一月 腕神経叢損傷 ③
流血・殺人描写注意
氷上小春とは何者だろう。
その答えを、山南は未だ見つけられないでいる。
今しがた見てしまった光景に、山南は柱の陰で額を抑えていた。
(なんというものを見てしまったのだ)
何気なく料亭の庭を眺めていた山南は、沖田と小春が並んで庭に出ているのをたまたま目撃して驚いた。
しかもそれだけではない。
浮かない顔をしている小春に、沖田が雪うさぎを作って何やら励ましてやっていたのだ。
確かに沖田は優しいし、部下や子供に対しても面倒見の良い性格である。しかし、小春を見つめる沖田の目は、面倒見とかそういうものを超越した慈愛に満ち溢れていた。
そして小春も、沖田の前では誰にも見せないような安心しきった笑顔を浮かべていた。
まさに、淡い恋の萌芽と呼ぶべき風景がそこにあった。
だが、それは許されない恋だった。
山南にとって、沖田は弟のような存在である。
抜きん出た剣術の腕を持っていながらも、それを驕ることなく朗らかに笑っているこの弟を、山南はいつも可愛がってきた。新選組という血なまぐさい組織にいても、沖田にだけは、どうか幸せになってほしいという思いが強かった。
その幸せとは、貞淑な妻を持ち、子宝に恵まれるという月並みなものだ。
そしてそれは、氷上小春には紡げないものだった。
小春と結ばれるには、乗り越えなくてはならない壁が高すぎる。
新選組にいる以上、彼女は男として生きていかなくてはならないし、そもそも彼女は出身どころか身分すらもわからないのだ。
武士かもしれない。だが、穢多非人かもしれない。
百姓の出である近藤や土方と違って、沖田は正真正銘の武士の出である。となれば、妻となる女性も身分相応の者でなければならなかった。
そういう身分の差ばかりは、互いの感情に関係なく受け入れなくてはならないものだ。どれだけ互いが愛し合っていても、結婚とは本人同士だけでなく、家と家が結びつく話なのだから。
あの沖田のことだ。正妻の他に妾を持つなどという真似は、本人の心が許さないだろう。
だから、恋の芽が蕾になり、花を開かせてしまう前に、誰かが断ち切ってやらねばならないと思った。
だが、そうと分かっていても、庭先で見たあの二人の顔が目に焼き付いて離れなかった。
沖田も小春も、今まで山南が見た中で最も幸せそうな顔をしていた。若い男女が本心のままに惹かれ合うその姿は、まるで瑞々しい若木を見ているような感動を与えた。
「どうしたものか……」
諦めさせるべきなのか、それとも全てを飲んで見守るべきなのか。
諦めさせるなら、早いほうが良い。この恋が形になってしまわないうちに。
山南はその日、中々眠れなかった。
次の日、小春が料亭の亭主を診察し終えるのを待って、新選組一行は再び大坂へと出発した。
山南は昨日と同じように小春の隣を歩いていたが、その心境は昨日と全く異なっていた。寝不足と疲労が相まって、大坂までの距離がやたらと長く感じる。
そんな山南の様子を気遣ってか、小春が色々と話しかけてきたが、今の山南にはとても彼女の顔を直視することができなかった。
「悪いが、話相手なら別の人間に頼んでくれんかね」
普段の山南ならまず言わない台詞である。言ったそばから、自分の心があまりの申し訳なさに痛んでいた。
小春はすんなりと頷くと、別の隊士に話しかけに行った。彼女が特に山南の言葉を気にした様子でないことが救いだった。
午後になって、新選組は無事に大坂で滞在する予定の宿へ着いた。
夕餉を摂った後、山南は自室でごろりと横になっていた。
「はぁ……」
他人の恋路にここまで悩むなんて馬鹿みたいだ、とはわかっている。そもそも本人同士が、その恋心を自覚しているかさえわからないのに。
