十二月 酒 ④
(すごい飲むな、この人)
杯を舐めながら、沖田はぼんやりと斜め向かいの席にいる小春を眺めた。
酒ではなく水が注がれているのでは、と錯覚しそうになるほど、小春は淡々と杯を空けていった。
もう一升近く飲んでいるはずだが、顔色一つ変わらない。いつまでも透き通るような白い肌のままだ。
永倉から「氷上先生は酒豪に違いない」とは聞いていたが、まさかここまで強いとは思っていなかった。彼女の飲みっぷりにつられたのか、原田や斎藤までもが潰れている。
倒れている屍の元へ、小春が優雅な足取りで近寄った。
「原田さん、大丈夫ですか? 仰向けじゃなくて、横を向きましょうか」
介抱しているようだ。
沖田も興味本位で彼女の側へ行った。
「どうして横を向かせるんですか?」
「仰向けだと、吐いたものが喉に詰まって死んでしまうかもしれませんから」
「なるほど」
それは怖い。
小春は意識を失っている原田の腕を顔の下に差し込み、再び仰向けに戻ってしまわないようにした。同じことを斎藤にもやってやり、それから仲居に水を用意させると、彼らの近くの膳へ置いた。
「お酒を飲むと体から水が失われてしまうので、こまめな補給が大事なんですよ」
そう言いながら、自分も水を飲んでいる。「沁みますねぇ」となんだか老婆のような口調で言った。
馴染みの遊女と別室へ“遊びに”行った近藤らが戻ってくるまで暇なので、沖田や小春は他の妓達と双六をして遊ぶことにした。
初めて見るのか、きらきらと目を輝かせてはしゃぐ小春を、沖田は横目で観察する。
(不思議な人だなぁ)
小春を拾ってからもう四ヶ月が経つが、未だに沖田は彼女のことがよくわからなかった。
他の医者が千人束になっても敵わないほど医学に深く精通していて、血や死体を見ても一切動じることがない。まるで神が医術のために遣わした仙女のようだ。
かと思えば、見知らぬ物を見ると子供のように目を輝かせ、ある時は運動が嫌だと駄々をこねたりする。面白いことがあれば、誰より楽しそうに笑う。
彼女が泣いているところなど、一度も見たことがなかった。
「あら、うちの上がりどすなぁ」
「あっ、ずるい! もう一回、もう一回しましょう!」
双六ごときにムキになって怒ったかと思えば、すぐにけらけらと明るい笑い声をあげる。
本当に不思議な女性だった。
いつの間に時間が経ったのか、四ツ時の拍子木が鳴っている。
近藤達はまだ戻ってこなかった。このままお休みになるつもりかもしれない、と沖田は帰り支度をするか悩み始める。
だが、その拍子木の音を聞いた途端、小春が酒量を感じさせない俊敏な動きで立ち上がった。
「帰らなきゃ」
まるで親に呼ばれた子供のようだ。隊にいる患者のことを心配しているのかもしれない。
口々に名残惜しいと言う遊女達に、小春は礼を言うと、真っ直ぐな足取りで部屋を出て行った。沖田もその後を追う。
「一人で帰るつもりですか? 危ないですよ」
いくら帯刀しているとはいえ、というか帯刀しているからこそ、どんな浪士に狙われるとも限らないのだ。もっと自分の身を大事にしてもらわないと困る。
だが、小春は不思議そうに首を傾げていた。
「すぐ近くじゃないですか。これくらい大したことないですよ」
「駄目です。何かあってからでは遅いんですから」
沖田がきつく言うと、小春は「お母さんみたい」と笑った。暖簾に腕押し、という諺を思い出す。草履を履くのに俯いてしまったので、彼女の表情は見えなかった。
見送りに来た仲居に礼を言っていると、視界の端で小春がふらりと表へ飛び出していくのが見えた。
「あ、ちょっと、小春さん!?」
慌てて後を追うと、小春はただ店の軒先に立って、空を見上げているだけだった。
星を見ている。
「夜空って、こんなに綺麗なんですね」
つられて空を見上げたが、今日は月も出ているからそこまで良くは見えない。晴れた夜によくある空だ。
だが、小春は惚けたように上を向き続けている。
「同じ京都なのに、まるで別の場所みたい……」
「夜の外出は初めてですもんね」
そう言うと、小春ははっとしたように沖田を見た。
沖田がいることは分かっていたはずなのに、今気付いた、とでも言わんばかりの顔をしている。
「そう、そうです。部屋からは空がよく見えないから」
自分に言い聞かせるかのように言う。
かと思えば、ひどくやるせなさそうな表情を浮かべた。
「……帰りましょうか」
小春がぽつりと呟いて、歩きだす。
その背中がいつも以上に小さく見えて、沖田は思わず黙り込んだ。
