一月 腕神経叢損傷 ④
日課の蒸留水を作成していた小春の元へ、真っ青な顔をした隊士が飛び込んできた。
「氷上先生! 山南総長が――」
続く言葉に、小春ははっと目を見開いた。
(とうとう来たか……)
重傷患者だ。
あの新選組にいるのだから、いつか必ず来るとは思っていたし、そのためにイメージトレーニングも毎日欠かさず行っていた。その日が今日だっただけのことだ。これは、何通りも想定しておいた状況のうちの一つに過ぎない。
早鐘を打ち始めた心臓を深呼吸で落ち着かせると、小春は手際よく指示を出していった。
「手隙の隊士を出来るだけ多く集めてください。宿中の火鉢を、土間へ上がってすぐの座敷へ運んで」
廊下は狭く患者を運ぶのには不都合なので、入ってすぐの座敷で治療することにした。外気が入って寒いので、火鉢を大量に集めて暖房代わりにする。近くに火があれば、火箸を使って電気メス代わりに止血することもできるはずだ。
その他にも蒸留水や清潔な晒布、そして京から持ってきた高濃度アルコールを準備していると、段々と外が騒がしくなってきた。
「山南さん、後もう少しだから耐えてくれ!」
「急げ急げ! 道を開けろ!」
山南が、いや、患者が来た。
小春は患者を玄関まで迎えに行った。自分の目で直接見て、状態を一刻も早く確認しなければならないからだ。
だが。
「氷上! 山南さんを頼む」
戸板に乗せて運ばれてきた山南の姿を見て、小春は動けなくなった。
血だ。
その鮮やかな赤が、小春の心臓を揺るがした。
息ができなくなった。
「……!」
押し殺していたはずの感情が飛び出して、小春の医師としての仮面を奪い去る。“患者”が“山南敬助”としての人格を得て、生身の小春へ食らいつく。
そうして、医師ではない未熟な医学生の小春を襲ったのは、純然たる恐怖心だった。
(こわい……!)
視界に涙が滲む。顔が青ざめていく。
足が竦んで、指先一つ動かせなかった。
現代で病院実習をしていた時、これよりもっと酷い状態の患者などいくらでもいた。床が濡れるほど大量の血を流し、骨が肉から飛び出して、とても人とは思えない状態の患者を見たことだってある。
それに比べれば、山南はただ肩を斬られただけだ。意識も呼吸もあるし、ちゃんと人の形をしている。
だが、その時とはまるで責任の重さが違った。
小春は医学生として見学するのではなく、医師として治療に当たらなければならなかった。
経験もないのに。まだ医師免許すら取っていないのに。
(逃げたい)
救急車を呼びたい。専門医を呼びたい。
誰かに、助けを求めたい。
それでも、ここにいる医師は小春一人だけだった。
皆が、小春に助けを求めていた。
「氷上先生……!」
「氷上……!」
皆が、小春を信じていた。
(私がやらなきゃ……やるんだ、やれ、小春!!)
