一月 腕神経叢損傷 ②
忠助の診察を終え、お汁粉をご馳走してもらった後、小春は部屋で一人ぼんやりと庭を眺めていた。
「はぁ……」
溜息が白く煙る。個室をあてがわれたため、その憂鬱を聞く者は誰もいなかった。
庭では昨日降った雪がまだ溶け残っていて、葉の落ちた木々や岩に、まるで粉砂糖のような雪化粧が施されていた。池の周りに点在する灯籠が、白い帽子を被ったみたいになっている。
生き物の気配の無い、静かな世界が広がっていた。
(結局助けちゃったけど、良かったのかな……)
小春は膝を抱えた。
忠助を診察したところ、特に内臓損傷を起こしていそうな所見はなかった。顔色も良いし、脈もよく触れる。聴診や打診でも引っかかるところはなかった。
忠助の妻が隊士の泊まる部屋を手配して帰ってくるのを待って、小春は二人に説明した。
「今のところ、お腹や肺に異常は見当たりませんでした。念の為今日一日は安静にしていただいて、明日からはいつも通り仕事に戻っても大丈夫だと思います」
それを告げると、二人は心の底から安心したような顔をした。
「先生、ほんまにありがとうございました。先生がおらんかったら、死んでしまうところやった」
忠助が涙ながらに小春の手を握り、妻が深々と頭を下げてくるのを、小春は何とも言えない心境で見つめていた。
現代であれば飛び上がるほど嬉しかったはずのその言葉が、今は素直に喜べなかった。
――救ってしまった。
後悔にも似た苦い気持ちが自然と湧き上がり、また、そんなことを思ってしまう自分にも嫌気が差した。
誰かの命を直接的に助けたのは、これが初めてだった。
命の恩人だと感謝されるのは初めてでなく、今までにも藤堂を脾臓破裂の危機から遠ざけたこともあったが、あれは小春が直接救命したわけではない。伝染性単核球症で脾臓破裂を起こす割合はそう高くないし、小春がいなくてもきっと彼は生存していただろう。
しかし、忠助の場合は違う。
忠助が餅による窒息死を免れたのは、たまたま通りがかった小春が急いで腹部突き上げ法を施したからだ。
この時代の医者に窒息への正しい対処法が浸透しているとは思えないから、小春が助けなければ死んでいたに違いない。
死ぬはずだった人間を救った。
ある意味では、歴史を変えてしまったのだ。
(でも、あそこで助けない選択肢はなかった)
目の前で倒れている人がいれば助ける、それが医師の使命だ。忠助の命を救ったこと自体に後悔はしていない。
だが、ここは過去の世界である、というその一点だけが、喉に刺さった魚の骨のようにちくちくと小春を苛んでいた。
歴史を変えることは許されるのか。
歴史を守るために、救えるはずの患者を見捨てることは許されるのか。
未来人としての氷上小春と、医師としての氷上小春が激しくせめぎ合っている。
正解のない二律背反に小春が苦しんでいると、障子の向こうから控えめな声がかけられた。
「小春さん、います?」
聞き慣れたその声に、小春は我に返ったような気持ちで振り返った。
「はい、何でしょう」
立ち上がって障子を開けると、いつもと変わらない笑顔を浮かべた沖田がそこにいた。
「氷上先生が花街にも行かず部屋に篭っておられると聞いたので、冷やかしに来ました」
「ふふっ、私が行くわけないじゃないですか」
沖田の冗談に噴き出しながらも、可笑しさだけではない暖かさが胸の中へ広がっていくのを感じた。
この男が現れると、なんとなくほっとする。ずっと自分を保護してくれた人だからだろうか。
沖田を部屋へ招き入れると、小春は沸かしてあった湯を注ぎ、二人分の茶を用意した。
「どうぞ」
「頂きます」
ずず、と二人の茶を啜る音だけが部屋に響く。
冬で日が短いとは言え、まだ外は明るい。他にこの料亭に泊まる隊士も大勢いるはずだが、その殆どが花街へ出払っているようで、建物全体がしんとした静けさに満ちていた。
湯呑を置いて、沖田が口を開いた。
「それにしても、先程の手腕はお見事でしたね。流石は氷上先生だ」
「そんな……当然のことをしたまでです」
小春は沖田から目を逸らし、意味もなく畳の縁の模様を見つめた。
あの時は、目の前で死にかけている人を助けるので頭がいっぱいだった。本来の歴史ならばどうだ、などという考えは全く浮かんでいなかった。
きっとこれからも同じだろう。
新選組の隊士を治療しては、彼の運命を、正当な歴史を変えてしまったのではないかと悩み続けるに違いない。歴史を変えてやるという度胸も、救える命を見捨てる覚悟も小春にはないのだ。
誰かを救っても救わなくても、きっと立ち止まって考えてしまうだろう。
小春が黙り込んでいると、沖田がふっと笑った。
「難しい顔」
「えっ?」
「眉間に皺が寄っていますよ」
「ええっ」
そう指摘され、小春はとっさに眉間に手をやった。まだ二十代前半の肌に皺が刻まれては困る。
指で皺を引き伸ばしながら、小春は溜息をついた。
「いけませんね。気を抜くとつい、考え事ばかりしてしまって……」
「どんなことを考えているんです?」
「それは……」
歴史を変えてもいいのか悩んでいたんです。
気を抜くとついけろっと吐いてしまいそうになり、小春は唇を引き結んだ。