(何か変なことを言っただろうか)
自問するが、すぐに否定した。彼女の顔は、沖田の失言に気分を害したというよりも、自分の無力さにうちひしがれているような様子だった。
一体何が彼女をそこまで追い詰めているのだろう。
宴が始まってすぐ、藤堂は小春に命の危機を救ってもらったと言って感謝の盃を捧げていた。謙遜しながらもその盃を受けた時の小春の顔は紛れもなく嬉しそうで、医者としての誇りが滲んでいた。
(宴ではあんなに楽しそうに振る舞っていたのに)
双六をして笑っていた彼女と、こうして沈み込んでいる彼女。
どちらが本当の顔なのかわからなくなる。
俯いて歩く小春に肩を並べ、しばらく無言で歩いた。
そのうち沈黙が気まずくなった。
「疲れてしまいましたか?」
「え?」
「なんだか気分が優れないようですから」
率直に沖田がそう言うと、小春は首を横に振った。
「そんなことは……。すごく楽しかったですよ。まるで夢みたいでした」
「それなら良かった」
つまらない宴を無理に楽しんでいた、というわけではなさそうだ。
となると、彼女個人の問題か。しかし、それを無理に聞くわけにもいかない。
結局、再び沖田が黙り込んでいると、小春がふとこちらを向いた。
「ありがとうございます」
「え?」
「心配してくれて」
「別にそんなわけでは」
気恥ずかしくなって咄嗟に否定したが、小春はそんな沖田の心中をも見抜いているかのように、柔らかな微笑を浮かべた。
「沖田さんは優しいですね」
夜の静けさに紛れて消えてしまいそうなほど、小さな声だった。その声が僅かに震えていることに、沖田は気付いてしまった。
月が雲に隠れ、辺りが暗い闇に包まれる。彼女の輪郭だけが浮かび上がって見えた。
ほとんど掠れた吐息のような言葉が続いた。
「でも、私は…………寂しいです」
――寂しい。
小春の口からその言葉を聞いた瞬間、沖田の頭を角材で殴られたかのような衝撃が走った。
それだけではなかった。
彼女の頬を、涙が伝っていた。
涙を見てから、ああ泣いているんだ、と理解するのに数秒かかった。そしてまた、眩暈がした。
小春が泣いている?
まさか。
でも、泣いている。
薄い肩を震わせる彼女の姿を見つめる。
信じられない、という衝撃の後に、じわじわと沁み通るような庇護欲が湧いてきた。
新選組の医者ではなく、一人の女としての小春がそこにいた。
「今日は、本当にすごく楽しかったんです。でも、楽しければ楽しいほど、虚しくなる。皆さんがこんなに優しくしてくれるのに、私は隠し事ばかり……本当の私を知っている人はこの世界に誰もいません。きっとこれからも、私はずっと一人です。でも、そんなのはつらすぎる」
言葉の一つ一つが、刃となって沖田の心を突き刺す。
建前も理屈も論理も削ぎ落とされて、ただ彼女を守らなければならないという純粋な本能だけが全身を支配した。
気付けば、小春の腕を引いていた。肩を掴んで、己の腕の中に閉じ込める。
涙を湛えた瞳が、星の空を映して揺れていた。
「沖田さん、私……」
心臓の音がうるさい。
震える彼女の唇から目が離せない。
「私、本当は……」
全ての雑音が夜空に吸い込まれて、まるでこの世界に二人しかいないかのような錯覚に襲われる。
風も、眠る生き物の息遣いも、彼女の言葉を前に全てが息を潜めている。
呼吸を止めて続く言葉を待っていた、その時だった。
「……」
ふっ、と糸が切れたかのように、彼女の体が傾く。
そのまま、ずるずると地面に崩れ落ちた。
「……えっ?」
突然のことに、理解が追いつかない。
一瞬にしてなめくじみたいになってしまった小春は、道の真ん中ですやすやと寝息を立てていた。
沖田は今更、彼女が酒を浴びるように飲んでいたことを思い出した。
しかし、潰れるにしてももっと適切な頃合いというものがあるだろう。少なくとも、今じゃない。今は起きてもらわないと困る。
「こ、小春さん、起きて」
呼びかけるが、小春が目覚める様子はない。
ぺちぺちと頬を叩いても、何度か揺さぶっても、彼女は夢の世界から一向に帰ってこなかった。
沖田はまるで悪い夢でも見ているかのようだった。
「……嘘だろ」
まだ彼女が何を言おうとしていたのか聞いていない。きっとすごく大事な、今しか聞けない話だったのに。
それに、ここはまだ屯所ではない。一体誰がどうやって彼女を運ぶと思っているのか。
沖田は眉間に皺を寄せたまま、深い溜息をついた。
(こんなところで寝るなー!)
今にも叫び出したい衝動を、必死に堪えていた。




