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十一月 風邪? ④

 頭を下げた小春の耳に、藤堂の苦笑が聞こえてきた。


 「……よしてくれよ、先生」

 

 顔を上げると、思ったより優しい眼差しが小春に注がれていた。

 やんちゃで日頃よく近藤に叱られている藤堂だったが、こんな眼もできるのか、と小春は半ば感心した。

 

 「俺は島原の太夫じゃねぇんだ……診たきゃ勝手に診れば良いさ」

 「あ……ありがとうございます!」

 

 小春はもう一度深く頭を下げた。

 これで身体所見が取れる。診断に大きく近づけるはずだ。

 

 (ただの風邪なら良いけど……)

 

 どうも違うような気がしている。


 早速、小春は布団の上に投げ出されていた藤堂の腕を取り、脈と呼吸数を測った。


 (このペースだと大体……心拍数90回、呼吸数20回くらいかな?)

 

 心拍数も呼吸数も、15秒間計測した値を四倍して計算することが多い。時計がないので正確なことは言えないが、小春のリズム感がまともであれば大体それくらいのはずだ。


 次は体温である。

 一声かけると、小春は藤堂の額を触った。

 

 (うーん、熱いな、多分)

 

 体温計が切に欲しいところである。

 念のため、自分の額をもう片方の手で触って温度を比べたが、やはり藤堂の方が体温が高かった。しかしその差は微妙である。高くても38度後半と言ったところではないだろうか。39度まではないはずだった。

 

 (もっと熱が高かったら、こんなにしんどそうなのも頷けるんだけどなぁ……)

 

 小春は首を捻りながら、今度は藤堂の頬に手を触れた。結膜に異常はないかと目を診てみたが、特に異常はなさそうである。

 瞼の結膜が白ければ貧血、白目が黄色ければ黄疸だ。貧血でも黄疸でも倦怠感の原因になるが、今回は違うようだ。

 

 「では、口の中を見せてください。あーってしてくださいね」

 「あー……」

 

 藤堂の喉を見た小春は、僅かに目を細めた。

 

 「腫れてますねぇ」

 

 (それに白苔もついてる)

 

 扁桃が赤く腫れていて、白苔という白い膿のようなものがそこへべったりと貼り付いていた。

 溶連菌感染症でよくある所見だが、細菌感染だけでなく、プール熱とも呼ばれるアデノウイルス感染症でも起こる。

 とはいえ、その二つが大まかに「風邪」と呼ばれる病気であることに変わりはなかった。

 

 (やっぱり風邪なのかなぁ)


 念のため胸部の聴診もしたが、肺や心臓に異常はなかった。

 なんだか引っかかるような気もするが、このまま風邪として放っておいてしまっていいのだろうか。

 

 うーん、と腕を組んで唸っていた小春は、しかしはっとひらめいた。

 まだやっていない検査を思い出したのである。

 

 「あ、リンパ節触診!」

 「りんぱせつ?」

 「ちょっともう一回首から上を触らせてください」

 「お、おお……」

 

 首から後頭部にかけて、リンパ節を探るように触診していく。

 喉に炎症が起きているから、首の前の方のリンパ節が腫れているのは当然だった。が、もう一つ、小春は腫れている部位を見つけた。

 

 「う……」

 「痛いですか?」

 「ちょっとな」

 

 藤堂が顔をしかめたのは、小春が彼の首から肩にかけて、後頸三角と呼ばれる場所のリンパ節を触診した時だった。

 表面がつるつるしていて軟らかさがあり、触るとよく動く。そして痛む。感染症によるリンパ節の腫れとみて間違いないだろう。

 

 (発熱、咽頭炎、強い全身倦怠感に加えて、後頚部のリンパ節腫脹と言えば……)

 

 病気の輪郭が急激にはっきりしていくのを感じる。

 もはや喉元まで病名が出かかっているほどだ。でも、後もう一押しほしい。

 小春は藤堂の目を見つめた。

 

 「お腹も見せてもらってもいいですか」

 「腹? 別にいいけどよ……」


 藤堂が不審がるのも無理はない。普通、風邪で腹部の診察はしない。

 だが、小春にはどうしても確認しておきたいことがあった。

 

 仰向きに寝転がってもらい、藤堂の左の肋骨の下縁に指を差し入れる。息を吸ってもらった時、小春の指先に”何か”が当たる感触がした。


 脾臓だ。

 脾臓が腫れている。

 

 小春の目がみるみるうちに輝いた。

 興奮に唇が釣り上がりそうになったのを、患者の前ということでなんとか堪えている。

 


 「藤堂さん、わかりました!」

 「何が?」

 「貴方は風邪ではありません!」

 