だが、少なくとも沖田に関しては本気だろうと思われた。長年一緒に過ごしている”兄”としての直感が、そう物語っていた。
小春も、沖田のことは憎からず思っているだろう。彼こそが小春の身を保護してくれた当人なのだから。
いっそ、小春が沖田に惚れてしまわないように、彼には婚約者がいると嘘をつくべきだろうか。
手段としては最低だが、二人を引き離すというのなら最早綺麗事は言っていられない。
山南が悩んでいると、廊下を足袋が踏む足音がした。
小春だ。
新選組に足袋を愛用している者など彼女しかいないからすぐわかる。
小春はそのまま、山南の部屋の障子の前で膝をついた。
「あの……山南さん、お加減いかがでしょうか。朝方体調がよろしくなさそうだったので、気になって」
温かい茶を用意してきたらしい。盆には茶菓子も乗っているのが、障子に映る影でわかった。
山南は、はっと目を見開いた。
(心配してくれたのか)
自分は彼女を不幸にすることばかり考えていたのに、小春は純粋に自分の体調を心配して、茶まで持ってきてくれたのだ。
そんな彼女に嘘をつこうと思っていた自分が、途端に恥ずかしくなってくる。
山南は立ち上がって障子を開けた。
「入りなさい。寒いだろう」
「ありがとうございます」
寒いのが本当に苦手なようで、小春は顔を綻ばせていそいそと火鉢の前へ座った。
小春が淹れてくれた番茶は、いつもより薄い味がした。そういえば以前、「寝る前に濃いお茶を飲むと、眠りが浅くなるんですよ」と彼女が得意顔で言っていた気がする。
「心配をかけてしまってすまないね」
「いえいえ、心配するのが仕事ですから」
殊勝なことを言う彼女の視線は、茶菓子として持ってきた金平糖に注がれていた。
「……せっかく持ってきてくれたんだ、君も食べたまえ」
「え、良いんですか? ありがとうございます!」
小春が嬉しそうに金平糖へ手を伸ばすのを、山南は黙って見つめていた。
そうやって自分の感情を素直に表へ出す辺りが、沖田とよく似ている、と思った。
この二人が結ばれたなら、どんなに温かい家庭が築かれることだろう。山南だって、許されるのならこの二人が夫婦として結ばれてほしいと思っているのだ。
(せめて、氷上君が武士の生まれであってくれたなら……)
一縷の望みに賭けて、山南は口を開いた。
「氷上君」
「はい」
「君が出自の話を嫌っているのは知っているが、これだけはどうしても知りたいんだ。君は、武家の出かね」
小春の視線が、何かを思い出すかのように左上の辺りを彷徨った。
やがて、首を傾げた。
「その……よく知らないのですが、多分違うと思います」
「そうか……いや、不快にさせてしまったね」
「いえ、そんなことは」
謝りながらも、山南は胸の底にじんわりと絶望が広がっていくのを感じた。これで、二人を遠ざける方へと天秤が傾いてしまった。
だが、そうしてしまう前にどうしても聞いておきたいことがある。
山南は苦渋の思いで続けた。
「これは仮定の話だが」
「はぁ」
金平糖を齧りながら、小春は妙に締まりのない顔で山南を見つめた。
「もし、自分ではとても釣り合わない身の丈の相手に恋をしたとして……君はどうするかね」
山南は至って真面目に聞いたのだが、小春は何を勘違いしたのか、その顔をみるみるうちに好奇心で輝かせていった。
「えーっ!」
「いや、あの」
瞳の奥で、興味の炎が隠れる気もなく燃えている。
「何か勘違いしているのでは」と山南が訂正する前に、小春ががばっと身を乗り出してきた。
「山南さん、そんなロマ……素敵な恋をされてるんですか!? 相手は誰です!? 誰にも絶対言わないから教えて下さい!」
「ええい、やかましい! 仮定の話だと言っただろう!」
「むふ、山南さんったら照れちゃって」
「こやつ」
なます斬りにしてやろうか。
