八月 タイムスリップ ④
首元にある刀が皮膚を切ってしまわないように、小春は歯を食いしばって震えを堪えていた。
叫びだしてしまいたいほど恐ろしい。
それでも、小春は頑なに口を噤んでいた。
(未来から来たなんて、言えるわけがない……!)
それは、言えば面倒臭いことになるという自分の為が半分。
そして、言えば相手の心を乱してしまうだろうという相手の為が半分だった。
目の前の人間は、歴史の敗者だ。それは小春一人がどうこうしたところで覆るものではない。もっと大きな歴史の流れにおいて、彼らはその敗北を約束されている。
小春が未来から来たとわかれば、彼らは未来を知りたくなってしまうだろう。少なくとも小春だったら、知りたくなる。直接聞くまではしなくとも、目の前に現れた未来人の一挙手一投足から、未来はこんな感じだろうかと予測する。そして落ち込んだり、迷ったりするだろう。自分の信じていたものが、揺らいでしまうこともあるかもしれない。
彼らの心中にそんな大きな石を投じるのは、小春は嫌だった。
たとえ、そのせいで自分が死んでしまうとしても。
(でも、本当に殺されちゃうとは思ってなかったな……)
小春が目を閉じかけた、その時だった。
「歳、やめてやれ。怯えているじゃないか」
近藤が座したまま、土方をそっと制していた。その言葉に、土方から滲み出る殺気が少し薄らいだ。
「だがな、近藤さん……この女、間者の可能性もあるんだぞ」
(患者?)
別にどこも悪くないです、と心の中で小春は言った。まるでそんな小春の心を読んだかのように、沖田が笑った。
「土方さん、私はこの人は間者ではないと思うな」
「なぜだ」
「歩き方に特徴がありすぎます」
部屋を歩いてみろ、と土方に促され、小春は立ち上がった。膝が震えて足に力が入らなかったが、それでもなんとか、部屋の隅から隅まで歩いてみせた。
それを見て、近藤と土方が黙り込んだ。
(あれ……?)
小春は不安になった。歩く、という当たり前のことを、ただ当たり前にやっただけである。それがなぜ判断材料になるというのか。
実は、この時代の日本人は今の日本人と歩き方が異なっており、あまり上体を揺らして歩くことはしなかったのだが、それを小春が知っているわけがない。
しばらく部屋に沈黙が降りていたが、やがて土方が立ち上がった。
「まだ鞄の中身を見てなかったな。見せろ」
どうぞ、と小春が言うまでもなく、鞄がひっくり返された。
真っ白な白衣の上に、筆箱ほどの大きさの縫合練習用キットがぽすん、と落ちた。
「これは……」
「あの、私、蘭方医学を学んでいるんです。それで……」
それ以降は、続かなかった。
ぐらり、と視界が揺れた。
「歳!」
「土方さん!」
声が遠く聞こえる。その声に、小春は今自分が胸ぐらを掴まれているのだと、やっと理解した。
目の前に、鬼のような土方の顔があった。
「てめぇ、いい加減にしろ……女の身で医学を学ぶなんてあるわけねぇだろうが! 医師を騙ってまで生き延びてぇのか、てめぇは!」
「騙ってなんかいません……!」
――窮鼠猫を噛む、とはこのことなのか、小春は自分の襟を掴む土方の腕を掴んでいた。鋭い迫力のある土方の瞳をまっすぐ見返し、そして見返す度胸が自分にあることに驚いた。
「そもそも私は医者じゃない、医学生です。それでも、ずっと努力してきたし、病気のことなら詳しいつもりです。傷口だって縫えます……試してみますか? 私の脚を斬って」
前半はともかく、後半はハッタリだった。練習キット相手には何度も傷口を縫っていたが、流石に人体相手にはやったことがない。というか、医学生である小春が、指導医の立ち会いもなしに縫合などという医療行為を行うのは、少なくとも元の世界では法に引っかかる。
それでも、このくらい言わなければ助からないだろうというのを、小春は肌で感じていた。
「…………」
しばらく、土方と小春は見つめ合っていた。が、やがてその腕から力が抜けた。
「……悪かった」
(えっ……)
小春は目を見開いた。まさかこの鬼のような男から、謝罪の言葉が出てくるとは思わなかったからである。
そうなると、小春もムキになって反論したのが恥ずかしくなってきた。
「いえ、私こそ……失礼しました」
急に白けた場の雰囲気を改めるかのように、近藤が咳払いをした。
「それで、君はこれからどうするつもりなんだね。君の家がわからないと、我々としてもどうしようもない」
(来た……)
土方と睨み合った手前、こんなお願いをするのはとても気まずい。だが、そうでもしないと小春には身寄りがない。
小春は手を指先まで揃えると、畳に額を付けた。
「お願いします、私をここに置いてください」
「はぁ!?」
土方の口から素っ頓狂な声が上がった。小春は顔もあげないまま続けた。
「掃除でも洗濯でも、内科でも外科でも何でもやります。なのでここに置いてください」
その言葉に、沖田が困ったような声音で言った。
「……小春さん、正気ですか? ここがどこだかわかっていて言っているんですか?」
「正気です。本当に身寄りがないんです。貴方が助けてくれなかったら、私は今頃息をしていないと思います」
