二月 ストレス ③
翌朝。
久々によく眠れてすっきりした小春は、朝の診察に向かっていた。まずは近藤の部屋からだ。
「近藤さん、おはようございます。診察に来ました」
「氷上君か。入ってくれ」
「失礼します」
昨晩見た時よりかは幾分かマシな顔色をしているが、それでも調子は良くなさそうだ。朝餉の粥も半分ほど残っている。
小春は簡単な診察を済ませると、今朝作ったばかりの胃薬を近藤に渡した。
「薬です。胃がキリキリする時に、小匙一杯分くらいを目安に飲んでください。食後は避けた方が良いでしょう」
「おお、ありがとう。恩に着るよ」
「飲みすぎると体がだるくなったり気持ち悪くなることがあるので、服用するのは一日三回までにしておいてください。しばらくは毎日様子を見に来ますが、何か症状があればすぐに呼んでくださいね」
卵の殻のような自然由来の薬であっても、薬である以上は副作用というものが存在する。炭酸カルシウムは飲みすぎると血液中のカルシウム濃度が上昇し、倦怠感や食思不振などの多彩な症状を来たすことがあるので注意が必要だ。とはいえ、腎機能正常で体力のある成人男性なので、そうそう問題になることはないだろう。
薬をもらった近藤は、安心したように頷いた。
「今が気張りどころだからな。胃の病なんざで倒れているわけにはいかんのさ」
「そうですね……」
本当は体を労ってゆっくり休んでほしいが、新選組存続の瀬戸際となれば休養している場合ではないのだろう。
小春は困り顔で溜息をついた。
「早くなんとかなってくれればいいですね」
このまま病状が進んで胃潰瘍や十二指腸潰瘍まで起こされたら、今度は小春が過労で倒れる番になってしまう。とはいえ「未来で新選組は大人気だったんで、きっと大丈夫ですよ!」とは口が裂けても言えない。
近藤の部屋を辞去してから、小春は頭の中で今後の治療計画を練っていた。
(制酸剤で駄目だったら絶食かなあ……今のところ下血はないし、現行の治療で乗り切れると思うんだけど。胃癌……は考えたくないな、せめて内視鏡があれば……)
考えながら歩いていると、目の前に男の影がぬっと現れた。
「氷上君」
「ヒィイッ!!」
悲鳴をあげてのけぞると、不服そうな顔をした土方と目が合った。急に人が現れただけでもびっくりするのに、それが土方となれば恐怖もひとしおだ。
「人を化け物みたいに」
「す、すみません」
慌てて小春が謝ると、土方は眉間に皺を寄せたまま小声で尋ねてきた。
「で、どうなんだ」
「な、何がです?」
「局長の話だ」
「ああ……え、ご存知なんですか?」
「見りゃわかんだろ」
付き合いの深い土方には、近藤の体調が悪いことなどお見通しなのだろう。まるで家族みたいだな、と小春はぼんやり思った。
「今のところは、疲れによる胃炎だと思います。薬を処方していますので、それで少し様子を見るつもりです」
「そうか。山南さんに続いて、近藤さんまで倒れられたら困るからな」
「……」
土方の探るような視線に、小春は彼からさっと目を逸らした。
この人は、山南の病状についてどこまで推測しているんだろう。
もう彼が前線に立てる日は来ないことを知っているのだろうか。
とはいえ、本人にさえ話していない事実を第三者に漏らすわけにはいかない。小春は顔に笑みを張り付けた。
「では、私は次の患者が待っていますので、これで」
「おう」
あまり長く話していると、土方によるそれとない誘導尋問にあってしまいそうなので、小春はそそくさとその場を去った。
「……」
背中に土方の視線が刺さっている。
近藤や土方と話していたので、山南の部屋に来る頃にはもう四つ時の鐘が鳴っていた。
「山南さん、おはようございます。診察です」
「おはよう、氷上君」
半月近くになる診察にもすっかり慣れたもので、山南は小春が部屋に入るなりすぐに上半身の衣服を脱ぎ、診察の準備をしていた。
固定を外し、筋の拘縮を取るための軽いストレッチをする。ずっと固定していた右腕は廃用が進み、左腕とは二回りほども太さが異なっていた。
「痛みはどうですか?」
「うむ、変わらんな」
「他に気になる症状は?」
「大丈夫だ」
いつもならここで診察を終えているところだが、今日は、今日こそは、避けては通れない話があるのだ。
小春は姿勢を正して山南に向き直った。
「……山南さん、大事なお話があります。お時間を作っていただきたいのですが」
「いつでも構わんが、何の話だね」
「それは……」
震えそうになる声を飲み込んで、小春は口を開いた。
「貴方の今後に関するお話です」
言った。ついに、足を踏み出してしまった。
その言葉に、山南は全てを悟ったような顔で頷いた。
「そうか、わかった。仕事を済ませておくから、昼八つ頃にこの部屋に来てもらえんだろうか」
「わかりました。よろしくお願いします」
小春は硬い顔で部屋を出ていった。