涙を振り切って、小春は山南の元へ駆けつけた。
「山南さん!」
その名前を呼んでも、もう小春の仮面は剥がれなかった。
救急患者を迎え入れた時、まず確認するべきは”ABCDE”だ。Airway(気道)、Breathing(呼吸)、Circulation(循環)、Dysfunction of CNS(意識障害)、Environmental control(体温管理)、この5つのどこに異常があるかを15秒以内で瞬時に見極める。本格的な処置に入る時も、このABCDEの順で解決していく。
小春は投げ出された右腕の脈を取りながら、山南の口元に耳を近づけた。
「山南さん、私がわかりますか?」
「ああ……氷上君」
「服の前開けますね」
(会話可能、意識障害なし、皮膚やや冷で橈骨動脈触知可能、脈拍約70)
通常の会話が成り立つ、というだけでもAの気道、Bの呼吸、Dの意識の3つはクリアしている。手首で脈が取れているし、体が熱すぎたり冷たすぎたりすることもない。
ひとまず、現時点でABCDEに目立った異常はなさそうだ。ただ、出血が多いのでCの循環は注意するべきだろう。
山南が戸板に乗ったまま座敷に運ばれる。火鉢を集めたかいあって、部屋は十分暖かかった。
「そこの君、いや、伊藤君」
「はい!」
小春は近くにいた隊士を指名し、晒布を渡した。
「山南さんの傷口をこれで押さえてください。血が吹き出してこないくらいの圧で良いですから」
「は、はいい」
止血を隊士に任せて、もう一度、今度は本格的な処置に入る。
部屋の外から隊士達が息を呑んで見守る中、小春は聴診器を首にかけ、山南に話しかけた。
「山南さん、何があったか簡単でいいので説明してもらえますか」
「右の、首から肩にかけてを斬られた……腕が動かなくて、手を離すと千切れそうなんだ」
「なるほど……口の中を見せてください」
痛みに苦しむような声をしているが、喉に何かが絡まっている音はしないし、口の中や周りにも出血はない。気道に問題はないだろう。
次は頸部の確認だ。胸を診る前に、首に異常がないかどうかを詳しく調べていく。
どうしても鎖骨の上にある派手な刀傷に目がいくが、そこに気を取られていると他の異常を見逃してしまう。傷のことは一旦忘れ、練習してきた内容を忠実に再現することに注力した。
「頚静脈怒張なし、呼吸補助筋の使用なし、気管偏位なし」
声に出すことで、段々と緊張が解け、自分の世界に集中していくのを感じる。
傷を避けつつ、鎖骨骨折の有無や皮膚の状態を確認していくと、右の傷口近くの辺りで小春の手が止まった。
(なんか、むぎゅっとする)
傷の周辺だけ、皮膚を押しても弾力の加減が違った。雪を握っているような感触がする。
(皮下気腫か)
皮下気腫とは、皮膚の下に空気が入り込んでしまった状態のことだ。こうして深い傷を負った時には、空気が体の中へ入り込んでしまうことがある。
多くの場合、自然に空気が吸収されるので特に治療は必要ないのだが、その位置が気になった。
(傷が肺尖部に近いからな……気胸じゃなきゃ良いけど)
肺の最上部は鎖骨付近にまで達する。皮下気腫は外から空気が入り込んで起こることもあるが、内側から、つまり肺が破れて空気が漏れているせいで起こることもあるのだ。もしこの傷が肺にまで達し気胸を起こしているのであれば、治療の優先順位が変わってくる。
それも踏まえて、次は胸部の診察だ。
まずは観察。
「呼吸回数20、努力呼吸なし、胸郭の動きは……」
右胸上部の動きが、左のそれと比べると若干悪い気がする。だが、気胸のように片側の胸だけが異様に膨らんでいるというわけではなかった。
次は聴診。
(呼吸音に左右差なし、異常呼吸音なし)
念のため打診も行ってみたが、気胸に特徴的なポンポンと弾むような音は聞こえなかった。
X線を撮れないので確実なことは言えないが、おそらくあの刀傷付近の皮下気腫は気胸ではなく、外からの空気によるものだろう。もし気胸だったとしても、今までの所見からして、今すぐ命に関わるようなものではなさそうだ。
胸部の観察、最後は触診だ。
胸の前、横、後ろを、肋骨の骨折がないか、別の皮下気腫がないかなどを確認しながら触っていく。
(うん……肋骨骨折なし、皮下気腫なし)
胸部に特段の異常はない。これでA、Bに関する初期診療が済んだことになる。