小春の言葉に、沖田は「確かにそうかも」と小さく零した。あのまま沖田が通りかからなければ、小春の生死はともかく、人としての尊厳は確実に失われていただろう。
「…………」
その場に何か諦めたような沈黙が降りて、やがて近藤が声を発した。
「わかった。面倒を見てやろう」
「ほ、本当ですか……!」
小春は体中から震えが来るのを感じながら、思わず顔を上げていた。今にも顔面が崩れて泣いてしまいそうになるのを、気力だけで堪えている。
近藤は頷き、ただし、と付け加えた。
「いくつか条件がある」
その条件とは、
新選組にいる以上、男として過ごすこと。
隊内の怪我人や病人を無償で治すこと。
役に立たないようならば追い出すこと。
それと、しばらく近藤や土方の許可が出るまでは、与えられた部屋から出てはいけない、ということだった。
どれも命に比べれば軽いなどというレベルのものではない。小春はこくこくと頷いた。それを見て、土方が溜息をついた。
「しばらくって、一月近くは出せねぇぞ。本当に良いんだな」
小春は目を瞬いた。先程までは小春に敵意を剥き出しにしていた土方が、小春を一ヶ月ほど部屋に閉じ込める事に対し申し訳無さを抱いているような、そんな声音だったのだ。
小春はふっと溢れるような笑みを浮かべた。
「大丈夫です。引き篭もりは得意ですから」
そう言った後、目の前の三人に向かって、
「置いてくださってありがとうございます。精一杯頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」
もう一度頭を下げた。
すると、土方がふい、とそっぽを向いた。
「せいぜい殺されねぇように身の振り方を気をつけるんだな」
「は、はい」
まるで悪役のような台詞を吐いて、土方は近藤の部屋から立ち去っていった。その途端、いよいよ緊張という緊張が崩れて、小春ははぁあ、と芯のない溜息をついた。
(助かったんだ)
しかも食い扶持も見つかった。小春の人生の中で、今日ほど医学を学んでおいて良かったと思った日はなかった。
土方の足音が去っていくのを確認して、沖田がくすくすと忍ぶように笑った。
「土方さんも人が悪いなあ。胸ぐらまで掴んじゃって」
「氷上君、歳のことをあまり悪く思わないでやってくれないか。その……あいつはあいつなりに色々考えているんだ」
申し訳無さそうな近藤の言葉に、小春は微笑んで頷いた。
「わかっています」
というか、小春の正体を疑いもせずにほいほい仲間に引き入れるような組織だったら、小春もあまり入りたくなかったかもしれない。これでも想定よりはだいぶスムーズに話が進んだほうだと思っていた。
近藤は小春の顔を見て、目を柔らかく細めた。
「では、君の部屋に案内しようか。総司、頼めるか」
「ええ」
促された沖田が、「行きましょうか」と声をかけ、障子を開けようとする。
が、その動きを止めた。
「……どうしました?」
小春がいつまで経っても立ち上がらないからだ。近藤も心配そうに小春の様子を窺っている。
そして、小春も内心で非常に驚いていた。
「あの……すみません、腰に力が入らなくて」
今日が小春の人生で初めて腰を抜かした日だった。
「…………」
それから。
「う……こ、これは、すごく嫌です」
「我儘言わないでくださいよ、姫様」
嫌がる小春を沖田が負ぶさる形で、二人は近藤の部屋から辞去した。
幸いなことに、あてがわれた部屋に入るまで、小春は誰ともすれ違わなかった。沖田の背中から降りて畳に足をつけた頃には、小春の腰にも十分力が入るようになっていた。
「すみません、お手数おかけして」
「いいえ。むしろ、運んだのが私なんかですみませんね、姫様」
(こいつ……)
くすっと笑った沖田を、小春は半目で睨んだ。小春が高貴な身分でもなんでもないとわかっていて、からかっているのだ。
睨んでおいて、小春は「あっ」と声をあげた。
「これ、お返しします。ありがとうございました」
「あ、ああ……」
今に至るまで、沖田から新選組の羽織を貸してもらっているままだったのだ。小春が羽織を脱いで手渡すと、沖田は妙に赤い顔をして目をそらしていた。
(そんなに酷い格好なんだろうか……)
確かに今着ている服はノースリーブで、元の世界でも露出度が高い部類に入るものではあるが、こうまで露骨に目をそらされると心が傷つくというものである。
返してもらった羽織を手にとって、沖田はあらぬ方向を見つめたまま言った。
「私達の都合でしばらくはご不便をおかけすると思います。世話役には井上源三郎さんという方がつくと思うので、何かあればその方におっしゃってください。では、私はこれで」
「は、はい」
早口にそう言うと、あっという間に部屋から出ていってしまった。遠ざかる衣擦れの音を聞きながら、小春はまだ自分が沖田に助けてもらった礼を言えていないことに気がついた。
(ま、今度会ったときで良いか)
なにせ今の彼らは非常に忙しそうである。こんな小娘一人に構っている暇も、本当は惜しいくらいなのだろう。改めて、彼らが拾ってくれたことを小春はしみじみと感謝する気分だった。
(せめて衣食住分の働きはしよう)
がらんと空いた小さな和室を見回して、小春は一人、決意を固めていた。