 じゃあ何なんだ、という藤堂の視線を受けて、小春は自信満々に答えた。

 


 「伝染性単核球症です!」


 「でんせ……なんだって?」

 「でんせんせいたんかくきゅうしょう、です!」

 「はぁ……」

 

 よくわからん、と言わんばかりの嘆息が返ってきた。



 伝染性単核球症とは、ヘルペスウイルスの一種であるEBウイルスが感染することで起きる病気である。

 キスでうつるので「キス病」と呼ばれることもあるが、回し飲みなど唾液の接触があればキスでなくても感染しうる。そこまで恥じるような病気でもない。


 大多数の人間は幼少期にかかり、軽い風邪程度の症状で済むのだが、大人になって初感染するとこのように中々重い症状が出ることがある。

 ちなみに、この病気にペニシリン系の抗生物質を投与すると皮疹が出るので注意が必要だ。

 


 「じゃあ、俺……死ぬのか?」

 

 熱でぼんやりとしていた藤堂の顔に恐怖の色が浮かび、小春は慌てた。

 

 「この病気自体は、よほど重症化しなければ死にはしませんよ。あと十日もすれば熱が下がって動けるようになると思うので、それまで養生してください」

 「十日……」

 

 長いな、とでも言いたげに、藤堂の視線が天井を彷徨う。血気盛んな彼にとって、十日も病床に伏せているというのは耐えられないことなのだろう。

 

 だが、小春はまだ藤堂に言わなくてはならないことがあった。

 

 「それと……藤堂さんは脾臓が腫れています。先程死にはしないと言いましたが、もし衝撃を受けたりして脾臓が破裂すると、命に関わる事態になります」


 伝染性単核球症の合併症の一つに脾臓破裂がある。頻度は高くないが、ひとたび発症すれば、輸血も脾臓摘出もできないこの時代ではまず死ぬだろう。


 そのため、伝染性単核球症の患者はしばらく運動してはいけないことになっている。その期間は文献によってまちまちだが、一ヶ月程度としているものが多い。

 まして剣道の稽古や巡察となれば、果たして本当に一月で復帰させていいのか、小春にも自信がなかった。


 「様子を見ながらですが、稽古や隊務に復帰するには、短くてもひと月はかかるかと……」

 「ひと月も……」

 

 藤堂の手がぱたり、と力なく布団の上に落ちた。かと思えば、拳がぐっと握りしめられる。

 

 「くそ、そんな長いこと休んでなきゃならねぇのかよ……!」

 

 苛立つのも当然だ。まさかちょっと体調を崩したくらいで、一ヶ月も休養することになるとは夢にも思わないだろう。

 

 小春の胸が、無力感に痛んだ。

 

 麻疹と同じく、伝染性単核球症も特異的な治療法が存在しない病気だ。ひたすら体の免疫がウイルスに打ち勝つのを待つしかない。

 藤堂は体力もあるので重症化する心配はそうないと思うが、脾臓破裂だけは話が別だ。どんな屈強な男性でも本当に死んでしまう。


 幹部として隊務に一刻も早く復帰したいのはわかるが、医師としては脾臓破裂の可能性のある患者にそんなリスクを負わせるわけにはいかなかった。

 

 「藤堂さん……これから毎日様子を見に来ます。脾臓の腫れが収まれば、だんだんと軽い運動から再開するようにしましょう。私も、全力を尽くしますから」

 

 小春がそう言うと、藤堂は何故か不思議そうに目を瞬いた。

 

 「……先生は、なんか医者っぽくねぇな」

 

 ……それは、頼りなく見える、という意味なのだろうか。

 

 藤堂としては、医者にありがちな威張ったり偉そうにしている感じがない、という意味で言っていたのだが、自信のない小春にはそうは聞こえなかった。

 

 (確かに半人前だけどさぁ)

 

 他人からもそう見えているなら、情けない話である。

 小春が眉尻を下げていると、藤堂がふっと笑った。

 

 「そんな情けねぇ顔すんな。頼りにしてるって意味だよ」

 

 その言葉に、小春ははっと顔を上げた。

 幻聴かとも思ったが、小春を見上げる藤堂の顔が、幻聴でないことを物語っていた。


 小春の胸を、熱いものが満たした。

 

 ――信じてもらえたのだ。

 

 誰にも頼れない、と言った藤堂が、小春を頼りにしてくれた。

 そのことが、何より嬉しかった。


 「はい!」

 

 きっと、この人を生きて隊務に戻らせよう。一日でも早く、何の心配もない状態で送り出してあげよう。


 小春は力強く頷いた。

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