ここまでの経過時間は約5分。特に処置が必要なかったため、今のところはスムーズに進んでいた。
次はCの循環だ。循環とは大まかに言えば血液が体をちゃんと流れているかを確認することで、止血操作もここに含まれる。
小春は止血を任せた隊士の手元をちらりと見やった。真っ白だったはずの晒布が、血で真っ赤に染まっている。
(まだ止まらないか……)
色と勢いからして、動脈から出血している可能性が高い。大血管ではないだろうが、早く手術に入って出血点を探し当てたいところである。
「伊藤君、止血を代わるので山南さんの体に他の傷がないか見てください。全身くまなくお願いします」
「わ、わかりました。山南総長、し、失礼致します!」
「構わんよ」
あまりに緊張している様子の伊藤に若干申し訳なくなりつつも、小春はもう一度山南の脈を取った。
先程より少し脈が速くなっている。およそ80回/分といったところか。脈の強さは変わらず、皮膚の冷感や湿潤も変わらない。まだ出血性ショックには至っていないが、このまま放っておくと血行動態も悪化していくだろう。
最後に、神経の簡単な診察を行った。
「山南さん、ここがどこかわかりますか?」
「我々の泊まる宿だろう、大坂の」
「そうです。では両手を握ったり、開いたりできますか」
「それが……」
左手は問題なく動くが、右手はほとんど動かせず、小指と薬指がかろうじて動くくらいだった。腕を上げることさえできない。
そして、小春が右腕を触っている感覚もよくわからないとのことだった。
(右上腕の広範囲な感覚・運動障害、そして尺骨神経は無事、となれば……)
小春は傷害されている神経にある程度の予測がついた。受傷部位と、予測される障害範囲が大体一致している。
ろうそくの火でなんとか対光反射を確認し終えると、ちょうど伊藤も顔を上げた。
「肩の他に怪我はありません!」
「よし……ひとまず布団をかけてあげてください。上半身は脱がせて」
これで初期診療が終了したことになる。
やはり一番の問題は、右鎖骨の上部にある深さ5センチほどの刀創だ。おそらく動脈と神経が断裂している。それに伴って、傷口周辺に皮下気腫が見られている。確率としては低いが、気胸を起こしている可能性もゼロではない。
ひとまず、一刻も早く肩の傷を縫合する必要があった。
(どうやって縫合しようか……麻酔がないから体を固定しなきゃいけないし、人手がいるな)
小春が頭の中で縫合手術の形式を考えていると、座敷の襖が開いた。
「先生、遅うなって申し訳ない。ここからは私も手伝わせてください」
「貴方は……」
入ってきた男の姿を見て、小春は目を見開いた。
(……誰?)
町人風の髪型をした、背の高い色黒の男だ。彼は小春のことを知っているようだが、小春には面識がない。新しく入ってきた隊士なのだろうか。
小春の不思議そうな視線に気付いてか、男は慌てて居住まいを正した。
「申し遅れました、私は監察方の山崎烝と申します。実家が鍼医をやっとりまして、多少は医学に心得があります。どうか私を助手にしてください」
「それは心強い……! こちらこそ、よろしくお願いします」
小春が山崎に頭を下げていると、その後ろから、もう一人男がやってきた。
今度は小春も知っている人だった。
「氷上先生! 山南先生が怪我したって本当か!?」
「藤堂さん」
巡察から急いで戻ってきたのか、珍しく息が切れている。
藤堂は山南の真っ赤な肩を見て一瞬目を見開いたかと思うと、真っ直ぐな瞳で小春を見つめた。
「氷上先生、俺を使ってくれ。俺ならきっと、少しは役に立てるはずだ」
藤堂は伝染性単核球症にかかって隊務を休んでいる間、小春の手伝いをしてくれていたことがある。その時に消毒の必要性などを教えていたから、少しどころかかなり役に立つだろう。
これで、医療に心得のある助手が二人も揃ったことになる。
(いける……!)
小春の胸に、闘志がめらめらと燃えてきた。
もう怖くはなかった。
自分のすべきことをするだけだ。
「手術の準備に入ります。藤堂さん、山崎さん、伊藤君の三人は、清潔な衣服に着替えて、髪と口を布で覆ってください。それが終わったら、私も準備に入ります」
「はい!」
遠くで未ノ刻の鐘が鳴っている。
小春の闘いが始まった。