一旦部屋に戻って患者の手当をしているうちに、時間は飛ぶように過ぎていった。今日はやたらに打ち身の患者が多かった。
八つ時の鐘が鳴る少し前に、小春は胃薬を飲んでから山南の部屋へ向かった。あまりの緊張に、胸がむかむかしてくる。
(私が悪いわけじゃないんだから大丈夫……)
山南の腕が動かなくなったのは、小春に過失があるわけではない。だから、臆さず堂々と事実を説明すればいいだけの話だ。むしろ、緊張や不安でおどおどしている方が、医師に対する不信感に繋がってしまう。
そうはわかっていても、手が震え、膝が震えた。もう二度と剣は振るえない、そう言われた時の山南の衝撃や悲しみを、平常な心で受け止めきれる自信がなかった。
それでも、小春には一つ決めていることがあった。
(とにかく、絶対に泣いちゃだめだ。泣きたいのは山南さんの方なんだから)
医師が泣いてしまうと、患者はそのことに気が取られ、自分の言いたいことが言えなくなってしまう。それに、医療者側になにか過失があったのではないかと患者に思われてしまうこともある。
きちんと病状を説明することと、泣かないこと、最低限この二つがクリアできれば十分だ。
大きく深呼吸をしてから、小春は障子の前で跪いた。
「山南さん、氷上です」
「ああ、入りたまえ」
「失礼します」
部屋に入ると、そこは暖かかった。火鉢の上に鉄瓶が乗っており、白い湯気が立っている。
山南は目の前の座布団に座るよう小春に促した。
「お気遣いいただいてすみません」
「何、当然のことだ」
外は柔らかな日差しに照らされ、いつの間にか春の気配がやってきていた。壬生寺の方からは、子供達の遊ぶ声が聞こえてくる。
本来ならアイスブレーキング代わりに天気の話でもするところだが、もはやこの状態でそれをやっても不自然なだけだろう。
意を決して、小春は口を開いた。
「まず、山南さんのお怪我について、少し詳しく説明させていただきます」
「ああ」
「山南さんは右肩を負傷され、皮膚、筋肉、そして血管と神経の一部が断裂していました。血管とは血を体中に行き渡らせる管のことで、神経とは体を思い通りに動かしたり、逆に体からの感覚を頭に伝えるための伝達網のようなものです」
どうやらこの時代の人間には神経という概念が存在しなかったらしく、小春は基礎的なところから丁寧に図を描いて説明した。
山南が納得した顔をしているのを見て、小春は続けた。
「山南さんが受傷された後、私はその切れた皮膚や筋肉、血管、神経を繋ぎ合わせる手術を行いました。痛みに耐えて頂いた甲斐あって、手術自体は成功しています。皮膚や筋肉、血行にも問題はありませんので、そろそろ固定を解除できる日も近いでしょう」
「そうか。ありがたいことだ」
「ですが……」
問題はここからだ。
小春はなるべくゆっくりと、言葉を切りながら説明した。
「一番の問題は、神経を損傷していることです。神経は治りが大変遅い部位です。手術で神経を縫い合わせても、右腕の機能回復には年単位の時間がかかります。さらに、回復したとしても、多くの場合はしびれや痛みが残ったり、細かい作業ができなくなったりします。怪我を負う前と同じ状態に戻ることは……ほぼ不可能と言えます」
「……そうか」
山南が言葉を咀嚼し、飲み込もうとする沈黙を、小春も黙って耐え忍んだ。
一分以上続いた沈黙の後に、山南が呻くように言った。
「では、もう剣は振るえないということだな」
小春は奥歯を食いしばった。
「……右腕に関して言えば、そうなります」
剣士にとって、もう剣を振るえないというのは死刑宣告にも等しい重みを持つ。
しかし、山南は重い溜息を一度ついただけで、後はさっぱりと諦めたかのように頷いた。
「うむ……そうか。まあ、腕をやるというのは、そういうことだ」
「……」
山南の物分りの良さが、今はただ悲しかった。
きっと右腕に怪我を負ったその日から、山南はもう剣が振るえなくなることを予感していたのだろう。
それでも、その予感を裏切ることができたなら、どんなに良かったか。
「治してあげられなくてごめんなさい」という言葉が、喉のすぐそこまで出かかっていた。だがそれを口にするのは、小春のエゴというものだ。
「……何か……質問はありますか」
小春の言葉に、山南はしばらく考え込んでから口を開いた。
「このことを、近藤さんや土方君は?」
「まだ、誰にもお伝えしていません。山南さん以外には」
「そうか……土方君辺りには知られているかと思ったが、君は口が堅いんだな」
「いえ」
さっき土方に会った時に詰問されていればちょっと危なかったが、なんとか逃げ切ることに成功した。医師にとって、患者の情報をとやかく喋らないというのは義務の一つである。ましてこのように重大な問題ならば、まず本人が最初に知るべきだろう。
