閑話 山崎の苦難
新選組総長、山南の負傷。そして小春の昏倒。
その二報は新選組の隊士達に少なからず動揺をもたらした。組の中でも隊士からの人気が高い二人のことだから、心配する者が続出するのも無理はない。
だが、小春の手術の助手を務めた三人、特に医学に心得のある山崎は、彼らとは違う意味で動揺していたのだった。
山南の術後処置を終え、山崎は小春の部屋の前に立っていた。と言っても、再び指示を仰ぐためではない。手術が終わるなり倒れてしまった、患者としての小春の様子を見るためだ。
襖には桔梗が描かれている。奇しくも、幕府の御番医師の詰所に描かれているのと同じ花だ。
しかし、実際にこの奥にいるのが御番医であったならば、山崎は今よりも緊張していなかったかもしれなかった。
意を決して、山崎は襖を開けた。
「氷上先生、失礼致します」
差し込む西日に目が眩む。
しんと静まりかえった部屋の中央で、部屋の主は昏昏と眠っていた。山南の診察、そして縫合手術を連続して終え、張り詰めた緊張の糸が切れてしまったらしい。
目も開けない、声も発さない小春は、まるで役目を終えて眠りについた絡繰人形のようだった。
今だけではない。
山南の右腕を縫合していた時からずっと、山崎には小春がなにか得体の知れないものに見えていた。
人の姿をしながら、とても人とは思えない力を持つ“何か”。
手術中の小春は、まさに人智を超えたと表現するに相応しい能力を発揮していた。
先の曲がった不思議な形の針と、何の素材からできているのかわからない糸を用い、服の綻びを直しているかのような手際で易々と山南の傷を縫っていった。
しかし、山崎が驚いたのはそれだけではない。
人間の”中身”を全て知りつくしているかのような、圧倒的な知識量。
それこそが、山崎が小春への畏怖を抱く最大の理由だった。
人体の根源を形成しているものは、気、血、そして水である。外傷を負った場合には、まず傷を縫合し、気と血の流出を止める。それから金創膏などを塗り、失われた気や血を補給する。
それが現在広く行われている治療法だ。
だが、小春はまず傷口に塩水をかけ、圧迫することで血を止めた。そして、切断されたという「ドウミャク」やら「シンケイ」を、それぞれの組織ごとに縫い方を変えながら繋ぎ合わせていた。
苦痛に喘ぐ山南の様子を見るに、その治療は多大な気を失わせるはずだった。しかし、小春の縫合は従来より遥かに皮下の出血が少なく、傷口も寸分の隙間なくぴったりと塞がっていた。血を失わせる元を治療したからなのだろう。
小春の見せた医術は、もはや一種の奇術であった。
そんな神の如き力の使い手を前に、山崎は本能的な恐れを抱いていた。
(俺はこの男が、恐ろしい……)
それを口にすれば、新選組の隊士全員に指をさして嘲笑されるだろう。こんな刀も満足に扱えないような優男のどこが恐ろしいのだ、と。
だが、なまじ医術を齧った山崎には、小春の異常さがありありとわかってしまった。
この男の知識は、蘭方医だからという理由で説明が付くほど生半可なものではない。知識の量も縫合の腕も、どこで学んだのかは知らないが今の医学の水準を遥かに逸脱しているのだ。
まるで、神から与えられたとしか思えないほどに。
土方に話せば、ありえないと一蹴されるような話だ。
だが、奇術を目の当たりにした山崎には、その考えがどうしても捨て切れないのだった。
ふいに静寂が揺らぐのを感じ、山崎は眠っている小春から視線を上げた。
男が一人、息を切らして駆けつけてくる。
「小春さん、大丈夫ですか!?」
言い終わる前に障子を開けた人物を見て、山崎は目を見開いた。
「沖田先生」
沖田総司。一番隊の隊長で、新選組きっての剣豪。そして、氷上小春を保護し、隊へ連れ帰った張本人。
保護者として彼が小春と親交があるのは知っていたが、こうして血相を変えて駆けつけるほどとは知らなかった。ずいぶん深い情を抱いているらしい。
沖田は先に在室していた山崎の姿を認めると、驚いたとばかりに目元を引きつらせた。
「山崎さん、いらっしゃったんですね……氷上先生を診てくださっていたんですか?」
「ええ。山南先生の手術が終わって、疲れてしまったみたいです。よく眠っておられますよ」
手術の様子は伏せてそう言うと、沖田はあからさまにほっとした表情を浮かべた。
「そうですか、良かった……」
寝ている小春の顔を覗き込む沖田の視線は、親が子に注ぐもののように温かでありながら、それとはまた別の温度を持っているようにも感じられた。
なんにせよ、沖田が来たからには、もう自分がここにいる必要はないだろう。
そう判断し、山崎が腰を浮かしたその時だった。
「う……」
小春の瞼が、一際大きく震えた。覚醒の気配に、沖田も山崎も揃って小春に視線を向ける。
「おはようございます、氷上先生」
沖田が柔らかな声色でそう呼びかけた。
だが、目を覚ましそうだった小春は、みるみるうちにその顔を険しい苦痛の色に染めていった。
「ち……血、が……」
「えっ?」
様子のおかしい小春を、沖田が心配そうに覗き込む。
