十一月 風邪? ③
お昼を過ぎた辺りで、患者の波がようやく一段落した。
「つっかれたー……」
遅い昼食を食べながら、小春は誰もいない医務室で大きな独り言を零した。
本当に、猫の手も借りたいほどの忙しさだった。ひっきりなしに患者がやってきて、地方の基幹病院で外来見学した時のことを彷彿とさせた。
あれはただ見ているだけで良かったが、自分で診療するとなるとこうも疲れるものなのか。今日の診療は終了です、という看板を掲げたいくらいに、精も根も尽き果てていた。
(今日はもう患者が来ませんように……!)
箸を置いて、神に祈りを捧げたその時だった。
「氷上先生ー!」
(ああー……!)
神は願いを叶えてくれなかったようだ。
小春ががっくりと肩を落としていると、医務室の障子が開けられた。
そこにいたのは、珍客だった。
「よっ、先生。今、ちょっといいか?」
「永倉さん? 珍しいですね」
新選組二番隊隊長を務める永倉新八である。彼は体が丈夫なのか、今まで一度も医務室に訪れたことがなかったのだが、永倉も風邪を引いたのだろうか。
それにしてはずいぶん元気そうである。
そんな小春の視線に気付いたのか、永倉が頭を掻いた。
「あ、用があるのは俺じゃねぇんだ。平助の奴なんだが」
「藤堂さんもですか? 今日は大変な日ですねぇ」
患者は新選組八番隊の隊長、藤堂平助だったようだ。彼も医務室へは来たことがない。
近藤といい井上といい、今日はやたら幹部の人間が倒れているが、はたして新選組の仕事はちゃんと回っているのだろうか。局長代行をしている土方の胃に穴が開きそうである。
「あいつも風邪引いたらしくてな。布団から起き上がれねぇって言うんで、ここ数日巡察を代わってやってるんだが」
「重症ですね」
布団から起き上がれないほどとは、風邪にしてもずいぶん重そうだ。
もしかして、医務室のあまりの混雑ぶりに、診てもらうほどではないと遠慮してしまったのだろうか。それで重症になるまで悪化してしまったのかもしれない。
心配になった小春は、ぽつりと呟いた。
「軽症でも気軽に来てくれて良いのに……」
そう言うと、永倉が苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「いや、あいつ、大の医者嫌いでな」
「えっ?」
「あ、誤解するなよ。氷上小春って人間が嫌なんじゃなくて、医者が嫌いなんだ。医務室へ行けって俺が何度勧めても聞かねぇんで、もう先生の方から行ってもらおうかと」
「それは……困ったさんですね」
現代でもたまに、死ぬほど医者が嫌いな人間がいる。注射や手術が怖い、というのであればまだ話はわかるが、注射も手術もできないこの時代で、一体医者の何がそんなに嫌なのだろう。
(今までよっぽど酷い医者に当たったとか?)
なんにせよ、患者と医師の間に良好な関係が築けないと、適切な医療を施すのが難しくなる。患者に協力してもらうには、まず心を開いてもらわなければならない。
小春のコミュニケーション能力が、今まさに試されているのだ。
(……だ、大丈夫、多分)
現世の病院実習でも患者とはちゃんと話せていたし、コミュニケーション能力に問題があるとも言われたことはない。
きっとやれるはずだ。それに、相手は見ず知らずの他人ではなく、同じ新選組の隊士である。
小春は聴診器を首にかけると、立ち上がった。
「では、行きましょうか。案内してもらえますか?」
「おう、悪いな、先生」
「いえいえ」
歩き出す永倉の後をついて行った。
「平助、入るぞ」
藤堂の部屋についた。永倉が声をかけると、
「おー……」
という気怠そうな返事が返ってきた。それを聞いて、小春の表情が曇った。
(これはしんどそうだ)
一応小春も幹部としての扱いを受けているので、幹部一同で食事をする時など、藤堂と接する機会は決して少なくはなかった。いつも元気で明るくて、こんな風に床でじっとしていられるような人物ではないはずだ。
永倉と小春が部屋に入ると、藤堂が布団からゆっくりと上体を起こした。
「新八さん……やめてくれよ。ただの風邪だって言ってるだろ……」
掠れた声で吐息交じりに話すせいで、なんだか妙な色気が生じている。ここに女性がいなくて良かった、と小春は自分の性別をすっかり忘れてそう思った。
永倉はそんな藤堂を見て、おどけるように言った。
「おいおい、巡察代わってやってる俺の負担も考えろよ。とにかく先生に診てもらえ」
「本当に、大したことねぇんだって……さ、氷上先生も、帰った帰った……」
しっしっ、と手で追い払われる。気難しい年配の患者を思わせるその仕草に、小春は思わず苦笑した。
