二月 ストレス ⑤
局長室には張り裂けそうなほどの緊張が満ちていた。
難しい顔でむっつりと押し黙る近藤、能面でも貼り付けたかのような無表情で座している山南、近藤より更に険しい顔で腕を組む土方。そして部屋の端には、不安と緊張と動揺をありありと顔に浮かべた小春が縮こまっている。
「で」
口火を切ったのは土方だった。
「右腕が動かなくなった以上、もはや物の役にも立たない自分がこの隊にいる意味はない……と。そういうことだな、山南さん?」
「その通りだ」
山南は表情筋一つ動かさずに頷いた。その瞳は、さっきから一度も小春を見ようとしない。反論されるのが目に見えてわかっているからだろう。
代わりに、土方が小春を見やった。
「右腕が回復する見込みがない、というのは本当か、氷上君」
「……微塵も動かせないまま、というわけではありません」
小春は小さいがはっきりとした声で答えた。
「年単位の時間はかかりますが、いずれは肩を上げたり、物を持ったりなど日常生活に必要な動作は可能になると思います。……ですが、それでも部分的に麻痺や痛みが残ることが多く、完全に機能を回復した例は今まで見たことがありません」
「そうか」
近藤や土方には、その事実を伝えるのは初めてだった。近藤はまるで自分の右腕が失われたかのように辛く悲しい顔をする。
だが、土方は眉間にぐっと力を入れ、まるで熱された蒸気を吐き出すかのような溜息をついた。
「山南さん……あんたを辞めさせるわけにはいかねぇ」
「何だと?」
その時、初めて山南は顔色を変えた。
怒りのような悲しみのような何かを吐き出そうとして、必死に堪えているかのような表情だった。
「……土方君、私や氷上君の話を聞いていたのか? 私にはもう剣は扱えん。そんな者が組の上に立っていては、皆に面目が立たないだろう。新選組総長山南敬助は、岩城升屋で死んだのだ。そう思ってもらいたい」
「死んだというなら、再び生まれ直した気で働いてもらおう。あんたにはやってもらわねばならない仕事が山ほどあるんでな」
「生憎だが、今の私には筆を取ることすらできないのだ。土方君、君に少しでも私を憐れむ気があるのなら、どうか黙って脱退を認めてくれないか」
「いいや断るね。腕なら、あんたの左にもう一本ついてるじゃねぇか。右腕が使えなくなりゃ、左腕で戦う。それが漢ってもんだろ」
「……そう言われても、すぐに左腕が右腕と同じように使えるわけではなかろう。君にはできるのかもしれないが」
「ふ、二人とも落ち着いてください」
だんだん険悪になってきた二人のやり取りに、小春が割って入った。
「左で刀を扱うにしてもそうでないにしても、まだ山南さんの右腕は治療が必要な状態です。山南さんの主治医として、少なくとも今は脱退を認めることはできません」
少なくとも今は、の辺りで土方の鋭い視線を感じたが、事実なのでどうしようもない。
土方、山南、そして小春の三人が黙りこくっていると、近藤が口を開いた。
「山南さん。貴方がどうしても辞めたいというのなら、俺達に止める術はないと思う」
「近藤さん!」
まさかの言葉に土方と小春はぎょっとして近藤を振り返ったが、近藤はどっしりと落ち着いた佇まいで、穏やかな笑みを浮かべるだけだった。
「だが、ただ剣客のみが新選組の隊員というわけではないだろう。偵察に優れる者、算術に優れる者、軍略に優れる者、そして医術に優れる者、様々な人間が集まって組織というものは成り立っているんだ。山南さん……貴方の武器は、剣だけだっただろうか」
土方も、小春も、山南も、はっとしたように近藤を見た。
そこにいるのは紛れもなく、この新選組の長であり、まさにそうであるべき人物だった。
「貴方が剣以外でこの組の役に立ったことがただの一度も無いというのなら、俺は黙って貴方を送り出そう。だが、そうではなかったはずだ。貴方の叡智や教養に、俺は何度も助けられてきた。山南さん、貴方にまだ俺達を助けたいという思いがあるのなら……どうかこれからも共にいてくれないか」
「そ……そんな!」
顔を上げた山南の瞳には、涙が浮かんでいた。無理もない。直接言葉をかけられたわけではない小春でさえ、目に熱いものがこみ上げるほどだった。
「本当に良いのか。私のような者が、ここにいても」
「勿論だとも、俺達には山南さんが必要なんだ」
「近藤さん……!」
涙ながらに近藤と手を取り合った山南は、それから土方と小春を振り返った。
「騒がせてすまなかった、土方君、氷上君。これからも、よろしく頼む」
「もちろんです!」
元気よく頷くと、小春はほっと息を吐いた。
(良かった……山南さんが脱退することにならなくて)
許可なき脱走の場合と違い、今回は一応理由のある脱退なので新選組を抜けても山南が切腹させられることはない。それでも、半年以上お世話になった人物がこんな形で組を去ってしまうなんて、あまりにも辛すぎる話だ。思いとどまってくれて本当に良かった。
近藤が早速相談したいことがあるというので、小春と土方は揃って局長室を後にした。
これでようやく全ての重荷から開放された小春は、梅香る春の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「土方さん、良かったですね! いやぁ、一時はどうなるかと思いましたよ」
「ん、ああ……」
明らかな生返事に小春が振り向くと、土方は何故か浮かない顔をしていた。
本当に同じ光景を見ていたのか疑わしいくらいの表情の違いだ。
(山南さんが残ってくれて、嬉しくないの?)
