十二月 酒 ③
座敷に通されてからほどなくして、宴会が始まった。
といっても、現代の飲み会のように「それでは藤堂さんの回復を祝して、乾杯!」などとはやらない。近藤と藤堂が一言二言喋って、後はそれぞれが好き勝手に飲んだり食べたりする、フリースタイルの宴会だ。
先輩に甲斐甲斐しくビールを注いだり、コールを受けて一気飲みしたりする必要もないので、この方が小春は好きだった。
……尤も、隣でお酌をしてくれる女性の存在がなければ、の話だが。
「氷上様、どうぞお杯を」
「あ、ありがとうございます」
白魚の手がすっと差し出される。
杯を持つ小春の手が小刻みに震えていた。
(ひぇえ、緊張する)
同性相手に何をそこまで緊張しているのか、自分でも滑稽だとは思う。
だが、顔を白く塗り、唇の真ん中にちょこんと紅を乗せ、美しく微笑を浮かべている目の前の遊女が、自分と同じ性別、種族だとはとても思えなかった。
(しかもなんか良い匂いするし)
香を着物に焚きしめているのか、彼女からは食事の邪魔にならないほど微かに良い匂いがして、小春は気後れした。
それなのに、小春より年下の藤堂や斎藤でさえ、勝手知ったるという様子で遊女らと談笑している。なんというか、妙な敗北感を感じる。
せっかく屯所では食べられないようなご馳走が並んでいるのに、緊張で味が全くわからない。
ぼんやりと杯を見つめていると、遊女がおずおずと小春の顔色を窺ってきた。
「あの……うちのお酌はお嫌どすか?」
「え?」
(俺の酒が飲めんのか、みたいな話?)
一瞬、この遊女が大変上品で慎ましやかなアルコールハラスメントをかましてきたのかとびっくりしたが、彼女の表情を見る限り、どうやら単純に不安なだけらしい。
確かに、小春のお酌をしてくれている彼女は、他の遊女よりも幾分かあどけなく見える。新人なのだろうか。
「いえ、そんなことはないです。ただ」
「ただ……?」
「緊張しているだけで」
正直に白状すると、彼女はくすっと安心したように笑った。笑うと目尻が下がって愛らしい。
「そんなん、楽にしてくれはってええんどすえ」
「そうなんですけどね」
楽にしようと思って出来るなら苦労はしていない。
とはいえ、彼女と定型文以外の言葉を交わしたことで、緊張が少し解れたのも事実だった。
(いよいよ飲むのか、これを)
小春は注がれた清酒を睨んだ。
清酒に映る自分も、負けじと睨み返してくる。
日本酒との再戦の時だ。
ひっそりと覚悟を固めていると、原田が声を上げた。
「先生、もしかして酒飲むの初めてか?」
「まぁ、はい、そうです」
「こりゃいい! 皆見ろ、氷上先生が飲むぞ!」
その言葉に、酒席がにわかにざわめきたつ。その場の全員から視線を浴びて、まだ飲んでいないのに小春の頬が自然と赤くなった。
なんだか大学の飲み会を彷彿とさせる。
ちらり、と沖田の顔を窺うと、彼も小春のことを真剣な面持ちで見守っていた。
沖田が京の日本酒は美味しいと言うのなら、きっとそうなのだろう。美味しくなかったら恨んでやる。
(信じますよ)
目を閉じて、ぐい、と杯を飲み干す。
観客がどっと沸いた。
しばらく小春は頑なに目を瞑っていたが、違和感を感じ、ゆっくりと目を開いた。
「あれ……?」
いつまで経っても、あの鼻に抜けるようなアルコール臭がやってこない。
それどころか、口の中にじわじわと甘みが広がっていくのを感じる。
それも、安いパックの日本酒のような人工甘味料の味ではない。
米だ。
ちゃんと米の味がする。
自然の甘みと旨味を、豊富なブドウ糖とアミノ酸の存在を感じる。
小春の知らない日本酒だった。
「……」
再び不安そうな顔を浮かべた遊女に。
固唾を飲んで見守る幹部の面々に。
小春は蕩けるような満面の笑みを浮かべた。
「美味しい!」
歓声が部屋を揺らした。
「いいぞ先生!」
「遠慮せずにどんどん飲めよ!」
勢いが凄まじい。まるで武道館ライブのサビに突入したかのような盛り上がりだ。
二杯目を注いでもらい、もう一度、今度は口に含むようにして飲む。
(美味しい……! こんなお酒飲んだことない!)
