閑話 ドーパミン 後編
「さて」
床几に腰掛けた沖田は、注文を済ませると、ふと真面目な顔をして小春を見た。
「本当に金の使い方を知らないんですか」
「うーん、まるっきり知らないわけではないんですけど……」
現代では当然のように一人で買い物をしていたわけだし、物を買ったら金を払わなければならないという最低限のことはわかっている。
ただ、この時代の貨幣制度はとにかくややこしすぎるのだ。まず、一両とか一分とか一文とか、金額を表す単位が複数ある時点できつい。早急に円で統一してほしいところだ。
どう教えてもらおうか迷った末、小春は口を開いた。
「沖田さんに一から説明させるのは忍びないので、私からいくつか質問する形にしてもいいですか」
「いいですよ、どうぞ」
…
「むずかしー」
沖田から一連の話を聞いた小春は、顎に手を当てて今聞いた話を整理した。
100円玉が10枚集まって1000円札になるように、この時代も銭→銀→金の順に定量的に価値が上がると思っていたのだが、話はそう単純ではなかった。
まず、金は一番わかりやすい。小判1枚が1両で、それ以下はきっちり4進法で繰り上がっていく。つまり、1両が4分で、1分が4朱、つまり1両16朱、となるわけだ。
銭も現代の硬貨と同じで、一文銭や四文銭、百文銭などがある。庶民的な買い物の際には銭さえあれば事足りるそうだ。
「普通は銭をまとめて紐に通しておくんですけど、多分土方さんそういう細かい用意するのが面倒臭かったんでしょうね」
「ひ、ひどい……まあ貰えるだけありがたいですけど」
銀はかつては重さで価値が決まるという、小春にとっては難しいを通り越して意味がわからない通貨だったのだが、最近は金と同じように1朱銀や1分銀が発行されているらしい。小春の巾着に入っているのもそれだった。
三通貨の交換レートは、金1両=銀60匁=銭4,000文という相場が幕府によって決められているのだが、実際には今の金の価値はもっと落ちているという。現在それぞれのレートがどうなっているのかは、両替商に行ってみなければわからないそうだ。
(……っていうことは、私は今いくら持ってることになるんだろう?)
金と銀のちっちゃい板がいっぱい! わーい!
……とやりたいところなのだが、先程沖田に服代を払ってもらったのでその分を返さなくてはいけない。それに今後また出掛けることになった際に、自分の手持ちがいくらか把握していないと買い物もできないだろう。
小春が難しい顔で巾着袋の中身を睨んでいると、ちょうど若い女中が注文した桜餅を運んできた。
若い、というか、十二、三歳くらいだろうか、小春の感覚からすればまだ子供だ。若草色の着物に白の前掛けがよく映えている。
彼女は沖田に向けてあどけない笑顔を浮かべた。
「沖田はん、おこしやす」
「やぁ、お鞠。今日も繁盛してるね」
「今日はお連れ様もいはるんやね。珍しい」
「ああ。この人は普段働き詰めだから、連れ出してきたんだ」
話の矛先がこちらに向いたことに気付き、小春は巾着をごそごそしていたのをやめて顔を上げた。ずっと沖田に注がれていた視線が、小春にがちりと固定される。
少女の目が見開かれた、ように見えた。
「えっと……はじめまして。素敵なお店ですね」
はにかみながら小春が会釈すると、少女がぐっと息を詰めた。その反応に、小春は困惑する。
なにか気に障るようなことをしただろうか。
だが、彼女はそのふっくらした頬を赤らめ、告白でもするかのような勢いで言った。
「あ、あの、うち、鞠いいますねん」
「そうですか。可愛い名前ですね」
「可愛いなんて、そんな……それで、あの…………許嫁とか、やっぱりいはるんどすか。お侍さんなんやったら」
いいなずけ?
