一月 腕神経叢損傷 ①
年が明けた。
が、新選組に正月はない。
文久四年一月二日。
本来なら炬燵でぬくぬくと怠惰な時間を過ごしているはずだった小春は、なぜか大坂までの果てしない道のりを歩かされていた。
(遠い〜〜〜)
朝に屯所を出発して、伏見を越え、途中休憩を挟んで今は石清水八幡宮の辺りにいる。
何時間歩いているのかわからない。もう足がもげそうだった。
「それにしても、我々も出世したものだ。大樹公上洛の護衛を仰せつかるとはな」
隣を歩く山南が、しみじみと感慨深そうにそう言った。ちなみに大樹公とは徳川将軍のことである。
小春がこうして大坂まで歩いて向かっているのは、別に何かの罰ゲームというわけではなく、「将軍が大坂へいらっしゃるからその護衛を仕る」というれっきとした任務の一環だった。小春だけでなく、新選組のほとんどの隊士がこうして大坂へ向かっている。
(なーんで正月からこんなに長い距離を歩かなきゃいけないんだろう)
などと不貞腐れている者は、小春以外にはいない。皆晴れやかな表情で、誇らしげに京街道沿いを歩いている。それほど将軍の護衛を命じられたのが嬉しいらしい。
小春は冬らしくすっきりと晴れた空を見上げた。
点々と続く白い雲の塊が、小さくて丸い餅に見える。
そういえば、なんだかんだで餅も食べそびれている。
「大樹公が今回上洛なされば、公武合体がさらに進むだろう。そうなれば、きっと朝廷と幕府が手を取り合って攘夷を実行できる日も近い」
山南が熱っぽく何か話しているが、小春の耳には入ってこなかった。
空に浮かぶ餅を見上げている。
(お雑煮が食べたい……)
お出汁の味がよくきいた、角餅のお雑煮だ。あれを食べると、実家に帰ってきたなという感じがする。
そういえば、関西ではお雑煮の種類が違うと聞いた。白味噌仕立てなんだそうだ。せっかく江戸時代の京に来たんだから、白味噌のお雑煮を楽しみにしていたのに。
「氷上君は知らんかもしれないが、大樹公の上洛は今回で二度目なんだ。前回は文久三年三月、君がまだこの隊に来ていない頃だな」
(お汁粉が食べたい……)
お雑煮とおせちを食べ終えると、食後のデザートとしてお汁粉が出てくる。甘いあんこがたっぷり入って、お腹いっぱいでも別腹で食べられる。
お汁粉とぜんざいの違いはよく知らないが、どちらも好きだ。つぶあんでもこしあんでも好きだ。
「一度目は新選組も発足したばかりで護衛を仕ることは叶わなかったが、我々の功績が認められ、今回はこうして大坂までお出迎えできるというわけだ。あの地道な浪士取り締まりの日々も無駄ではない、ということだな」
(お餅……)
醤油をつけても良し。そこに海苔を巻いても良し。
きなこをかけても良し。大根おろしを添えても良し。
とにかく餅が食べたかった。
「朝廷と幕府が手を組んだ暁には、我々は攘夷の先駆けとしてこの国から夷狄を打ち払うことになる。錦の旗を掲げ、国の為に刃を振るうことができるのだ。なんと光栄なことだろうか…………氷上君? 氷上君、聞いているかね」
「……はっ」
山南に名を呼ばれ、小春ははっと我に返った。
口の端から溢れそうになっていた涎を、さりげなく袖で拭う。
「なんでしょう」
餅のことなど微塵も考えていませんでした、とばかりの真面目な顔でそう答えると、山南は額に青筋を立てて、深々と溜息をついた。
「……常々思っていたことだが、君には優れた医学の才があるのに、何故政への興味が全く無いのだね? この国を良くしようという気概はないのか」
「えぇー……」
そんなことを言われても。
(だって、私が深く関わったら歴史が変わっちゃうかもしれないじゃん)
小春は口をへの字に折り曲げた。
氷上小春は本来ならこの時代に存在しない異物だ。医学に例えるならば、手術で体内に置いたまま忘れ去られたガーゼのようなものである。
血を浴びて脂肪をまとって、あたかも人体中の一組織のような顔をしていても、ガーゼはガーゼなのだ。
そのガーゼが人体で無茶苦茶をやって良いわけがないように、小春がこの時代を大きく変えてしまうのも、きっと良くないことのはずだった。
だから、時代を大きく変えうる政治的な方面には一線も二線も置いていたのだ。
ただ、具体的にどれくらい変えると良くないのかは小春にもわからなかった。
流石に幕府を存続させたり、新選組を最後まで勝たせ続けるのは良くないとはわかる。それに、そんな力は小春にもない。
だが、死ぬはずだった隊士を治療して救ったり、病気で一線を退くはずの隊士を戦線に復帰させるのは、悪いことだろうか。
目の前で倒れた人間を救うのはどうだろう?
「む……何事だ?」
「お、おい、あんた、しっかりしておくれ!」
「がっ……! ……!!」
そう、ちょうどこんな感じで、目の前に窒息して死にかけている人が現れたとしたら――
「……え?」
小春は正気に戻った。
「誰か、医者、医者を呼んでおくれ!」
痩せ型の成人男性が、女性に支えられて目の前の料亭から出てきた。
男性は自分の首を両手で握りしめ、いかにも苦しそうな表情をしている。チョークサインといって、気道閉塞を示す万国共通の姿勢だ。
新選組一行も、思わず足を止めていた。
「おいおい、何事だ?」
「氷上君、君の出番ではないか?」
山南が行ってこい、とばかりにこちらを見てくるが、その視線に応えている心の余裕はなかった。
(窒息……!)