そう思ってから、すぐに違う、と否定した。山南に出ていってほしいならば、残った左腕を酷使してまでも隊の役に立て、とは言わないだろう。普段理性的な土方が、あそこまで無理を言うのも珍しいことだった。
「どうかしましたか?」
小春が尋ねると、土方は感情の見えない瞳でじっと小春を見た。
「なぁ。もし山南さんがもう治療を必要としない状態だったとしたら、お前は引き止めたか?」
「えっ? 勿論ですよ。あれは、私も山南さんに残ってほしくて必死で、とりあえず真っ当な言い分を探したんです」
そうか、と短く返す土方の言葉からは、彼が小春の返答に満足しているのかを読み取ることはできない。
いよいよ、小春は目の前の男が何を考えているのかわからなくなってきた。
(黙ってると余計に怖いな……)
次の角を曲がった辺りで別れようか、などと考えていると、土方がふと呟いた。
「山南さんは難しく考えすぎるんだ」
ぽつりと零したその言葉が、なぜか少年の愚痴のようにあどけなく聞こえて、小春は隣を仰いだ。
「あの人は俺みたいに剣一本、士道一本で生きてるような男じゃねぇ。正義だの道徳だのと、もっと小難しいことを考えている。昔からそういう男だった」
「悪いことですか?」
小春もどちらかといえば難しく考えすぎる方であり、頭を使うのが仕事でもあるから、山南の方がまだ近しく感じられる。
そんな小春の疑問に、土方は眉を吊り上げるでもなく、ただその横顔を曇らせるだけだった。
「なまじ学があると、この世の中は生き辛い。考えない方が幸せなことだってあるんだ」
「…………」
「……まぁ、それはもういい。そんなことより」
土方はにやりと口角を上げて小春を見た。
「お前、明日総司と出かけるそうじゃないか」
「へ!?」
思わぬ方面から言葉の豪速球を受け、小春は素っ頓狂な声を上げた。
「い、いや、その通りですけど……どうしてそれを」
「ふっ、そんなに動揺すんな。たまたま総司から聞いただけだ。そんなことより、ほれ」
「わっ」
土方は懐から巾着を投げた。慌てて受け取るが、運動神経の良くない小春は危うく取り落しそうになった。
それにしても、重い。想像の二、三倍くらいの重さだ。
小春が訝しげに袋を見つめていると、土方がふふんと笑った。
「迷惑料だと思って受け取れ。今までの働きの分も込みだ」
「えっ、お金ですか?」
「それ以外に何がある。明日、出かけるついでに買い物でもしてこい。助勤の氷上先生ともあろう者が、衣服は支給品だなんて格好がつかねぇだろう」
「これからは全部自分で買えってことですか」
「そういうことだ」
「あ、ありがとうございます……」
「じゃあな」
土方は金だけ渡して颯爽と部屋に帰っていく。現代ならば泣いて喜んでいただろうが、今の小春には素直に喜んでいられない事情があった。
小春はずっしりと重い巾着を見つめた。
(お金……どうやって使うんだろう……)
あまりにも情けない話なので言えなかったが、小春はこの時代における金の使い方を知らなかったのだ。
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