閑話 ドーパミン 前編
今日は沖田と外出する日だ。外はすっきり晴れて暖かく、絶好のお出かけ日和である。
着替えて医務室の表に「外出中」の札をかけた小春は、部屋の中央で巾着袋と睨み合っていた。
(お金って……どのくらい持っていったらいいのかな)
巾着の中には昨日、土方がまとめて渡してくれた給料が入っている。現代のような紙幣ではなく、「時代劇で見た」としか言いようのない金や銀の板だった。
歴史に詳しくない小春は、当然この時代の貨幣価値を知るはずもない。それどころか、支払いのシステムもよくわかっていない有様だ。島原では年末にまとめて後払いしていたのを覚えているが、他の店もあんな感じなのだろうか。
小春が顎に手を当てていると、廊下から足音が聞こえてきた。その足音は医務室の前で一旦立ち止まったかと思うと、数秒の間を置いて声がかけられた。
「おはようございます、小春さん。沖田です」
「どうぞ」
からりと障子が開く。
沖田は落ち着きなく視線を漂わせていたが、小春の目の前の巾着を見つけると、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたんです、それ」
「土方さんにもらったんです。今まで働いた分のお給料だって」
「えっ、良かったですね! これで好きなものが買えるじゃないですか」
「それなんですけど……」
小春は恥ずかしさに顔を赤くして口籠った。
「あの、お金の使い方が……よくわからなくて……」
爆笑、のち、揶揄。
そんなリアクションを想定していた小春はぎゅっと目を閉じたが、沖田は「ああ」と明朗な声を上げただけだった。
「私が持ちますよ。誘ったのは私ですし」
「え!? いや、違うんです、そういう意味で言ったんじゃなくて、その……できれば、お買い物に付き合ってほしいな、って……」
言ってから、小春は目を伏せた。
(忙しいかな)
相手は新選組の一番隊隊長だ。甘味処に行く時間はあっても、流石に小春の買い物にまでは付き合っている時間がないかもしれない。
だが、金の使い方を知らない話は、できれば沖田にしかしたくなかった。沖田なら「お姫様だから」というどこまで本気にしているのかわからない理由で納得してくれそうだが、他の人間がそれで納得してくれるとは思えない。
おそるおそる顔を上げた小春は、しかし眉をひそめた。
「沖田さん?」
口を「え」の字に開いたまま、沖田がフリーズしていたからだ。硬直した沖田を見るのは、去年に聴診器を貸した時以来二度目である。
また何か変なことを言っただろうか。それとも、断り文句を考えているのだろうか。
とりあえず快い返事はもらえなさそうで、小春は眉尻を下げた。
「……やっぱりお忙しいですか」
その言葉に、沖田は雷に打たれたように跳ね上がった。
「ぜっ、全然! 全然暇です! 行きましょう、買い物でも討ち入りでも何でも!」
「いや、討ち入りはちょっと」
再起動した沖田は、出動時のような俊敏さで立ち上がると慌ただしく部屋を出ていこうとした。が、鈍い音と共に鴨居に激突し、無言でしゃがみこんだ。
パソコンで言えば、「調子が悪いので修理に出す」一択である。
小春は沖田に駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫です……あと、小春さん」
「なんでしょう」
「危ないので小判は置いていってください」
「あ、はい……」
こうして、小春と沖田のデートは慌ただしく始まった。
屯所にいる時は気付かなかったが、外を歩いてみると、思ったより風が冷たかった。
小春は沖田の額に浮かぶ痣を気にしながら、その隣を歩いていた。沖田が居心地悪そうに肩をすくめる。
「そんなに心配しなくても、もう痛くないので平気です。それに……格好悪いのであんまり見ないでください」
「そうですか? わかりました」
怪我を見るとつい医者としての血が騒いでしまうのだが、沖田が嫌がるならしょうがない。
小春は視線を外し、現代とは似ても似つかない四条通の町並みを眺めた。
(ビルがないなぁ)
両脇にずらりと広がるのは、どれもせいぜい二階建て止まりの木造家屋ばかりで、やたらに空が広く感じられた。当然ながら自動車も走っておらず、たまに荷物を載せた馬車が通るくらいだ。それなのに、町を歩く人々の活気だけは、今も昔も変わっていない。
小春がきょろきょろと首を動かしていると、沖田がくすっと悪戯っぽく笑った。
「何を買いに行きましょうか。着物? 扇子? 簪でもいいですよ」
「あのねぇ……あ、でも服はほしいです。男物の」
支給された分で事足りてはいるが、万が一患者の血や体液で汚染された時のことを考えると、予備は何着か持っておきたい。
沖田は「それなら」と、小春をある店へ連れて行った。
「古着屋です。ここのは清潔だし、長持ちするので気に入ってるんですよ」
「わぁ……!」
小春は感動の声を上げた。
店内にはたくさんの服が陳列されていて、人で賑わう様子はあたかも現代の服屋のようだった。しかし、そこに並んでいるのは全て和服である。シンプルな下着からきらびやかな打掛まで何でも揃っており、さながら江戸時代版のファストファッション店と言ったところだ。
つい華やかな女物を見てしまいそうになる足を堪えて、小春は地味な男物の衣服を手にとった。
「うーん、どうせ汚れる服だし安いのでいいかな……でもなー……」
「これなんか似合うんじゃないですか?」
「あっ、良いですね」
