十一月 風邪? ⑤
翌日、小春は藤堂の許可を得て、土方の元へ病状を報告しに行っていた。
「土方さん、藤堂さんの病気ですが、風邪ではなくて伝染性単核球症でした。最低でも一ヶ月の休養が必要です」
土方が机から顔を上げた。
「ひと月も? 大丈夫なのか」
隊務に穴が、とかではなく、まず藤堂の心配を口にしてくれたので、小春はちょっと安心した。
「普通にしていればまず死にませんが、脾臓が腫れているので、お腹に衝撃を受けると良くないです」
「そうか、わかった。その間、八番隊は山南さんに指揮してもらおう」
「よろしくお願いします」
土方が理解のある上司で助かった。
一礼すると、小春は土方の部屋から出ていった。
次に、土方は山南の部屋を訪れた。
「山南さん、あんたにしばらく八番隊の指揮を任せたい」
山南は「なぜ自分が」と言わんばかりの不思議そうな顔を浮かべた。
「それは構わんが……藤堂君はどうしたんだね」
「伝染性なんたら症とやらで、少なくとも一ヶ月は休まなければならんらしい。代わりを頼めるか」
他の隊長に兼任させることも考えたが、藤堂の病欠が比較的長期に及ぶ以上、しばらく総長に率いてもらうのが最善だと考えた。
土方がそう説明すると、山南は重々しく頷いた。
「そうか……それは気の毒なことだ。わかった、頼まれよう」
やけに山南の表情が険しいのが引っかかるが、土方も忙しいのであまり長話はしていられない。
土方はさっさと山南の部屋を辞去した。
その後、沈痛な面持ちをした山南が、近藤の見舞いに訪れた。
「近藤さん、聞いたかね。藤堂君まで倒れたそうだよ」
「何、あの平助が? 一体どうしたんだ」
土方から聞いていなかったようで、近藤は山南の言葉に目を丸くしていた。
「なんだかよくわからんが、病気だそうだ。私に八番隊の指揮を預けるくらいだから、土方さんも長期戦になると踏んでいるんじゃないか」
藤堂は魁先生というあだ名がつくほど、敵陣に真っ先に飛び込みたがる勇猛果敢な男だ。そんな彼が病に倒れるとは、本人もさぞかし無念に違いない。
「平助……よくなってくれればいいが」
部屋には重い沈黙が落ちた。
それから。
「隊長が病気だそうだ」
「えっ! あの魁先生が?」
「なんでもひと月は出てこないらしいぜ」
「そんな……!」
八番隊隊長、藤堂の病欠は新選組に暗い影を落とす。
いつしか噂に尾ひれがつき――
「藤堂先生が重病って本当か!?」
「そうらしい……氷上先生が手を尽くしているが、もうどうしようもないんだと」
「ああ……!」
もはや収拾不可能な事態に陥っていた。
――そんなことは露知らず。
藤堂が伝染性単核球症を発症してから、十日余りが過ぎた。
小春が藤堂の部屋に入ると、きびきびと布団を畳んでいる藤堂と目が合った。どうやらかなり動けるようになったらしい。
「おはようございます。ずいぶん元気そうですね、藤堂さん」
「ああ。もう飯だって普通に食えるようになったぜ」
「良かったです」
肌にもすっかり張りと血色が戻って、傍目に見る分には病人だとわからないくらいだ。
いつものように腹部を診察すると、脾臓の腫れもだいぶ引いていた。
「うん、経過良好ですね。そろそろ普通に動き回る分には大丈夫だと思います」
それを言うと、藤堂の顔がぱぁっと期待に輝いた。散歩、という言葉を聞いた犬のようだ。
「じゃあ、もう稽古始めてもいいか?」
「それはちょっと」
「ちぇー」
むすっと唇を尖らせる藤堂に、小春は苦笑した。
いくら腫れが引いたとはいえ、流石に剣術の稽古は不味かろう。たとえ竹刀だろうと、もし横腹に当たりでもしたらどうなるかわからない。
「それに、いきなり稽古は病み上がりの体にはきついですよ。もっと軽い活動から始めていきましょう」
「例えば?」
「私の手伝いとか」
「……」
そんなわけで、小春の手伝いに藤堂が駆り出されていた。
仕事といっても、そう難しい作業ではない。使用済みの晒布を煮て消毒するだけの簡単なお仕事だ。
台所の大釜を借りて、ぐらぐらと沸き立つ湯に晒布を放り込んでいく。温かい湯気が顔にたっぷりかかって、乾燥した喉に優しかった。寒い冬はこの作業が何より嬉しい。
「先生はいつもこんなことしてんのか?」
箸で晒布を突きながら、湯気の向こうの藤堂が尋ねてきた。
「思ってた仕事と違う」と顔に書いてある。
それを見て、小春はちょっと笑った。
「そうですね。患者がいない日はこうやって物を準備したり、掃除したり、薬の準備をしたりしています」
「自分一人でやってんのか?」
「はい。他に人もいませんし……」
藤堂が茹でた晒布を手早くざるにあけていく。惚れ惚れするほどの手際の良さだ。
濡れた晒布を絞るのも、小春がやるよりずっと水気がよく切れている。
思わず、小春はぼやいていた。
「藤堂さん、もう八番隊隊長やめて、私の補佐役になりませんか?」
「嫌だよ、降格してるじゃねぇか」
「バレたかぁ」
藤堂を補佐役に、というのは冗談だが、できればスタッフの一人や二人増員したいところである。たまに小春一人では手が足りなくなることがあった。