まろやかですごく飲みやすい。まるで甘酒みたいだ。
感動で瞳を濡らしている小春に、近藤が嬉しそうに言った。
「どうだ、氷上君。京の酒は美味いだろう」
「ええ、とても美味しいです!」
「いいぞ、もっと飲め飲め!」
囃し立てる声に乗ったつもりではないが、小春は新たな三杯目の杯を飲み干した。
アルコールで緊張が解れたのか、料理の味もよくわかるようになった。酒の美味さに負けず劣らず、料理も絶品だ。
特に鯛のお造りなど、冷蔵技術の発達していないこの時代でよくこんなに新鮮さを保てるものだと感心するほどだ。
(こんなに贅沢しちゃって良いのかなぁ)
そう迷う気持ちも、無くはなかった。現代では到底考えられないほどの贅沢をしている。
だが、この極楽浄土、竜宮城のような空間にいるうちに、そんな思考は溶けて消えていってしまった。
三味線や箏の音が鳴り響き、音楽に合わせて芸妓が舞を踊る。
それに触発されたのか、原田が自慢の一文字の切腹傷を露わにして、腹踊りを披露する。
ならば自分も、と皆が次々に宴会芸を披露していき、宴は大盛り上がりとなった。
特に近藤が自分の大きな握り拳を丸ごと口の中へ出し入れした時など、ごく単純な芸にも関わらず、皆が腹を抱えて笑っていた。
「はぁ……」
笑いの余韻を引きずって、小春は恍惚とした溜息を漏らした。
久々にこんなに笑った、と自分でも思う。
まるで夢のような時間だ。これがアルコールによって見せられた幻覚だと言われても信じられるくらい、何もかもが楽しかった。
そしておそらく、今までの人生の中で一番酒量が嵩んでいた。
注がれるままに飲んで、杯が空いて、また注がれて、わんこ蕎麦ならぬわんこ酒状態だ。
正常な思考なら、もう飲むのはやめておこうと制止をかけられたはずだ。
だが、今の小春の脳はそれが出来るほど理性的ではなかった。
「氷上様、どうぞ」
「ありがとう」
再びなみなみと注がれた清酒に、小春はふと視線を落とした。
思考が薄いベールに覆われているかのように、頭がぼんやりとして、ふわふわする。
言いようもなく幸せだった。
それが、根拠のない偽りの幸せだともわかっていた。
(それでも良いや)
小春は自嘲的な笑みを浮かべた。
酒に溺れる奴は馬鹿だと思っていた。
馬鹿だから酒に溺れるんだとも思っていた。
でも、それは違う。
今ならその気持ちがよくわかる。
酒を飲んでいる間だけは忘れられる。
この気の良い男達が、いつか巨大な力を前に敗北し、歴史の露と消えてしまうという切なさも。
たった一人見知らぬ世界で、満足な設備もない中で医者をやらねばならないという不安も。
そして、自分を信じ、認めてくれている彼らに、何一つ本当のことを明かせていないという罪悪感も。
今だけは忘れられる。
医者でもない、未来から来た人間でもない、ただの氷上小春になれる。
全てを考えないでいられるのだ。
「私は……弱いですね」
「氷上様?」
「いえ、なんでもありません」
浮かんできた苦い笑みを上書きするかのように、甘い麻薬を呷った。
それ以降の記憶がない。




