二月 ストレス ①
山南が右肩を負傷してから二週間が経った。
大坂から京に戻ってきてからも、小春は毎日のように山南の部屋を訪れていた。
「おはようございます。山南さん、調子はどうですか」
「ああ、特に変わりないよ」
三角巾で腕を固定された山南が、そう言って穏やかに微笑む。今日も問題無さそうだ。
あれから山南は重篤な合併症を起こすこともなく、順調に回復していた。縫った傷跡も、今では皮膚がうっすらと赤く盛り上がっているだけだ。5センチ以上の深手を負ったとは、見た目からでは全くわからない。
固定の具合を確認していると、山南がしみじみと呟いた。
「一時は死ぬかと思ったが、これほど回復するとは思ってもみなかった。傷口も膿まないとは、ひとえに氷上君のおかげだな」
「いえ、そんな」
小春としては感染などの術後合併症を起こさないことは当然と言える目標であったが、当時の人間にとっては、むしろ傷口が膿んで当然だと思っているらしかった。この時代、傷と言えば傷口も手も洗わずに縫うのが一般的だったそうだから、すぐ膿むのも無理はない。
ただ、それに加えて使われている糸にも問題があった。
この時代では、縫合には主に木綿や絹でできた糸を使っていたらしい。一方、小春が使った糸は、トリクロサンという抗菌薬でコーティングされた合成樹脂製のものだ。文字通り、技術の水準が違う。
それに、天然素材でできた糸は、糸自体が細菌の繁殖の場となるため感染を起こしやすいのだ。
合成樹脂製の糸にも限りがあるから、いつかは小春も木綿や絹の縫合糸を使わなければならなくなるだろう。
そうすれば、確実に術後感染の数は増える。それまでに、感染対策を何か考えておかなくてはならなかった。
他にも、手術着やサージカルドレープの準備など、まだまだやるべきことはたくさんある。初めての手術は様々な課題を残すものだった。
だが、小春には現在、最も差し迫っている課題があった。
それはこの二週間、小春がずっと逃げ続けていたことでもあった。
「氷上君がいてくれて、本当に良かった。昔のこととは言え、君を疑っていたなんて私の目は節穴だな」
「ははは……」
ぎこちない笑顔を浮かべる。
そのまま、小春は今後の治療について軽く説明した。
「しばらくは、このまま縫ったところがきちんとくっつくのを待ちましょう。それからリハビリ……えっと、機能回復訓練に移ります。長い戦いですが頑張りましょうね、山南さん」
「うむ。頼りにしているよ、氷上君」
「はい」
それから一言二言会話して、小春は山南の部屋を後にした。
しばらく廊下を歩き、辺りに誰もいないのを確認してから、小春は立ち止まった。
口から出たのは、今世紀最大級に重たい溜息だった。
「はぁあ……」
(また逃げちゃった……)
何から逃げていたのか。それはインフォームドコンセント、すなわち医師が患者に行う病状説明だった。
手術を終えてから今に至るまでずっと、小春は怪我について山南とまともに話し合うのを避けていた。怪我の程度についても予後についても、聞かれないのを良いことにずっとはぐらかし続けている。
でも、それももう限界だった。
――おそらく、山南の右腕は、もう刀を振るえるようにはならない。
いつかは、その残酷な事実を告げねばならなかった。
山南の負った怪我はかなりの深傷で、僧帽筋や肩甲背動脈が完全に断裂していた。だが最も厄介だったのは、肩から上腕に繋がる神経である腕神経叢が半分ほど断裂していたことだった。
筋肉や動脈の損傷だけなら、手術で治る見込みもある。しかし神経の損傷は、たとえ外科的に修復したとしても、完全に機能を回復した例はほとんど無いのが現状だった。
生活に支障を来たさない程度までは回復するかもしれない。だが、剣術のような繊細な力のかけ方を要求する動作については、厳しいとしか言いようがなかった。
きっと山南は、再び刀を振るえるようになると信じきっているだろう。そうでなくても、彼は小春の腕を信じ、期待してくれているのだ。
その期待を裏切るのは、たとえ仕方のないことだったとしても、小春にはたまらなく辛かった。
「うぅ……」
ちゃんと言わなきゃいけないとはわかっている。でも、勇気が出ない。
もしくは何らかの奇跡が起きて、山南の神経が完全復活してくれればいい。でも、望み薄だ。
キリキリと痛みだした胃を押さえながら、小春は自分の部屋に戻っていった。
日が沈んでいく。もうすぐ晩ご飯の時間だ。
(お腹空かないな……)
今日はお昼も食べなかったのだが、それでも小春の胃は食欲を訴えてこなかった。ここのところいつもそうだ。
山南の手術をしたぐらいから、小春はなんだか胃の調子が悪かった。手術が終わって倒れたのと何か関係があるのかはわからないが、多分ストレスだろうと見当をつけている。最近はストレス源だらけだ。
小春はまっすぐ厨房へ向かった。米の炊ける匂い、野菜を洗う水音、温かな湯気、いつも暖かく小春を包み込んでくれるはずのそれは、最近どこか余所余所しいように感じられる。
野菜を洗っていた隊士の一人が、小春に気付いて手を止めた。
「氷上先生、お疲れ様です」
「こんばんは、中村君。お忙しいところすみません」
幹部の中では、小春は最も頻繁に厨房へ顔を出しているので、馴染みの隊士が多かった。そのうちの一人である中村は、小春の要件に気付くと心配そうな顔を浮かべた。
「今日も、ですか?」
「はい……お願いします」
今日も、というのは、食事内容の変更だった。