「考えても仕方のないことです」
「仕方ないのに、考えてしまうんですか」
「……そうです」
改めて言葉にすると、そのくだらなさに自分でも呆れた。哲学者でもないのに、答えの出ない問いを延々と考え続けて何になる。
この世界での生活が落ち着いてきたから、色々と考え事をする余裕が生まれてきたのだろう。でも、その余裕が精神を蝕んでいるようでは困りものだ。
小春が再び難しい顔をしていると、沖田が盆を持って立ち上がった。
そのまま、庭下駄をつっかけて、縁側から外へ出た。
「……?」
何をしようとしているのだろう。気になって、小春も縁側へ出た。
「沖田さん?」
「部屋で待っててください、寒いから」
「でも……」
茂みの上に残った雪を手で掬っている。雪玉でも作っているのだろうか。
かと思えば、庭に植えてあった南天の葉と実をもいで、雪玉にくっつけた。
雪うさぎだ。
沖田は手のひらサイズの雪うさぎを盆に乗せると、「はい」と無邪気な笑顔を浮かべて小春に差し出した。
思わず、小春の顔がくしゃりと綻んだ。
「かわいい」
真っ白で愛らしい雪うさぎだ。雪玉に目と耳をつけただけのシンプルな見た目だが、それがかえってゆるキャラ的な可愛さを醸し出している。幼い頃、車のボンネットに積もった雪を集めて同じものを作ったのを思い出した。
小春が目を細めていると、ふと沖田が雪うさぎを摘んで、ぴょこぴょこと動かした。
「元気出せー、小春ー」
「無理するなー、小春ー」
雪うさぎに声をあてているつもりらしい。
小春は思わず吹き出した。
「ふふっ、なにそれ!」
「雪うさぎが心配してるんですって」
照れもせずに沖田がそう言うのを見て、小春はくすりと笑った。
「心配してるのは雪うさぎじゃなくて沖田さんでしょう?」
「違います。雪うさぎが、です」
「なにそれ」
くだらない。とても大人のやることではない。
だが、細めた目の端から、なぜかじわりと涙が滲み出てきた。
(心配してくれてたんだ)
つんと鼻の付け根が痛くなって、瞬きの回数が増える。
小春は慌てて下駄を履き、立ち上がった。
「部屋に置いておくとすぐ溶けてしまいますから、お庭にいてもらいましょうか」
そう言って、雪うさぎをなるべく日の当たらなさそうな灯籠の陰に置いた。
静かでどこか寒々しかったはずの庭が、こんな小さな雪の塊を一つ置くだけで、一気にほのぼのとした穏やかな光景に変わる。
まるで小春の心のようだった。
庭に降り立ったまま、小春はじっと雪うさぎの赤い目を見つめていた。
そのまま、ぽつりと呟いた。
「……忠助さんのこと、助けても良かったのかなって悩んでしまったんです」
沖田は何も言わず、ただ黙って聞いていた。まるで彼ではなく雪うさぎに話しかけているかのような気分になる。
雪うさぎも、じっと黙って次の言葉を待っていた。
「私は新選組の医者ですし、それにその……色々と複雑な事情があって、あまり人目につくようなことはしたくなくて……」
新選組に凄い医者がいる、などという噂が広まって、他の蘭方医が小春の元へ見学に来るような事態になるのはどうしても避けたかった。小春の知識が蘭学によるものではなく、未来の医学によるものだということがばれてしまうからだ。
うんうん、と沖田の頷く声が聞こえた。
「小春さんは姫様ですからね」
「その話、懐かしいですね……いやそうじゃなくて」
小春は咳払いをした。
「私はきっと、誰かを助けても助けなくても、今みたいにくよくよ悩んでしまうと思うんです。でも、どうせ後悔するなら、誰かを救ってからする方が良いですよね。その方が、きっと自分を好きになれると思うから」
未来を守るために人を見捨てた自分と、ひたすら目の前の人間を救い続けた自分なら、小春はきっと後者の方を好きになるだろう。その結果、もし未来が悪い方へ転がったとしても、人の命を救ったことを責めることはできないのだから。
目の前の患者を治すことに全力を尽くす。
どの時代にいたとしても、それが医師としての小春のやるべきことのはずだ。
もし自分の知る歴史とかけ離れてしまったら、それはその時に考えればいい。
小春は久しぶりに、心の底からの笑みを浮かべた。
「ありがとう、沖田さん。貴方のおかげで、元気になれました」
そう言うと、沖田は一瞬目を見開いて、すぐ眩しそうな顔になってはにかんだ。
「それは……良かった。氷上先生が塞ぎ込んでいると、皆心配しますからね」
「ご心配おかけしてすみません」
「あ、そうだ。塞ぎ込んでいると言えば、今、土方さんが部屋で密かに俳句を作ってらっしゃるんですよ。こっそり見に行きませんか?」
「え?」
小春の目が、自分でもわかるほどに輝きを帯びた。
(見たい)
人目に隠れて作っているのなら、邪魔するのは悪いという天使の声も聞こえる。
だが、あの鬼のような土方が一体どんな顔で俳句を作っているのか見てみたい、という悪魔の声の方が、圧倒的に音量が大きかった。
「行きましょう」
小春は早速、悪い笑みを浮かべて部屋を後にした。
「…………」
一連の光景を、別の部屋から山南が密かに見つめていた。




