二月 ストレス ④
その頃、道場には死体が転がっていた。
正確には、面、胴、籠手ありとあらゆる部位を打たれて伸びている平隊士達だ。その中心では、一番隊隊長、沖田総司が竹刀片手に涼やかな顔で佇んでいる。
「さぁ、どうした? もう一度かかってこい」
「か……勘弁してください、沖田先生……」
屍の一つから、か細い声があがった。
剣術の天才とも言われる沖田が珍しく稽古をつけてくれるというので、隊士達は喜び勇んで参加した。しかも、複数人で沖田に打ちかかり、竹刀で一本でも勝ちを取れれば島原に連れて行く、という破格の条件までつけて、だ。一番隊所属でない者も加わり、見物人も含めて道場は一気にごった返した。
だが、結果はこのざまだ。
今日の沖田はいつにも増して剣技が冴えわたり、もはや背後に鬼神の幻影まで見えるほどだった。十数人が一斉にかかっていったにも関わらず、彼が一歩動くのが見えた途端、隊士達は激痛と共に床に転がった。何が起きたのか、目で追うことさえできなかった。
強い。圧倒的な強さだった。これ以上強くなってどうするんだ、とその場にいた誰もが思った。
しかし、無傷の沖田は勝利に喜ぶどころか、不満をありありと顔に浮かべていた。
「まだ足りない……」
「ひっ」
血を求めて彷徨う悪鬼のような声に、見物の隊士達は一斉に一歩引いた。しかも、沖田が死体の顔を覗き込むようにしてまだ動けるものを探し始めたので、見物人達は恐れのあまり壁に張り付くような姿勢になる。
三番隊隊長、斎藤一はその時、溜息と共に人の群れを割って出た。
「いい加減にしてやったらどうだ、沖田先生」
「おお……!」
隊中で三本の指に入る使い手がもう一人現れたことで、道場はにわかにどよめきだった。
しかし、最も喜んでいるのは沖田だった。恰好の獲物を見つけたと言わんばかりに、みるみるうちに顔を綻ばせている。狙われなくなった屍達はひそかに安堵の息をついた。
「斎藤さん! お相手してくれるんですか? 嬉しいなあ」
「俺の部下まで使い物にならなくされては困るからな。それに」
そこで言葉を切ると、斎藤は屍の一人から防具と竹刀を受け取り、じっと闘気の宿る眼差しで沖田を見つめた。
「お前だけ強くなるのは気に食わん」
その言葉に、沖田はにたぁ、と音がなりそうなくらいに唇の端を持ち上げた。普段の性格からは想像もつかないほどの獰猛な笑みだ。氷上先生がこれを見たら何と言うだろう、と斎藤は頭の端で思う。
「いいですねぇ。腕が鳴ります」
「一本で良いな?」
「ええ」
無傷の野次馬の中から審判を指名し、二人は所定の位置に立った。面金の奥から、沖田の強い眼差しがこちらを射抜いてくる。
その視線は斎藤を見ているようでいて、もっと遠くのものを見ているように感じられた。
(お前が何と闘おうとしているのか……確かめさせてもらおうじゃないか)
一瞬の間。そして、気合が空を裂く。
道場の熱気は最高潮に達した。
沖田が血のにじむような、もとい他人に血をにじませるような稽古をしているとは露知らず、小春はその日がっつりとご飯を食べてぐっすりと眠った。
明日は沖田と甘味処に行くから、医務室を閉めなければならない時間が出てくる。その前に、できることは今日のうちにやっておくべきだろう。
まずは、もはや日課の一部になってきた近藤の診察だ。
「おはようございまー、す……」
障子を開けると、そこには空いた膳を前に、血色の良い顔で腹を撫でる近藤の姿があり、小春は硬直した。
「……??」
部屋を間違えただろうか。もしかして、これは夢の続きなのだろうか。
たった一日で見違えるほど回復した近藤の姿に小春が困惑していると、彼は光溢れる笑顔を向けてきた。
「おお、氷上君か。おはよう」
「な、なんか、調子よさそうですね?」
「そうなんだよ! 容保公がこれからも引き続き新選組を指揮してくださることが決まってな。これで我々も安泰だ」
「ああ、それは良かったですね!」
小春は本心から祝福した。近藤の体調が劇的に良くなったことももちろん嬉しいし、新選組の解散騒動が持ち上がったのは自分の存在が関与していたのではないかと少し不安だったからだ。
近藤は満足そうに首肯した。