普通の食事だと胃に負担がかかるので、最近はもっぱらお粥ばかり作ってもらっていた。胃を痛めた時は、脂質や食物繊維をなるべく避け、糖質とタンパク質で栄養を摂るようにした方が良い。
というわけで、ここ数日は普通の食事はやめて、卵粥を作ってもらっていた。
「先生、無理は禁物ですよ」
「はい、すみません……」
中村が粥を作っていると、ちょうど通りがかった近藤が足を止めた。
「おや、氷上君」
「お疲れ様です、近藤さん」
小春が微笑むと、近藤も口角を上げた。幕府の人間との会合帰りで疲れているのか、少しやつれているようにも見える。
急に畏まった賄方の隊士達を片手で制し、近藤は興味深そうに鍋の中を覗き込んだ。
「何を作ってもらっているんだい?」
「お粥です」
「粥……」
その言葉に、なぜか近藤が動揺を見せた。奇妙な沈黙が広がる。
小春が不審に思っていると、近藤は何か機密事項を伝えるかのように、腰を屈めて小春に耳打ちした。
「それ、後で俺にもわけてくれないか」
「え、構いませんけど……どうしたんですか」
体調でも悪いのだろうか。
心配になった小春に、近藤はぎこちない笑みを作った。
「いや、ほら、そう、いつも本膳ばかり食べているから、たまには粥が食べたくなった、そういうことだ。じゃあ後で小姓をやるから、頼むぞ」
「は、はい」
慌ただしく去っていく近藤を、小春は訝しげに見つめた。
その横で、追加の粥を作るよう言われた中村が、苛立たしげに溜息をついている。
「いいですね、局長は。毎日毎日祇園や島原で豪華な食事を楽しまれているんでしょう? どうせ俺達の食事は貧相ですよ」
「うーん……」
確かに字面だけ追えば、中村の言う通り、豪華な食事を食べ飽きたからたまには素朴な粥を食べたい、という話に聞こえる。
だが、本当にそれだけだろうか?
良い物を食べているにしては顔色が良くないし、この前見た時より痩せている。何より、答え方がなんとなく怪しい。
(何か隠してる気がする)
というわけで、小春は近藤の小姓が来る前に、彼の分の粥を持って局長室へ突撃したのだった。
小春が粥を持っていくと、近藤は苦い顔で「君が来たか」と笑った。やはり、何か隠している、という小春の予感は当たったようだ。
物憂そうに粥の入った椀を取って、近藤は溜息混じりに呟いた。
「最近、食欲が無いんだ」
やっぱり。
という顔を小春がしているのに気付いてか、近藤は観念したかのように、ぽつぽつと病歴を話し始めた。
曰く、ここ二週間ほど、ほぼ常にみぞおちの辺りが痛むらしい。何を見ても食欲が湧かず、最近では宴席でもほとんど料理には手を付けていないそうだ。
「ご飯を食べると少し痛みがマシになったりしますか?」
「そうだな。腹が減ると痛くなるから何か食べようとは思うんだが、食べたいものがなくてな」
わかる、と言いたいのを堪えて小春は神妙に頷いた。
「そうですか……お粥はどうですか?」
「なんとか食べられそうだ」
「良かった。食事が取れないと大変ですからね」
近藤が食べ終わるのを待って、小春は詳しい診察に進んだ。吐き気、胸焼け、げっぷなど、典型的な胃炎の症状が多かった。胃もたれは無いそうだから、胃酸が多く分泌されてしまい胃炎を起こしているのだろう。
「それにしても、どうして堂々とお粥を作ってほしいって言わなかったんですか?」
「局長が胃を病んだなどと知れたら、隊が動揺してしまうだろう。そうでなくても、今は何かと不安定な時期なんだ」
「不安定?」
確かに、今は江戸幕府14代将軍、徳川家茂が京の都に上洛しており、公武合体が成功するか否かの瀬戸際ということで政界には緊張が走っているのだろう。
だが、仮に公武合体が成功したとして、新選組という傭兵組織自体にそこまで大きな影響を与えるとは思わない。一体何が不安定なのか。
小春が不思議そうな顔をしているのに気付き、近藤は少し呆れを浮かべた。
「知らんのか。松平容保公が京都守護職を辞任されるかもしれんのだ。容保公は我ら新選組をずっと支え続けてくださったお方でな……あの方の下で働けないとなれば、俺達は一体どうするべきか」
「なるほど」
小春の貧弱な知識では、新選組は幕末に栄華を誇った剣客集団という認識だったが、そんな新選組にも存続の危機が訪れていたらしい。そのうちなんとかなりますよ、と教えてあげたい気分だ。
それにしても、そんな状況では近藤がストレスで胃を病んでしまうのも無理はないだろう。できれば体のためにもストレス源から距離を置いてほしかったが、新選組局長となればそう安々と休職するわけにもいかない。それに、離れようと思って離れられるストレス源など大したものではないのだ。
となれば、薬を使ってどうにか症状を抑え込むしかないだろう。同じく胃痛を抱える自分のためにも、薬の入手は急務と言えた。
(胃薬か……)
ストレスによる胃の不調は、比較的漢方が功を奏しやすい分野だ。入隊したばかりの時に土方から漢方の本を貰ったので、調合して処方できないこともない。
だが、今回は胃の不調の中でも胃酸過多の症状が全面に出ている。となれば、使い慣れていない漢方薬で戦うよりは、どうにかして制酸剤を手に入れた方が効果が高いと考えた。
幸い、制酸剤のあてが無いわけではない。小春は考えをまとめて頷いた。
「わかりました、どうにか薬を用意してみます。でも、しばらくは胃に優しい食事にしてくださいね。食事内容については、私から近藤さんの小姓にお伝えしておきますから」
「ああ、頼む」
近藤の部屋を辞去した小春は、早速制酸剤の準備に取り掛かるため、もう一度厨房に戻っていった。