「でも、体調不良の原因がわかれば、元気になるお手伝いができるかもしれませんよ」
「原因も何も、こんなの風邪に決まってるだろ……先生に診てもらうまでもないさ」
それを聞いて、永倉がにやりと笑った。
「なんとかは風邪ひかねぇって言うけどな」
「誰が馬鹿だって……?」
「ははっ、じゃあ俺、巡察行ってくるぜ」
藤堂をからかった後、永倉はひらりと身を翻して部屋から出て行ってしまった。
とりあえず、藤堂にも永倉と応酬するくらいの元気はあるようだ。それでも起きて喋っているのがやっとといった様子で、巡察などとてもではないが行ける様には見えない。
体調を気遣うようなていで、小春はさりげなく問診を進めた。
「しんどそうですね。いつからですか?」
「一昨日の夜くらい……」
「熱っぽさは?」
「あるけど、そこまで熱いわけでもない」
「咳や鼻水は?」
「ない」
(うーん……なんだろうな)
典型的な風邪、というわけでもなさそうだ。小春はもう少し聞いてみることにした。
「喉は痛みますか?」
「ああ、かなり」
「大変ですね……食事や水分は取れていますか?」
「粥くらいなら何とか」
「なら良かった」
まだ点滴もないこの時代では、食事はともかく水分すらも摂取できなくなると、脱水を起こして死ぬしかなくなってしまう。
粥を摂取できているのなら、病気と闘える力は十分残っていそうだ。小春はほっと一息ついた。
(それにしても、風邪でここまでしんどくなるかなぁ……)
今のところ、藤堂の主訴はと言えば倦怠感と喉の痛みである。倦怠感の方はかなりひどそうだ。
小春もしょっちゅう風邪を引いているが、多少の倦怠感はあるにせよ、歩き回るのさえしんどいというほどにはなったことがなかった。
そこまで怠いのであれば、他の病気を考えてもいいのではないだろうか。
例えば、インフルエンザとか、麻疹とか……
(麻疹……)
その単語が頭に浮かんだ途端、小春の顔がさっと青ざめた。
「と、藤堂さん、今までかかったことのある病気を教えてください!」
「なんだよ、いきなり……麻疹くらいだよ、子供の時の」
「麻疹!? 本当ですか」
「あ、ああ」
(良かったぁあ)
もし藤堂が麻疹であれば、小春の手にはとても負えなかった。麻疹は空気感染するので、その感染力が風邪やインフルエンザの比ではない。新選組の戦力が半壊どころか全壊になってもおかしくないほどの威力だ。医療崩壊待ったなしである。
麻疹は一度感染すると終生免疫を獲得するので、再び感染することはない。つまり、今の藤堂は麻疹ではない、ということになる。
ちなみに、同じ空気感染する感染症には、結核と水疱瘡がある。その二つも十分な脅威だが、麻疹ほどの感染力ではない。
(それに、結核も水疱瘡も、もうちょっと症状が特徴的だよね)
結核は長引く咳が、水疱瘡は痒みを伴う水ぶくれが特徴的である。結核の可能性はないこともないが、今はそこまで強く疑うような段階でもないだろう。
小春が安心していると、藤堂がぽつりと零した。
「俺が麻疹になった時、医者は何もしてくれなかった……俺だけじゃない。江戸で麻疹が大流行した時も、医者は何一つ役に立たなかったじゃないか」
はっ、と、小春の手が止まった。
実際、その通りである。この時代どころか現代においても、麻疹に特異的な治療法があるわけではない。目の前に麻疹の患者が来ても、小春には対症療法くらいしかできない。
今の藤堂の苦しみに対しても、小春が何か劇的な治療を施せるとは思えなかった。
――では、何のために小春がいるのか?
側にいて甲斐甲斐しく看病してやるためか?
それとも、病名を診断して自己満足に浸るためか?
「結局、自分の病気を治せるのは自分だけなんだ。誰にも頼れはしない」
藤堂はぼんやりと障子の向こうを見つめていた。その顔には、ただ医師への不信感だけが塗り込められている。
(……違う)
小春は唇を噛み締めた。悔しさと不甲斐なさの奥で、闘志の炎が燃えている。
藤堂が続けた。
「先生は傷の手当だけしていればいいんだよ、こんな病気なんて診てないでさ」
小春の顔が、ぱっと上がった。
「だめです!」
その声は、思ったよりはっきりと響いた。
驚いた顔の藤堂と、目が合った。
「貴方がどんな病気かによって、対応も変わってくるんです。人にうつるかうつらないか、命に係わるかそうでないか、どうすれば死なずに済むのか。だから……」
藤堂の病気は、ただの風邪かもしれない。でも、風邪じゃないかもしれない。
風邪じゃないかもしれない、と思った病気をみすみす見逃すような真似は、小春には出来なかった。
「お願いです、藤堂さん。私に、貴方の体を診せてください!」
小春は三つ指を突くと、畳に額をつけた。