「うむ。これからも我々は攘夷の魁として、気持ちを新たに邁進していく所存だ。まずは与えられた市中取り締まり任務を誠実に取り組んでいくが、ゆくゆくは……」
近藤が小春というたった一人の聴衆相手に所信表明演説を行っていると、廊下の方から二人分の足音がした。それだけではなく、涙と鼻水が混じったような声も聞こえてくる。
「先生、どうかお考え直しください! 先生がいなくてはこの組は……」
「もう決めたことだ。それとも君は、私に一度決めたことを覆せというのかね」
「それは……」
山南とその小姓の声だ。
小春は一気に胃が冷えていくような、嫌な予感がした。
(まさか)
小春が立ち上がる前に、山南が部屋に入ってきた。その姿を見て、近藤も顔色を変える。
山南は、病人に不釣り合いなほどかっちりとした正装だった。
「山南君、その姿は」
「近藤局長、お話があります」
近藤も小春も、突然の展開に何も言えなかった。山南が折り目正しく膝を付き、左手だけを床について頭を下げるのを、呆然として見守っている。
「不肖山南敬助、本日を限りに新選組を脱退したく存じます」
「山南さん!」
その言葉に、小春は弾かれるように立ち上がった。
山南の言葉は、どう考えても昨日のICが原因だったからだ。少なくとも、小春にはそうとしか思えなかった。
「先日私が申しあげたことは、貴方に辞職を促すようなものではありません! それに、まだ本格的なリハビ……機能回復訓練だって、始まってすらいないんですよ!? それをどうして……」
「氷上君、君には関係のない話だ。下がっていなさい」
「関係ないって……!」
すげない山南の言葉に、小春は怒りのあまり眩暈がしてきた。
関係ないなんて、そんなことあるわけない。大体、私があんたを治療するのにどれだけ苦労したと思ってるんだ。これからの診療計画だって、毎晩寝る時間を惜しんで作ってるのに。
矢継ぎ早にそうまくしたてようとした小春の言葉は、しかし近藤によって遮られた。
「氷上君……副長を呼んできてくれ。兎にも角にも、話はそれからだ」
「わかりました!」
近藤の言葉が終わる前に、小春は廊下へ駆け出していた。気持ちばかりが逸って、足がもつれそうになる。
(昨日の言い方がまずかったかな……)
汗と共に、後悔が滲み出てきた。
新選組を辞めるべきだなんて、そんなことは一言も言っていないし、露ほどにも思っていない。ただ、右腕に後遺症が残る以上、これから山南が生き方を変えなくてはならないのは事実だから、それを正直に伝えたまでだ。
でも、もっと上手い伝え方があったのかもしれない。なにか、彼に未来への希望をもたらすような伝え方が。自分がもっとICの経験を積んでいれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。
それを考えると、悔しくて情けなくて、涙が出てきそうだった。
「土方さん、土方さん……!」
叫びながら副長室の障子を開けると、文机に向かっていた土方に心底迷惑そうな顔を向けられた。いつもなら怯えて退散しているところだが、今は火急の要件がある。
「あぁ? なんだよ、そんなに呼ばなくても聞こえてらぁ」
「大変なんです、山南さんが……むぐっ」
最後まで言い終わらないうちに、土方は目にも止まらぬ速さで小春の口を塞いだ。鼻の穴まで覆われて、息ができなくなる。
「それ以上は大声で言うんじゃねぇ。わかったか」
窒息の恐怖に小春がカクカクと首を振ると、ぱっと手が離された。
「んで、お前は近藤さんの差金か? ってことは、局長室へ行けば良いんだな?」
小春がまだ黙って首を縦に振っていると、土方は再び顰め面に戻った。
「あのな、俺はなにも喋るなとは言ってない」
「すみません。局長室へお越しください。では、私はこれで」
そう言って局長室と反対方向へ行こうとした小春の腕を、土方ががっ、と掴んだ。
「どこへ行く」
「えっ、いや、私は山南さんに同席を拒否されていますから」
「お前も来い、氷上。これは副長命令だ」
「でも……」
「お前の医学的見解も聞かせてもらわねばなるまい。そういう件だろう」
まだ要件を一言も喋っていないのに、土方には想像がついているらしい。
あるいは、初めからこうなることを予期していたのだろうか。
小春は素直に頷くと、土方と共に急ぎ足で局長室へと戻っていった。