本当に、目の前で人が窒息して死にかけている。
それは脳内のイメージ映像ではなく、たった今現実に起こっている出来事だったのだ。
小春は男性の元へ駆け寄った。
「医者です! 何か詰まりました!? 息ができないんですね!?」
「!!」
男性が首を押さえたまま、ぷるぷると痙攣するように頷いた。やっぱり、完全に気道が閉塞しているようだ。
このまま放っておくと死んでしまう。
なんとかしなくては。
小春は男性の背後に回ると、お腹を軽く支え、頭を下げさせた。
「背中を叩きますよ!」
そう言うや否や、肩甲骨の間を、手のひらの付け根で強く叩いた。
何度も連続してバンバンと叩く。
気道に何かが詰まった時は、嘔吐させるのではなく、咳をさせることが重要だ。空気で異物を押し出すのである。
まずは背部叩打法といって、背中を叩いて咳を誘発させる手技を行ってみたが、男性が咳き込むような気配はなかった。
(だめか……!)
現代ならまっさきに救急車を呼んでいる。だが、ここで頼れるのは自分だけだ。
小春の背中を冷や汗が伝った。
背部叩打法が駄目なら、次は腹部突き上げ法である。
小春は男性を背後から抱え込んだ。片手で作った握りこぶしの上に、もう片方の手を重ねる。
場所はみぞおちより下、へそより上。狙うは横隔膜だ。
(これで駄目なら気管切開するしかなくなる……!)
できればそこまでいってほしくない。そんな怖いことはしたくない。
だが、非情にも男性の唇は、低酸素状態を反映してだんだんと紫色になってきた。
「お腹を押しますよ!」
ぐっ、と両腕に力を込めて、握りこぶしを上方に引き上げる。
男性の横隔膜が震える感触が伝わってきた。
が、咳が出るまでには至らなかった。
「もう一回!」
横隔膜を押す。
確かに横隔膜が痙攣しているのに、中々咳が出なかった。
小春は泣きそうになった。
(お願い神様!)
私に気管切開をさせないで。
「行きますよ!!」
半ば悲鳴を上げながら、小春が三度目の腹部突き上げ法を試みた、その時だった。
「っ! げぼっ、げほっ、ぅえほっ!」
(出た!)
咳き込んだ男性の口から、小さなミカンほどの大きさの白い塊が吐き出された。
餅だ。
どうりで出にくいと思った。気道の壁にへばりついていたのだろう。
パンやご飯と違って、餅は粘着性がある分、なかなか咳で吐き出させにくいのだ。
もし腹部突き上げ法で吐き出せなければ気管切開しなければならなかったし、窒息で死ぬことだって十分あり得た。
餅、恐るべし。
「はぁ……良かった……」
ひとまず気が抜けて、小春の全身をどっと疲労が包む。
その耳に、歓声が届いた。
「流石、氷上先生!」
「あんな吐かせ方は見たことがねぇ!」
野次馬と化していた新選組の隊士達だった。まるで自分が立てた手柄かのように大喜びしているのを見て、思わず苦笑が漏れる。
何度経験しても、この大騒ぎするような褒められ方には慣れないものだ。
小春はまだ男性の背中をさすっている女性に話しかけた。
「あの……食事中にお餅が詰まったんですか?」
女性はぱっと顔を上げると、小春を見て生き仏を拝むかのように手を擦り合わせた。
「ああ、先生! そうなんです、ほんまにありがとうございました。先生は命の恩人やわ、どうお礼したらええんやろ」
「いやいや、そこまででは……ところで、この方のお名前は?」
「へぇ、この料亭をやっとります、うちの夫の忠助と言います」
「忠助さん」
小春はやっと人心地ついたという顔をしている忠助に話しかけた。
「お餅を吐き出すのにお腹を強く押してしまったので、お腹の中が傷ついているかもしれません。私はもう行かなければならないのですが、必ず別のお医者さんに診てもらってくださいね」
腹部突き上げ法の合併症として、横隔膜を強く押すため内臓を損傷することがある。最初に背部叩打法を試みたのも、合併症を気にしてのことだった。
本当は小春が経過を見てあげたかったが、大坂に行かなければならないので仕方ない。
と思っていると、いつの間にか隣に土方が現れていた。
「いや、氷上君、君がこの男を診てやれ。一晩中だ」
「えっ、でも……」
大坂に着くのが一日遅れるが良いのだろうか。
だが忠助の妻は何か心得たようで、ぺこぺこと手もみをしていた。気のせいか、彼女の顔には商売人特有の打算的な笑みが浮かんでいる。
「ええ、ええ、ありがたいことですわ。そしたら、お連れの方々がお休みになる場所も必要でんな」
「頼む」
なんだかやけに話がスムーズだ。
なぜだろう?
腑に落ちない思いを抱えて辺りを見回すと、なんとなく隊士達がそわそわとある方向を気にしているのに気がついた。
料亭や茶屋が並ぶ一角に、高い塀が続く区画がある。
もっと規模の大きなものを、小春は島原で見たことがあった。
つまり、そういうことだ。
(遊郭に行きたかったからあれだけ喜んだんじゃないよね?)
なんだか疑わしくなってくる。
小春が眉間に皺を寄せていると、忠助の妻が治療のために料亭の奥へと案内してくれた。
「せや先生、疲れてるんとちゃいます? おしるこでもいかがでしょ。お餅と白玉とありますが」
「……白玉で」
流石に餅を食べる気分にはならなかった。