小春の答えを聞いて、山南は満足そうに微笑んだ。徐に立ち上がり、障子を開けて春風の吹く庭を眺める。初めて会った時よりずいぶん細くなったその背中を、小春はじっと見つめた。
「氷上君」
「はい」
「かつて君は、身分の差は実力で乗り越えるものだと言ったな」
そんなことを言っただろうか。小春は記憶を遡ったが、すぐに思い出した。
山南が負傷する前日、やけに彼の顔色が優れないのを心配して部屋を訪れた時のことだ。確か恋愛の話だったような気がする。
それにしても、なぜその話が出てくるのか。
話の要領が今ひとつ掴めず、小春は訝しげに頷いた。
「はい、言いましたが……」
「私は、君のその答えに感銘を受けた。それが、新選組の矜持とも重なるものだったからだ」
確かに、新選組は身分に依らず、尊皇攘夷のために集った剣客集団だ。会津藩の庇護を受けられたのも、その剣の腕を認められてのことだろう。
山南の横顔は、庭よりはるか遠くを見つめていた。
「あの日、私は土方君と共に不逞を働く浪士の捕縛に向かった。そこで私は挑発に乗ってしまったのだ。月並みな挑発だった。少しばかり我々のことを知っているようでな、我々がいくら武士の真似事をしようと、その身に流れる血は変わらない、などと言ってきた。私はどうしても、それが許せなかった」
どこからか、桜の花びらが飛んできた。それを器用に左手の指先で摘んで、山南はふっと笑った。
「どうしてあれほどまでに怒り狂ってしまったのか。床に臥している間、ずっとそればかりを考えていた。昔の私も……どちらかといえば、その浪士と同じことを考えていたんだ。身分の差は超えられない、とな。だが、君と出会って、君の言葉を聞いて、それが間違いであると知った。君の言葉は、我々の抱く希望そのものだった」
「……」
「だからこそ、あの男の挑発が、我々の未来を打ち砕こうとしているかのように感じてしまった。たかが言葉の一つだったが、私にはそうは取れなかったのだ。あの時の私は、不逞浪士そのものというより、もっと大きくて正体の無いものを斬ろうとしていた。新選組の未来を、希望を守る為に」
春の日差しが、おかしいくらいに眩しい。
「もうこの腕は剣を振るえない。それでも、悔しくはない。最後に斬ったものに、その結果守れたものに、私は満足しているからね。だから……」
そこで山南は言葉を切り、小春の方を振り返った。
初めて見るくらいに優しい笑顔だった。
「そんなに泣かないでくれ、氷上君」
「え……?」
そう言われて初めて、小春は自分が泣いていることに気がついた。
それも、ただ泣いているのではない。顔中が涙でびしゃびしゃになっている。慌てて目を擦ったが、拭っても拭っても、水道の蛇口が壊れたみたいに涙が出続けていた。
「す、すみません! おかしいな、なんで私……泣かないって、決めてたのに」
「鼻まで垂れているじゃないか。君は童かね」
「ごべんなさい」
ちーん、と派手な音を立てて小春は鼻をかんだ。ここまで泣いていることに、自分が一番驚いている。
涙が落ち着くのを待って、小春はもう一度山南に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。辛いのは山南さんの方なのに」
「ふっ……優しすぎるな、君は。そんなんで、医者としてやっていけるのかね」
「やっていきます」
「これから先、山のように死人が出るとしても、か」
はっと顔を上げると、山南は自分のこと以上に真剣な眼差しで小春を見つめていた。
そうだ、死人は出る。それは医者をやっている以上、避けられないことだ。まして新選組にいるとなれば、嫌でも慣れていくだろう。何も手のつけられないままに患者が死んでいくことだってあるはずだ。
それでも、小春は同じくらい真剣な目で山南を見つめ返した。
「それでも、私は医師として、この新選組でやっていきます」
山南の瞳が、一瞬揺らいだように見えた。
すぐ、その瞳が細められた。
「ならば、何も言うまい。君は必ずや組に貢献できる人材だからな。もう下がって結構だ」
「ありがとうございます。失礼致します」
山南の部屋を辞去し、廊下の角を曲がった辺りで、小春は溜息と共にしゃがみこんだ。
「終わった……」
人生で初めてのICが無事に終わった。医療ミスなんじゃないかと責められることもなく、慰めようもないくらいに泣かれることもなかった。
山南の話を聞いて不覚にも泣いてしまったが、それも問題にはならなかった。
終わったのだ。小春に多大なストレスをもたらしていた、その原因が。
「頑張ったよう……」
先ほどとはまた違う種類の涙がこみ上げてきて、小春は目元を拭った。
近藤のこともあるし、まだ全てが終わったわけではない。それでも、大仕事を終えて気分がだいぶ楽になった。
(今日は美味しくご飯が食べられるといいな)
小春は軽い足取りで再び歩き始めた。
卵の殻の服用方法については完全なフィクションですので真似しないでください。