沖田が差し出したのは、青みを帯びたグレーの長着だった。色味に品があり、なかなか質が良さそうに見える。
小春が頷いていると、店員と思しき男性が揉み手混じりに近寄ってきた。
「旦那はん、ええもん見つけはりましたなぁ。そちら、とんでもないお値打ち品どす。今なら800文でご提供させていただきまひょ」
「はっぴゃくもん……」
高いのか安いのかわからない。
ちらりと沖田を窺うと、彼は考え込むように口元に手を当てていた。
「それだけするんだったら、いっそ仕立てちゃった方が良いかもしれませんね」
「仕立てる?」
「はい。新しく良い服を作ってもらって、今着てるものを仕事着にするんです。そしたら、買ったばかりの服を血で汚す心配もしなくて済みますし」
「血?」
店員の顔が引きつっている。その顔を見て、沖田が補足した。
「彼は医者なんです。よく怪我人を見るので、着物に血がついてしまってだめになることも多いんですよ」
「おぉっ! いやはや、お医者さまとは露知らず、これは失礼を致しました」
「え、いや、まあ……」
店員の目がひときわ輝いたように見え、小春は言葉を濁した。なんというか、現代で「医学部生です」と明かした時の反応に似ている。
沖田は困ったように腕を組んだ。その困り方がわざとらしく感じるのは、気のせいではないはずだった。
「うーん、でも困ったなー。着物に血がつく度にいちいち仕立てるのももったいないですし、贔屓にできる古着屋があると良いんですけど」
「そんなんもう、ぜひうちにおまかせください。700文に負けさせていただきまひょ」
「じゃあこっちの半襦袢も買うから600文で」
「毎度!」
目の前で行われる値段交渉の応酬を、小春はぽかんと口を開けて見守っていた。
(すごい、ついていけない)
物の価値も相場もわからない小春一人だけだったら、ただ店員の言い値で買うだけだっただろう。沖田がついてきてくれて本当に良かった。
沖田から代金を受け取った店員は、風呂敷に衣服を包みながら「せや」と名案を思いついたように顔を上げた。
「お品物、医院の方までお届けさせていただきますわ。ご住所はどちらで?」
「えっと、医院っていうか……」
「お気持ちだけで十分ですよ。お忙しいでしょうし、うちには病気の患者も多いですから。ね?」
沖田の顔には「合わせろ」と一面に書いてあったので、小春はこくこくと頷いた。
「うつる病気のこともあるので、本当にお気持ちだけで結構です。ありがとうございます」
「そうどすか? ほなお言葉に甘えさせていただいて、こちらお品物どす」
「どうも。また来ます」
「どうぞご贔屓に」
店員から風呂敷包みを受け取って、二人は店を後にした。
往来に出たところで、小春は自分の懐から巾着を出した。
「すみません。払います」
「別にこれくらい出しますよ」
「だめです。それに、そうされるといつまで経ってもお金の使い方を覚えられないじゃないですか」
沖田は目を丸くしたが、やがて「それもそうだ」と噴き出した。
「とりあえず、甘味処に行きましょうか。そこで精算しましょう」
「そうですね、お腹も空いてきましたし」
来た道を、今度は西の方へ戻っていく。甘味処に行く道すがら、小春は沖田に聞いてみた。
「あの、沖田さん。さっき、どうして……」
「新選組の隊士だって言わなかったのか、ですか?」
「はい」
沖田は気まずそうに笑った。
「私達、あまり京の人々によく思われてないみたいなんですよね」
「え?」
小春は耳を疑った。
現代であれだけ人気だった新選組のことだ。きっと町の人々にも愛されていたに違いない、と思っていたのだが。
嫌われている?
確かに、初めて沖田に会った時も、長州の間者を取りまとめていた女を逮捕した時も、町の人々は新選組のことを遠巻きに眺めているだけだった。その時は刀を持っている人間のことを恐れているだけだろう、と思っていたのだが、どうやらそれが理由ではなかったらしい。
小春は腑に落ちない気分で言った。
「でも……新選組は京の治安を守っているんですよね」
「まぁね。でも、不逞浪士が町の人々に直接何かしてるわけではないですから。狙われるのは幕府のお偉い方や豪商が主ですし、人々には不逞浪士が義賊か何かに見えているのかもしれません」
「えー……」
沖田の言っていることは確かに納得できるものだったが、それでも小春は漠然とした不満を隠せなかった。
それは、その嫌われている新選組に自分が属しているから、という理由ではなかった。
「みんな頑張ってるのに……」
京や大坂の治安を守るために奔走している彼らの努力を、もっと他の人にも認めてほしかったからだ。
(本当に命がけで頑張ってるのに)
小春がむくれていると、沖田の手が頬に伸びてきた。
そのまま、片手で両頬をむにっと掴まれる。
「ぬぬふうんづふく」
「ぷっ、変な顔」
「貴方がやったんでしょう!」
「ふふっ、そうですけど、思った以上に変な顔で、あはは」
目尻に涙を浮かべて笑う沖田を見ていると、なんだか頬が緩んできて、そのうち小春も笑いをこらえきれなくなってしまった。
ひとしきり二人で笑いあった後、沖田は涙を拭って言った。
「小春さんがそう言ってくれるだけで、私は満足ですよ」
そう言って笑う沖田の顔がやたら眩しく見えて、小春はさっと頬が熱くなるのを感じた。
「そっ、そうですか」
「はい。あ、お店が見えてきましたよ。行きましょう」
沖田が甘い匂いのする店へ入っていくのを、小春も頬の熱を冷まして追いかけた。