冷ややかに小春を睨みつけると、小春はまだ頬を緩ませながらも、慌てて居住まいを正した。
「自分の身分が低くて、相手が上ってことですよね?」
「そうだ」
「うーん、そうですね。身分とか家柄とか、私にはあまりぴんと来ませんが……」
彼女はしばらく悩んだ後、にっこりと花のような笑顔を浮かべた。
「私だったら、めちゃくちゃ頑張って、身分の差を実力で埋めます!」
「……は?」
諦めるでも、気持ちを伝えるでもなく、身分の差を埋める、とは。
予想の斜め上の返答に、山南は目を丸くして彼女を見た。
「正気かね。身分の差を、努力で埋めるなどと」
「はい。綺麗事だと笑われるかもしれませんが」
小春は照れ臭そうに頬を掻いていた。
「今の自分で釣り合わないんだったら、もっともっと努力して、その人に釣り合うような人間になります。身分じゃなくて、自分に問題があるんだって納得できるように、頑張ると思います」
まるで子供のような答えだったが、彼女は本気だった。正気で、狂気じみたことを語っていた。
そしてそれは、山南が自分でも気付かないうちに、最も求めていた答えだった。
(……ああ)
――なんて眩しいんだろう。
迸る小春の若さと、どこまでも自分を信じるその情熱に、山南は思わず言葉を忘れて彼女に魅入っていた。
山南の心を暗く塗り込めていた憂鬱が、愉快なほどたちまちに吹き飛ばされていく。
そうして残ったのは、ただただ二人の幸せを願う心だけだった。
「……いや、ありがとう」
「え?」
「良い答えを聞けた」
自然と笑みが浮かぶ。
小春も嬉しそうににこにこと笑っていた。かと思えば、その笑みが段々とにやにやしたものに変わってきた。
「応援していますね、山南さん」
「だから仮定の話だと言っただろう! そもそも、私の話ではないんだ」
そう言うと、小春の目がぱちりと見開かれた。
「じゃあ誰の話なんですか?」
「それは」
山南は言葉を切り、ふっと優しい笑みを零した。
「……私が、幸せを願っている人達の話だ」
沖田だけでなく、この不思議そうな顔で自分を見上げる小春にも、必ず幸せになってほしい。
そう、強く願った。
(しかし、氷上君も大したことを言う)
明くる日、山南はふと書き物の手を止めて、小春の言葉を思い出した。
身分の差を、実力で乗り越える。それは新選組の思想と全くもって一致するものだった。
小春は剣士ではない。それに、尊皇攘夷の志を持って新選組に入ったというわけでもない。そんな彼女が新選組の思想と同じことを語ったということに、山南は目の醒めるような思いだった。
局長たる近藤に将器を感じるように、今や山南は、小春に対しても何か特別なものを感じるようになっていた。
(氷上君なら、本当に身分の差を越えてしまいそうだ)
それは、越えてほしいという祈りにも似ていた。
身分の差も、出自の問題も、性別の問題も、何もかも乗り越えて、自分が選んだ人と結ばれてほしい。
そんな彼女の姿こそが、身分に依らず集まった新選組の希望なのではないかとすら思われた。
再び手を動かしていると、廊下からばたばたと忙しない足音がした。
だいぶ焦っているようだが、何事だろう。
その足音は、この部屋の前で止まった。名乗ったのは、近藤付になっている小姓の者だった。
「失礼致します。岩城升屋に不逞浪士が押し入ったとのことで、救援要請が入りました。局長より土方先生と共に出動せよとのお達しです」
岩城升屋は高麗橋の近くにある呉服商だ。今は殆どの隊士が巡察に出ているため、こうして土方と自分にお鉢が回ってきたのだろう。
山南は筆を置いて立ち上がった。
「わかった」
刀掛けに置いてあった大刀を手に取ると、全身の皮膚がわっと逆立った。総長になってから、本格的な戦闘に参加するのは久しぶりだった。
玄関で土方と合流し、二人は足早に岩城升屋へと向かった。
