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十二月 酒 ②

 長かった藤堂の診察も、今日でやっと終診を迎えた。その足で、小春は藤堂と共に近藤の部屋へ訪れていた。

 もう脾腫が治まってだいぶ経ったし、倦怠感もなくなって、そろそろ隊務に復帰できる頃合いになったからだ。

 

 「失礼します」

 「おお、二人揃ってどうした」

 「藤堂さんですが、明日から隊務に復帰できると思います」

 「今までご迷惑をおかけしました。今後はより一層職務に励む所存です」

 

 藤堂が三つ指をついて頭を下げると、近藤は心の底から安心したような笑みを浮かべた。

 彼も噂に惑わされた、もとい相当藤堂の病状を心配していた人間の一人だったから、回復してくれてほっとしているのだろう。

 

 「それは良かった! では近く、快気祝いの宴をせねばならんな」

 「快気祝いですか。良いですね」

 

 藤堂は肝機能障害もなかったし、適量の飲酒ならば全く問題ないだろう。

 小春は目を細めて、隣の藤堂を見た。


 「あまり飲みすぎないようにしてくださいね、藤堂さん」

 「ああ、でも先生も来るだろ? なぁ、近藤さん」

 

 近藤は一瞬意表を突かれたような顔をしたが、すぐに元通りの笑みを浮かべて頷いた。

 

 「そうだな。氷上君も立派な主役だ」

 「えっ、良いんですか?」

 「ああ、歳に二刀を貰っただろう? そういうことだ」

 

 そういうこと、とはつまり、小春が自分の好きなように決めて良い、ということだろう。

 土方が刀をくれたことに、そこまで深い意味があったとは知らなかった。単に見栄えの為だろう、と思っていたのを反省させられる気分だ。

 

 なんにせよ、永倉を呼ぶような事態にならないで良かった、と小春はほっと一息ついた。

 

 「ありがとうございます、近藤さん」

 「いやいや。皆、氷上君と杯を交わすのを楽しみにしているよ。ではそうだな、明後日にでも角屋へ行こうか」

 「楽しみだな、先生!」

 「はい」

 

 久しぶりのお出かけだ。

 外出するのは、楠小十郎の死体を調べに行った十月ぶりだった。しかも今回はそんな血生臭い仕事ではなく、楽しいプライベートの方の外出である。

 小春の胸が自然と弾んだ。


 

 


 そして二日後。

 小春は打刀を手に悪戦苦闘していた。


 「あれ? どうやるんだったっけ……」

 

 外出するとなれば刀を身に着けなければならない。脇差はいつも持ち歩いているから、後は打刀を差すだけ……なのだが、打刀に括り付ける下緒の結び方を忘れてしまった。

 何度結んでも、紐がすぐに解けてしまう。

 

 「困ったな―」

 

 適当な結び方で表へ出たら、刀をくれた誰かさんに怒られそうだ。


 刀を貰った直後、沖田に蝶結びというやり方を教えてもらったのだが、その実態は全く現代の蝶々結びとは異なっていた。何度か教わっているうちに覚えたつもりだったが、しばらく刀を置きっぱなしにしていたせいで忘れてしまったようだ。

 もたもたしていると、廊下から袴の擦れる音が聞こえてきた。


 「小春さーん、行きましょう」

 

 沖田の声だ。小春は下緒を持ったまま、障子へ駆け寄った。

 

 「沖田先生! ちょうど良いところに」

 「先生?」

 

 ”先生”たる小春からそう呼ばれ、沖田が目を丸くする。小春は頷いて、下緒を見せた。

 

 「これ、結び方がわからなくなってしまったんです。もう一度教えてもらえませんか?」

 「なるほど、そういうことですか」

 

 沖田は苦笑すると、小春の左側に跪いた。出来るところまでやってみて、という目をされる。

 言われた通り、小春はくるくると下緒を結び、途中で手を止めた。

 

 「ここから先を忘れてしまって」

 「緒を裏側に通してください。それから山折りにします」

 「えっと……」

 

 (山折りってどっち向きだったっけ?)


 視点が上下逆なのでわかりづらい。

 混乱している小春の手に、沖田の手が伸びた。

 

 「こうです」

 

 手が重なった。


 あっ、とも、えっ、ともつかない声が上がりそうになったのを、喉の奥で飲み込む。

 らしくもなく動揺していた。

 

 「この紐をここに通して、もう一度山折りにします」


 手が勝手に動いている。いや、動かされている。


 沖田からすれば、下緒の結び方を手で覚えさせようとしているに過ぎないのだろう。そう、例えば子供に教える時のように。


 そんなことはわかっている。


 「その頂点をここに通して、紐を閉めれば完成です」

 「…………えっ?」

 

 いつの間にか、下緒がきちんとした形になっていた。

 

 (全然聞いてなかった……)

 

 というより、聞こえていなかった。

 呆然としている小春を見て、沖田が困ったような顔をした。

 

 「もしかして、わかりませんでした?」

 「い、いえ、全然そんなことないです!」

 

 自分の頭にかかった靄を振り払うように、ぶんぶんと頭を横に振る。

 ちょっと気分がしゃきっとした。

 

 「次からは自分でできると思います」


 半分本当で、半分嘘だ。それでも、沖田は安心したように笑った。


 「良かった。では行きましょうか」

 「はい」

 

 小春は部屋の表に「不在」の札をかけると、屯所を後にした。




 

 今日の宴会場である角屋は、島原という遊郭にあるらしい。

 それを聞いた時、沖田は「平気ですか?」と小春の顔色を心配そうに窺ってきたが、小春は遊郭自体には別に嫌悪感は抱いていなかった。

 むしろちょっと楽しみでさえある。

 