一瞬なにかの漬物かと思ったが、許嫁、という脳内変換が浮かんだ。その単語があまりにも自分の人生と縁遠くて、小春は思わず笑ってしまった。
「いませんよ」
「本当?」
今の「本当?」はお鞠と沖田の二人分だった。お鞠はともかく、沖田は半年も一緒にいるんだからわかるだろう、と言いたい。
彼女はしばらく何か言いたげにしていたが、沖田がなにか思い出したかのように、くすりと笑って水を差した。
「でもお鞠、この人に惚れると火傷しちゃうよ」
「えっ、そうなん?」
「うん。この前も、貰った恋文ほとんど読まずに捨ててたし」
「ええっ!」
今の「ええっ」はお鞠と小春の二人分だ。小春は愕然として沖田に詰め寄った。
「恋文ってなんですか。私そんなことしました?」
「ほら、もう覚えてないんだよ。ひどいよね」
「え……そうなん……それはちょっと……」
お鞠の顔にみるみる軽蔑の色が浮かぶ。いや、ほぼ初対面の少女に、なぜそんな顔をされなくてはいけないのか。しかも(記憶にないが)冤罪に近い理由で、だ。
小春は慌てふためいた。
「いや、多分、何かの誤解ですって、絶対。覚えてないけど」
「はは、やっぱり覚えてないんだ」
「お侍さん……女を侮ると怖いで」
お鞠は渋い顔でそう言い残すと、入ってきた次の客のところへ向かって行った。
「はぁ、危なかった。お鞠が一生叶わない恋に落ちるところだった」
沖田が胸を撫で下ろして何か言っているが、小春には届いていない。読まずに捨てたという恋文について真剣に考えている。
やがて、ぴんぽーん、という効果音と共に、頭の中で電球が付いた。
「あ! 思い出しました。先月のあれですね」
隣を見ると、沖田は先程の会話にはすっかり興味が失せた様子で、幸せそうに桜餅を食べ始めていた。
「小春さんも、早く食べないと乾いちゃいますよ」
「えっ、あ、いただきます」
小春も桜餅を齧った。思ったより甘さが控えめで美味しい。塩漬けの桜の葉のアクセントが効いていて、つい夢中になって黙々と食べ進めてしまった。
恋文の話、つまり先月のあれ、というのは、前に一度だけ会った芸妓から届いた手紙のことだった。
手紙は崩し字で書かれていたので、小春には全く読めなかった。困って山南に見せたところ、「こんなものを真面目に受け取ってはいかんよ、氷上君」と哀れみの視線を貰ったのだ。多分、「またお店に来てください」という営業活動の手紙だったのだろう。
だから、沖田の言葉は「読めずに捨てた」というのが正しい。
しかも、その話には続きがあるのだ。
桜餅の最後の一欠片を飲み込み、茶を啜ってから、小春はほぅと息を吐いた。
「……確かに、すっかり忘れていました。そういえば、あれを貰った後、土方さんに疑われて大変だったんです。妓女からに見せかけた、故郷からの手紙なんじゃないかって。困っちゃいますよねぇ、故郷から手紙が来ることなんてありえないのに」
「どうしてですか?」
「どうして、って……」
小春は、あっと息を呑んだ。
沖田の双眸が、射抜くような力強さで向けられていたからだ。そこで初めて、小春は自分が軽率に故郷の話をしてしまったことに気が付いた。
(しまった)
冷や汗が流れる。だが同時に、誤魔化し続けるのに疲れた自分も顔を出す。
いっそ、吐いてしまうべきだろうか。自分が未来から来たのだということを。
(……それを言ったら、どうなるんだろう)
驚かれるのは間違いない。問題はその後だ。
予測できる様々な反応のパターンが、小春の脳内を駆け巡る。未来の出来事を話して、新選組の人々を凄惨な末路から救える未来。真剣に取り合ってもらえない未来。または、歴史の真実を前に、彼らが膝を屈する未来。
(……もし、彼らの希望を奪ってしまうのなら、私は……)