岩城升屋の暖簾をくぐると、家の奥から家人のものと思われる悲鳴が聞こえてきた。座敷は土足で踏み荒らされ、畳の上に割れた食器が飛び散っている。
「新選組だ! すぐさま刀を捨てろ!」
土方が声高に叫び、刀の鯉口を切る。その声を聞きつけて、奥から不逞浪士がぞろぞろと出てきた。全部で六人だ。
数ではあちらが押している。が、腕ではどうか。
「もう一度言う。刀を捨てたら、斬り捨てるような真似はせぬ」
土方の言葉に、浪士の代表格と思しき男が、薄い唇をにたりと吊り上げた。
「へっ、誰が捨てるか。お前らの腕ごと落としてやらぁ!」
途端、血と火花が飛び散る激しい斬り合いになった。
こちらは店への被害がなるべく出ないよう立ち回っているのに対し、彼らはそんなことはお構いなしで家具や襖を蹴り倒していくものだから、山南は安定した足場の確保に難儀した。それでも、向かってきた一人、二人を瞬く間に斬り捨て、未だ傷一つ負っていなかった。
二人目を袈裟斬りにしたその時、首領の男が山南に向かってきた。
「見逃してくれよ、新選組さんよぉ。お前らならわかんだろ、金がねぇ貧乏人の気持ちがさぁ!」
「貴様らの気持ちなど知りたくもないな」
繰り出された突きを払い除け、素早く籠手を狙う。
男は後ろに跳んで避け、じりじりとした睨み合いが続いた。
「俺達は武士だぞ。町人は金を貸して当たり前だろうが」
「そんな乱暴狼藉は認められん」
「あぁ、それともあれか? 新選組は百姓集団だから、町人のことも庇ってんのか?」
「貴様……」
「山南さん、耳を貸すんじゃねぇ!」
土方の鋭い叫び声が聞こえてくる。が、山南の耳にはその声がどこか遠くで聞こえるようだった。
全身の血が熱い。
視界がこの男を中心に暗く狭まっていくようだった。
「武家の生まれでもない奴らが刀を持って武士の真似事なんざ、笑わせるねぇ」
「黙れ」
「武士には武士の、百姓には百姓の血が流れてんだよ。お前らがいくら刀を振ろうと、その生まれまでは変わらねぇ!」
――私だったら、めちゃくちゃ頑張って、身分の差を実力で埋めます!
脳裏に、小春の笑顔が弾けた。
その顔に亀裂が入り、砕けて闇へ散っていくのを、山南の激情だけが見つめていた。
「貴様……黙れと言っている!!」
怒りのままに刀を振り上げた、その瞬間だった。
激痛とともに、右腕の感覚が消えた。
「山南さん!」
「……!!」
右手に力が入らない。だが、それだけで刀を手放してやるほど、山南も甘くはなかった。
そのまま、左腕の力だけで男の首を刎ねた。
もはやただの物になった頭部が飛んでいき、それと一緒に、山南の刀も地に落ちた。
「ぐっ、ぬうぅ」
山南の口から、獣のような呻き声が漏れた。
重い肉塊のようになってしまった自分の右肩を、山南は必死に押さえていた。手を離すと、右腕が斬られた肩から裂けて、地面に落ちてしまいそうだった。
生温かい血が止めどなく吹き出して、山南の肩から胸を濡らした。
残る全員を始末した土方が、血相を変えて山南の元へ駆け寄ってきた。
「山南さん、しっかりしろ! すぐ氷上の元へ連れて行くから!」
「ひ、かみ……」
その言葉に、痛みの奥底へ沈んでいた山南の思考が、ふと浮かび上がってきた。
(氷上君……私は、守れただろうか)
身分の壁を努力で越えると笑った彼女に、山南は救われた。彼女の言葉に、新選組の希望を見た。
だからこそ、男の罵倒が許せなかった。
彼女の言葉を、自分は守ってやれただろうか。彼女の笑顔を、新選組の希望を、守ってやれただろうか。
守れたはずだ。
山南の右腕を引き換えに、男の口はもう二度と動かなくなったのだから。
「後は、頼む……」
熱い涙が一滴、血溜まりの中へ落ちていった。
後はもう、何も考えられなくなった。




