八月 タイムスリップ ③
足が棒になるほど歩いて、それでもまだ歩き続け、いよいよ倒れるかも、と思った頃にその建物は見えてきた。
「あれが新選組の屯所です」
小春は目を瞬かせた。
てっきり交番くらいの広さかと思っていたが、普通に警察署ほどの大きさがある。ひょっとすると警察署より広いかもしれない。時代劇の撮影に出てきそうなほど立派な屋敷だった。
「大きいですね……」
「そうですね。なるべく私から離れないでくださいね」
横を見ると、通りを歩いている時よりも沖田の顔が強張っているような気がした。
(まるで屯所の中に化け物がいるみたいな)
小春は冗談半分にそう思っていたが、強ち間違いではなかった。
――芹沢鴨。
現在の新選組局長筆頭であり、その行いは悪逆非道、まさに全隊士が恐れる怪物のような男である。彼に見つかれば流石の沖田でも守り抜いてやることはできない。異人の女を隊に連れ込んだなどと知れたら、二人まとめて斬り殺されるかもしれないのだ。
自分の身にそんな恐ろしい可能性が迫っているとは夢にも思っていない小春は、見たことのない景色を前にきょろきょろと首を動かした。
(すごい、本物のお屋敷だ)
沖田の側を離れることはないが、視線はあちこちを彷徨っていた。今の小春には、殺されるかもしれないという恐怖よりも、物珍しいものを前にした興奮の方が遥かに勝っている。
沖田はまるで迷路のような廊下を進み、ある一室へと辿り着いた。障子の奥へ、控えめに声をかける。
「近藤先生」
「おう、総司か。どうした」
「お話があります。入っても?」
「ああ」
沖田が障子を開けた。部屋の奥に座っている人物は、沖田の他にもう一人の人物が入ってきたことを認めると、目を見開いた。
驚いている男を前に、沖田はまるで甲虫を捕まえた子供のような笑顔で言った。
「お姫様を拾いました」
それから五分も経たないうちに、小春の前には三人の男が集まった。右から、近藤勇、土方歳三、沖田総司の順である。中でも土方から受ける視線は氷を通り越して液体窒素のように冷たく、小春は胃がキリキリと冷えていくのを感じた。
「……おい、女」
「は、はい」
土方が小春を射抜くように上から下まで眺めていたのを、急に話しかけてきたので小春は飛び上がりそうになった。声もドスが効いていて迫力満点である。このやり取りだけで寿命が一時間くらい縮んでいそうだった。
「名前は」
「氷上小春です」
「出身は」
「と……江戸です」
東京、と言いそうになったのを小春は喉の奥で飲み込んだ。尤も土方らにはそれがバレているのか、一瞬「怪しい」とでも言いたげに眉間に皺が寄っていた。
「それは本当だな? 異国じゃないんだな?」
「違います。れっきとした日本人です」
「じゃあなんで京に来た?」
「えっと……」
小春の目が泳ぐ。
京都に来たのは、大学に進学するためだ。だがこの”京”には、なぜ来たのかがわからない。気がついたらここにいた、と言うより他がない。
どうやら自分はこの時代の価値観に照らし合わせると酷い格好をしているようだし、もしかしたらどこぞの賊に拉致された哀れな女として受け取ってもらえるのではないか――
そう思い、小春が口を開きかけたその時だった。
「土方さん、この人、どうも土地勘があるみたいですよ」
沖田だった。その言葉に、小春は顔色を青くする。
(馬鹿!!)
どこに誘拐先の地理に詳しい女がいるだろうか。これで拉致されたという言い訳は使えなくなってしまった。
焦っている小春を見て、土方の顔に残忍な笑みが浮かんだ、ように見えた。
「ほう? じゃあ京に住んで長いのか」
「う……」
何と答えればいいのだろう。
さっきから、小春は頭の中でいくつもの筋書きを構成していた。いかに自分の正体を怪しまれず、役に立つ医者(の卵)としてここに置いてもらえるか、そのために脳をフル回転させていた。だが話が進めば進むほど、筋書きに矛盾が生まれて使えなくなっていくのを感じる。小春はじわじわと追い詰められていた。
そんな小春の様子を見てか、近藤が穏やかに言った。
「そんなに怖がらないでくれ。俺達は、君を無事に家に送り届けたいだけなんだ」
その優しさに、小春は感動しかけた。だが、同時に悲しくもなった。その気持ちのまま、小春は口を開いた。
「家は……ありません」
「なんと!」
近藤が声をあげる。沖田も意外そうに目を瞬かせていた。その中で、小春の真正面に座る土方だけが、睨むように小春を見つめていた。
「どういうことだ」
「それは……」
家を飛び出してきたから? それとも家が取り潰されたから?
小春が何と言おうか迷っていると、ふと、土方の纏う雰囲気が変わった。すっ、と立ち上がる音がして、
(やばい)
と、直感が叫んだ。
シン、と空気を裂く音がする。
気がつけば、小春の喉のすぐ側に、白く光る刃が覗いていた。
「てめぇ……さっきから何をごちゃごちゃと考えてやがる。何か話したくないわけでもあんのか」
「っ……!」
土方が何か言っているが、小春の耳には何も入っていなかった。ただ、意識の全てが、土方の右手に向いていた。
刀だ。
刀が、あった。
(嘘をつくと、殺される)
恐怖にぼやけた意識の中で、それだけははっきりとわかった。小春の瞳に、理由のわからない涙が浮かんだ。
――私、未来から来たんです! お願いです、信じてください!
狂乱のままに、そう叫んでしまいたかった。だが……
「言えません」
「あ?」
「……言えません」
小春の頬を、涙が伝った。