小春の喉がごくりと鳴る。
だが小春が何か言う前に、沖田はふっとその緊張を崩し、いつもの柔らかい微笑を浮かべたのだった。
「すみません、詮索してしまいました。もう日が暮れそうですね、帰りましょう」
「えっ」
あっさり話を切り上げると、沖田は席を立った。日が暮れそう、と言うが、まだわずかに日が傾いているくらいだ。小春は呆気に取られたが、まだ甘味処での用事を済ませ切っていないことに気が付いた。
「服代! 私、まだ沖田さんに服代を払ってません」
小春が巾着を探っていると、「そうか、まだ言ってませんでしたね」と、立ち上がった沖田が顔を近づけてきた。
そのまま、耳元に吐息がかかるほどの近さで囁かれる。
「貴方からは受け取れません。私は、貴方のことを女の人だと思っていますから」
足に力が入らなくなった。
硬直している小春をそのままに、沖田は二人分の勘定を済ませて店を出て行こうとした。彼の耳が赤く見えるのは気のせいか。
いや、そんなことより、本当に置いていかれそうだ。小春も慌てて後を追った。
「ま、待ってください……!」
屯所への帰路につく沖田の足取りは、信じられないほど速かった。小春は小走りで追いつこうとしたが、慣れない草履で走るのは難しく、何もないところで躓いた。
「きゃあっ」
生娘のような声が出てしまい、ぱっと口を手で抑える。慌てて周囲を確認するが、壬生の方へ続く道は人通りがほとんどなく、沖田と小春以外には誰もいなかった。
小春は溜息をつくと、その場で膝に手をついた。
顔が燃えるように熱かった。
(だめだ……腑抜けてる)
沖田に女扱いされたから何だというのか。いくら男装しているとはいえ、そもそも小春は女なのだし、彼はただ事実を言ったに過ぎない。だから、小春が顔を赤くする理由はないのだ。ないはずなのに、身体の反応は往々にして精神を凌駕してくる。迷惑なことだ。
小春は目を固く瞑り、呪文のように唱えた。
「別に私は照れてるわけじゃないし女の子みたいな悲鳴なんてあげてないあれはただちょっと驚いただけ……」
「小春さん、大丈夫ですか?」
「うわーっ!!」
目を開けるとすぐ近くに沖田の顔があり、小春は悲鳴を上げて飛び退いた。今の悲鳴はぎりぎり合格点だ。
沖田の眉間に、まるで土方のような深い皺が寄った。
「人を化け物みたいに……」
「ち、違います。これは、悲鳴を上げる練習です」
「悲鳴を上げる練習?」
「はい」
「なんだそれ」
はは、と沖田が明るい笑い声をあげる。あんたのせいだ、と言いたくなるのを堪えて、小春はもう一度溜息をついた。話を変えようと思った。
「……故郷の話なんですけど」
その途端、沖田の双眸がはっと見開かれる。
だが、特に期待に添えるような話ではないのだ。罪悪感から、小春は彼の顔を見ずに言った。
「今はまだ、言えません……すみません。でも、いつか言えるようになったら、必ずお伝えします。貴方に、一番に」
言い終えて隣を見ると、沖田は優しい微笑を浮かべていた。
「はい、お待ちしています」
(……ああ)
その顔を見て、小春はふと半年前のことを思い出した。タイムスリップした直後、不埒な輩に誘拐されそうになったのを沖田が助けてくれた時のことが、ありありと瞼に蘇った。
——あの時、助けてくれたのが沖田で本当に良かった。
小春は心の底からそう思った。自然に、唇が動いた。
「ありがとう」
その言葉に半年分の思いが籠もっていることなど、沖田は知らないだろう。それでも彼は、とびきり嬉しそうに笑って頷いた。
「帰りましょう、小春さん」
「はい!」
現代的価値観において、これをデートと呼んでいいのかはわからない。
でも、できればそう呼びたいな、と小春は思った。