悪い夢でも見ているのだろうか。
起こそうとした山崎は、しかし続く言葉に思わず手を止めた。
「血が、止まらな……だめ、山南さんが……!」
――手術の夢を見ているのか。
あれほど落ち着き払って、大した苦労も無いかのように縫合をしていた小春が、手術の夢を見ている。しかも、おそらくは出血多量で山南が死ぬ夢を。
そのことに、山崎は横面を叩かれたような気分になった。
(そうか、この人も……氷上先生も、人間なのか)
山崎から見た小春は、冷静で自信に満ち溢れていて、まさに神の化身と言われても頷けるような人物だった。
だが、それは違った。目の前でうなされている小春は、どこからどう見ても二十二歳の若者で、手術の失敗に怯えるただの人間だった。
顔には出さないだけで、本当はきっと手術が恐ろしかったのだろう。こうして夢にまで見るほどに。
苦しむ小春の両肩を、沖田が掴んで揺らした。
「小春さん、起きてください、小春さん!」
その声に、ぱちりと小春の大きな瞳が見開かれた。目の端から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
荒い息のまま困惑したように辺りを見回す小春に、沖田が心配そうな声で続けた。
「小春さん、うなされてましたけど……大丈夫ですか?」
「沖田さん……? じゃあ、あれは夢か……良かった……」
上体を起こした小春は、夢が夢であることに心の底から安堵していた。今にも泣き出しそうな表情で、手術の時に見せた威厳などすっかり消え去っている。
(……なんや)
――ほんまに、ただの人間やんか。
そんな小春に対し、あれほど恐れを抱いていた自分のことが阿呆らしくなってくる。
一気に気の抜けた山崎に、小春の双眸が向けられた。倒れる前のことを思い出したのか、みるみるうちに顔が慌てていく。
「あっ、山崎さん! 山南さんの術後管理って……」
「先生のご指示通りに終えておきました。部屋の後片付けも済んでいます」
「うわぁ、お手数おかけしてすみません! まさか倒れてしまうなんて……」
「どうかお気になさらず。我々も、先生のお役に立てて光栄に思っておりますので」
本心からそう言うと、小春は「そんな」と照れ臭そうに笑った。花が咲くようなその笑顔に、閉じられていた心の扉が急速に開いていくのを感じる。
もう小春を恐れる気持ちなどどこにも湧かなかった。
本当はもう少し話してみたいと思ったが、土方に色々と手術のことを報告しなくてはならない。山崎は腰を浮かせた。
「では、私は副長へ報告にいってまいります。氷上先生、沖田先生、失礼致します」
「はい。……あ、私も山南さんの様子見に行かないと」
山崎が席を立つと、小春も立ち上がろうとした。その首根っこを、猫でも捕まえるかのようにして沖田が掴む。
和やかな掛け合いが聞こえてきた。
「こーら、倒れた人が何言ってるんですか。今日はもうお医者さん禁止! ちゃんと休んでください」
「えー」
「えーじゃない! 山南さんの様子なら私がいくらでも見てきますから」
「はぁい」
まるで親が子を叱るかのようなやり取りに、ふっと笑みが漏れる。小春の方が沖田より一つ年上のはずだが、彼は自分を拾ってくれた”保護者”に手も足も出ないようだった。
しかしその後、退室して足を進めかけた山崎の耳に、微かな話し声が聞こえてきた。
「小春さん、すみませんでした。気を失った貴方を一人にしてしまって……せめて土方さんに側に付いてもらえばよかったですね」
「あ……そういえばそうですね。晒布とか見られてたら、ちょっと大変だったかも」
(……晒布?)
その言葉に、山崎は思わず足を止めた。
山崎は耳が良いので、普通の人間には聞こえないような音量の会話でも聞こえてしまう。彼らの声の大きさからして、きっと自分が聞いてはいけない話なのだろうとは思ったが、足が床に張り付いたように動かなかった。
再び小春の声が聞こえてくる。
「でも大丈夫ですよ。誰にも疑われたことないですし、私が女だなんて誰も思いませんよ」
山崎は声を出さないようにするのに必死だった。
女?
あの氷上先生が、女?
男らしさに欠けた顔立ちだとは思っていたが、まさか本当に男でないとは思ってもみなかった。いや、それより、新選組に女がいて平気なのか。女であれほどの医術の腕を持つとは、本当に彼、いや、彼女は何者なのか。
心臓が早鐘を打ち、全身から汗が噴き出てくる。
だが、下手な身動きを取ることは許されなかった。
――消される……。
山崎は本能的にそう思った。
小春の秘密を知ってしまった、それが沖田に伝わればどうなるか。「盗み聞きしていたんですね。残念です」と言いながら白刃を振り上げる沖田の姿が目に浮かぶようだ。なぜ彼があれほどまでに小春の世話を焼いていたのか、その理由が痛いほどにわかってくる。
本当に恐れるべきは沖田の方だった。
山崎は細心の注意を払い、足音一つどころか空気の動く音さえ立てないよう、慎重にその場を離れた。
そして土方の元へ着く頃には、まるで敵地への諜報任務を終えた後のような疲労が浮かんでいたのだった。