(まぁ、一人でもできるっちゃできるけど……)
土方に相談してみるべきか、小春が考えていたその時だった。
「平助!」
入り口の方から声がして、小春も藤堂も振り返った。
そこには、驚愕を顔に貼り付けた永倉がいた。
「お前、立ってて平気なのか?」
「ん? あ、ああ……もうだいぶ良くなったって、先生が」
藤堂の言葉に、永倉がはっと小春を見る。
その顔がみるみる感動に染まっていくのを見て、小春は妙な居心地の悪さを覚えた。
「そうだったのか、やっぱり先生は流石だな! お前を診てもらうよう言った甲斐があるってもんだ……」
「な、何の話です?」
永倉が何もしていない小春を褒め称えるどころか、目の端に涙まで浮かべ始めたので、小春は狼狽えた。
なんだかやたら反応が湿っぽい気がする。
それについて小春が話を聞く前に、次の客がやってきた。
「おい! 平助がここにいるって本当か!?」
「おお、いるけど……」
「平助!」
目に溢れんばかりの涙を溜めた原田が、呆然と立っている藤堂を抱きしめる。
藤堂は人に持ち上げられた野良猫のような顔をして嫌がった。
「やめろ、離せ! 野郎とひっつく趣味はねぇ!」
「こんなに元気になって……一時は生死を彷徨ったらしいじゃねぇか。それが氷上先生のおかげで……」
「ああ、本当……その通りだ」
永倉も原田も揃って目元を拭っている。
小春と藤堂は顔を見合わせた。
「……何の話です?」
小春が尋ねると、原田は「感動に水を差された」と言わんばかりに怪訝そうな顔をした。
「何の話って、そりゃ先生の話だよ。先生が藤堂の病気を治したんだろ?」
「えっ?」
「相当重体だったそうじゃねぇか。もう藤堂は復帰できないんじゃないかって騒ぎになってたんだ」
「ええっ」
なんだか、小春が土方に説明したのとは全然違う話になっていたようだ。又聞きを繰り返すうちに、どんどん藤堂の病状が悪い方へと修飾されていったのかもしれない。
訂正のために、小春は口を開こうとした。だが、
「……そうだよ」
と藤堂が言うので、さらに驚いた。
「藤堂さん!?」
「先生が俺の病気を治してくれた。だからこれだけ良くなったんだ」
「そうか。先生、本当にありがとう!」
永倉と原田が満面の笑みで小春の肩を叩いてくる。ちょっと、いやかなり痛いが、それどころではない。
(私、何もしてないのに!)
大した治療、どころか、藤堂には何の薬も与えていない。ただ毎日様子を見て、ずっと寝かせておいただけだ。今回の治療には、小春は正真正銘、一枚も噛んでいない。
なのにあたかも名医のように讃えられて、小春はいてもたってもいられなかった。
「あの、私……!」
「じゃあ、隊のみんなに藤堂は元気だぞって報告してこないとな。行こうぜ、左之助」
「おう! みんな喜ぶな、新八!」
「あ、待って……!」
――行ってしまった。
小春の弁解を聞く前に、二人は心の底から嬉しそうな顔をして台所から走り去ってしまった。
この調子だと、「氷上小春は重病の藤堂を治した名医である」という根も葉もない噂が瞬く間に広がるに違いない。本当に何もしていないのに。
小春は藤堂に向き直った。
「どうして私が治したなんて嘘ついたんですか?」
先輩に合わせたのかもしれないが、事実と異なることを言われては困る。
そう思い、小春は語気を強めた。
だが、藤堂の顔には後ろめたさの欠片さえも浮かんでいなかった。
「嘘じゃねぇだろ」
あまつさえそんなことまで言うので、小春は目を瞬いた。
「先生が診断してくれなかったら、俺は内臓破裂を起こして死んでたかもしれねぇ。先生は俺の命を救ったんだ。それってつまり、治したってことだろ」
「でも……」
「先生」
小春が反論しようとすると、藤堂は今までで一番真剣な眼をして小春を見つめた。
「もっと自信を持ってくれ。俺が信じた先生が、そんなに簡単に不安になってもらっちゃ困る」
「藤堂さん……!」
まさか藤堂にそこまで言ってもらえるとは思わず、小春は感動に涙ぐんだ。
確かに、藤堂を脾臓破裂の危機から救ったのは事実だ。
もしあのまま風邪だと誤診して、回復次第隊務に戻していたら、藤堂は今頃大量出血を起こしてこの世にはいなかったかもしれない。
そう思うと、自分が少しだけ誇らしく思えた。
(ちょっとは自信持って……いいのかな)
藤堂は照れ臭そうに笑っていた。
「前も言ったけど、頼りにしてるんだ。胸を張ってくれ、先生」
「……はい!」
小春もつられて笑顔を浮かべると、両手を胸の前でぐっと握りしめた。
「これからも私、頑張ります!」
藤堂の視線が、小春の腕に止まった。そして、溜息混じりに天を仰いだ。
「……やっぱ頼りねぇ〜」
「えっ、なんで!?」
「俺はそんな細腕に生かされたのか……」
「えーっ」
確かに、最近は井上が教えてくれたような鍛錬をさぼっていた。運動不足だったかもしれない。
だが、いくらなんでもそこまで頼りない腕だろうか……
小春は情けない顔をして、自分の腕を何度も見返すのだった。




