道場を出た永倉の後ろ姿が見えなくなってから、馬越はぼそりと呟いた。
「誰が医者なんか行くかよ……」
医者などにかかって安静でも命じられようものなら、稽古ができなくなってしまう。医者は軽々と「大事をとって休みましょう」などと言うが、その一日の怠慢が剣の腕を衰えさせるのだ。
それに、馬越は医務室にいるあの男のことが嫌いだった。
氷上小春。
新選組の医師のくせに、剣一つ満足に振るえない軟弱者。体はひょろひょろで、竹刀で軽く小突いただけで骨が折れそうである。女のような名前をしているが、性格も女のようになよなよとしているに違いない。
沖田は特に氷上と懇意にしているが、一体氷上の何がそんなに魅力的だというのだろう。馬越から言わせれば、あんな男は武士ではない。新選組に相応しくない。にも関わらず、たかが医者というだけで幹部の一員として重宝されているのが、馬越は気に食わなかった。
「くそ……腹が立つ」
もう何もかもが腹立たしい。以前はこんなに短気な性格ではなかったはずなのに。
馬越は汗をかいた頭をかきむしった。