 (どんなところなのかなぁ)


 現代では遊郭と言うと、祇園みたいにお金持ちのおじ様たちが遊ぶ場所というイメージが強いが、この時代では安めの店もあったりしてもう少し敷居が低いようだ。

 まぁ、敷居が低いということは、結果的に性病の蔓延にも繋がるのだが……



 日が傾き、橙色に染まり始めた空の下を歩く。この時代の空は現代よりずっと高くて広く感じる。今は真冬だから、きっともうすぐに暗くなってしまうだろう。


 島原に近づくにつれ、往来からは女性の姿が消えていった。人々のざわめきが、低く、力強いものになる。

 そして島原の門をくぐり抜けると、そこはもう別世界だった。

 

 「わぁ……!」

 

 小春は息を呑んだ。


 軒先にずらりと連なった提灯が、黄昏の空を淡く照らす。人垣の割れた真ん中を、豪華に着飾った美しい女性が、しゃなりしゃなりと優美な足取りで進んでいく。


 現代の祇園、花見小路でもなんとなく似たような光景は見られるが、規模が違う。そして、熱気が違う。

 遊女に注がれる熱い眼差しを反映してか、この島原だけはほのかな暖かさに包まれていた。

 どこからか鈴の音が聞こえる。不快なはずの煙草の匂いでさえ、この空間においては一種のアクセントになっていた。

 

 (まるで映画の中みたいだなぁ)

 

 鮮やかで、煌びやかで、現実味がない。

 この世のものとは思えない非日常的な光景に、小春が口を開けて見惚れていた時だった。

 

 「そういえば、小春さんって酒豪だって聞きましたけど、本当ですか?」

 

 ――急に現実に引き戻された。

 

 発言主である沖田は、花街を歩く美女には目もくれず、にこにこと小春を見つめている。

 小春は思わず苦々しい顔になった。

 

 「永倉さんから聞いたんですか? それ」

 「他の人も言ってますよ。先生は酒が強いに違いないって」

 

 一体誰が何を見てそう言っているのやら。


 「そんなことないですよ。こっちに来てからは、お酒を飲むのは初めてですし」


 実際、小春がこの時代に来てから酒を飲むのは、今回が初めてだった。

 厳密にはアルコールの蒸留実験で大変強い酒を一滴舐めたりしているが、それは一般的に想像されるような飲み方ではない。


 そもそも、小春はそこまで酒が好きではなかった。

 甘いチューハイやカクテルなら飲めるが、それ以外の酒は苦いのであまり飲もうとは思わない。

 特に日本酒は苦手だった。日本酒かビールならビールのほうがマシ、というレベルだ。

 

 (でも、この時代で飲み会って言ったら日本酒だよねぇ)

 

 小春の顔が曇った。それを見て、沖田が首を傾げる。

 

 「屯所でも一滴も飲んでませんよね。嫌いなんですか?」

 「嫌いというか……うん、あまり好きではないですね」

 

 なぜ日本酒が嫌いなのか。それは、今まで飲んだ日本酒が美味しくなかったからだ。

 ウニと同じように、高級な物であれば美味しいのだろうが、小春が口にしたことがあるのは飲み放題プランで提供されるような安酒である。なんだかケミカルな匂いがするし、体に悪そうな味がする。そして飲むと変な酔い方をする。

 

 そんなわけで、日本酒しかないこの時代に来てからは、酒を飲むのを極力避けていたのだ。

 

 「でも、せっかく呼んでもらったので少しくらいは飲んでみようかなと思います」

 

 そう言うと、沖田はにこりと目を細めた。

 

 「私も京に来る前は誰があんなもの飲むんだろうと思っていましたけど、京の酒は美味しいですよ。ぜひ飲んでみてください」

 「そうなんですか。ではちょっと楽しみにしておきます」

 

 確かに、ここ島原であれば、きっと高級な美味しいお酒を出してくれるだろう。少なくとも、あのよくわからないケミカルな味はしないに違いない。


 小春はなんだか楽しみになってきた。




 男性客でごった返す島原を、沖田は魚のようにすいすいと歩き進んでいく。

 程なくして、一軒の店の前で振り返った。

 

 「ここです」

 「え、ここですか!?」

 

 小春は沖田の顔と店を交互に見た。


 確かに「角屋」という看板が出ているが、そこは現代の居酒屋とは比べ物にならないほど大きな店だった。もはや屋敷である。


 なんというか、精神的にはまだ大学生の小春が、そう安々と入っていけるような雰囲気ではなかった。

 ちょっとでも行儀の悪い振る舞いをすれば、すぐに摘み出されてしまいそうだ。もちろん店もそんな真似はしないだろうが。

 

 (ドレスコードとか、大丈夫だよね?)

 

 ドレスコードという言葉があるかはともかく、小春の今の格好は袴羽織とちゃんとした正装ではあるのだが、小春は急に不安になっておろおろと自分の服装を確認し始めた。

 

 「大丈夫でしょうか、こんなお高そうなところに入って浮いてしまわないでしょうか」

 「うん……別に取って食われはしませんから、もうちょっと落ち着きましょうか」

 「は、はい」


 緊張でぎくしゃくしている小春を、道行く男達が生暖かい視線で見守っている。

 なんというか、子供を見る目と似ているような似ていないような……

 

 (あっ)

 

 わかった。童貞を見る目だ。

 ここが遊郭ということを今更実感し、小春の頬が燃えるように熱くなった。

 

 「は、早く入りましょう、沖田さん」

 「はいはい」

 

 小春は角屋の敷居を跨いだ。


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[一言] 小春「どどど童貞ちゃうわ!(二重の意味で)」
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