八月 タイムスリップ ②
昔、拗ねると勉強机の下に引きこもる癖があった。
その時と全く同じ姿勢で、小春は膝を抱えていた。と言っても、拗ねているわけではない。狭いのだ、単純に。
(しかも、めっちゃ揺れる……)
小春は駕籠に乗せられていた。この時代におけるタクシーみたいなものだ。人が担いで運んでいるのでとにかく揺れるが、それに関して文句を言えるような立場ではない。
困り果てている小春を見かねてか、小春を助けてくれた新選組の男は、親切なことに屯所という自分達の居住地で一旦保護してくれると言ってくれた。その屯所は四条大宮の辺りにあるそうなので、小春は駕籠に乗って、男はその横を徒歩で移動中である。
(徒歩って凄いよなあ)
小春はこの時代の人間の脚力に感心した。
小春が現れた東大路丸太町の辺りから四条大宮までは、自転車でも20分ほどはかかる。それを歩いて行くなんて、運動嫌いの小春には到底無理な話だった。下宿先から1キロの距離にある大学にも自転車で通っているくらいである。
でも、この時代には自動車どころか自転車でさえ存在しないのだ。それだけではない。電気もガスも水道もテレビもスマホも――
(スマホ!)
はっ、と小春は目を見開いた。もしかしたら、スマホくらいは鞄の中に入っているかもしれない。
慌てて鞄の中身をひっくり返すが、残念なことに、目当てのものはなかった。
(やっぱりないか……)
小春は実習に使うものを入れた鞄と、貴重品類を入れた鞄を分けて持ち運んでいた。その方が何かと便利だからだ。そして、この世界に持って来ているのは、実習用の鞄の方だけだった。
財布はともかく、スマホくらいは入っていないかと期待したのだが、甘かった。
(まぁ、財布もスマホも、あったところでどうにもならないもんね……)
小春は散らばった鞄の中身を見つめた。
見つめた。
「っ!!」
――その時、雷に打たれたかのような衝撃が、小春を包んだ。
(これは……!)
いけるかもしれない。
何がいけるのか。それはつまり、この世界で生きていけるかもしれない、ということである。
小春は落ち着きを取り戻すために深呼吸を繰り返し、もう一度鞄の中身を確かめた。
まず、白衣。その胸ポケットの中に、名札とボールペン。実習で使う書類が入ったファイル。
それだけなら”詰み”だったが、まだ中身があった。
聴診器。それと、縫合練習用キットである。
聴診器は実習の際いつも持ち歩いているが、縫合練習用キットが入っていたのは幸運と言うより他がない。
家から出る前に、今日の実習は暇そうだから、空いた時間にでも練習しようと思って持ってきていたのだ。
(これさえあれば……)
小春は興奮で手が震えた。
これさえあれば、多分この世界で食っていける。医者の真似事くらいはできるだろう、と踏んだのだ。
この時代では、医業をやるのに医師免許はいらなかった。自己申告で医師を名乗れるのである。そして医師にはある程度の特権が認められていた。多少怪しくても、そうやすやすと殺されたりはしないだろう。
小春はまだ医学生であって、医者ではない。ここが令和の世であれば、指導医の立ち会いもないのに医療行為を行った時点で犯罪である。医師だと詐称するのも犯罪だ。
でも、そうするより他に生き延びる道は、ないような気がした。
(だって、まだ生きていたい)
幕末にトリップしたとしても、どんな厳しい環境に置いていかれたとしても。
小春はまだ生きていたかった。
だって、まだ二十二歳だ。せっかく医学部に入ったのに、医者にもなれないまま死ぬのは嫌だった。もっとたくさんのことを知りたい。もっと色んなことを成したい。
そのためなら、たとえ現代における犯罪だったとしても、手を汚すことを躊躇わなかった。
(とりあえず、せっかく拾ってくれたんだから、新選組で雇ってもらえないか聞いてみよう)
そうと決まれば覚悟も湧いてくるものである。
小春は種々の道具を鞄にしまうと、意を決して声をかけた。
「すみません、ちょっと降りてもいいですか?」
……乗り物酔いが限界だった。
犬も歩けば棒に当たる、とは言うが、散歩に出て異人を拾うことになるとは思っていなかった。
小春を乗せた駕籠の横を歩きながら、男――沖田総司は考え込んでいた。
この女が何者なのかについてである。
沖田は、この女の正体は海の外から来た異人だろうと見当をつけていた。見たことも無いような素材、形の服を来ているし、持っていた鞄もとても市井の者が手にできるようなものではない。駕籠に乗せる際に僅かな距離を歩かせた時も、体軸を捻るような特徴的な歩き方をしていた。
ただ、異人にしては引っかかる点があった。
一つは、賊に絡まれた時からかなり流暢な日本語を喋っていた点。しかも京や大坂ではなく、沖田と同じ江戸の方の訛りだった。江戸の異人がわざわざ異人嫌いの京に、しかも女一人で訪れているのはおかしい。
もう一つは、おそらく彼女に土地勘がある点だった。
駕籠に乗る前、沖田はしゃがみ込んだ小春に対し手短に説明した。
「お困りのようですし、一度我々の屯所までお越しになってはいかがでしょうか。壬生の方にあります」
「壬生……」
「四条大宮の辺りです」
この説明でわかるとは思っていなかったが、四条大宮、という言葉を聞いた途端、小春の顔に一瞬血の気が戻った。「そこは知ってる」と言わんばかり、というか顔に書いてあった。そしてその後、「遠い」と小さな声で呟いた。
「えっ?」
「あ、違うんです、何も言ってません、ごめんなさい」
沖田の怪訝な顔をどう捉えたのか、小春は再び顔を青くした。だが、沖田が驚いたのは、彼女が通りの名を聞いただけで、現在地との距離をすぐに割り出したことの方である。京にある程度住んでいないとそんな真似はできない。はたして異人にそれができるだろうか。
(もしかして、面倒なもんを拾っちゃったかもなぁ)
沖田は秋晴れの空を見上げた。
彼女の正体がなんであれ、あそこで彼女を見捨てるという選択肢はなかった。京の治安を守ることが新選組の仕事である。裸に近いような格好で困り果てている妙齢の女性を放置することなどできない。
それに、もし彼女が身分の高い女性であれば、それだけ外部との交渉材料になる可能性も高まるのである。使えるものは拾っておくに越したことはない。
ただ、欲を言えばもう少し遅い時期に現れてほしかった。
今はただでさえ芹沢鴨の暗殺計画で、新選組内部が慌ただしい時である。そんな中で、この女の面倒を見てやれるとはお世辞にも言えなかった。
そんなことを思っていると、ふと駕籠の中から声がした。
「すみません、ちょっと降りてもいいですか」
その声に、駕籠持ちが立ち止まる。駕籠から出てきた小春は、手を口に当てて、さっきよりも真っ青な顔をしていた。
「酔ってしまって……」
(酔うんだ)
と、沖田は内心で声をあげた。高貴な女性はこういう輿には乗り慣れていると思っていたので、ますます彼女のことがわからなくなる。
ただ、そんな小春に対して、沖田はなんとなく自分と似たようなものを感じ始めていた。それは単純に駕籠酔いするという点だけではないだろうと思った。
駕籠を降りて歩きながら、沖田は彼女にいくつかの質問をした。
まず、名前。
答えてくれるかは半信半疑だったが、意外にも彼女はすんなりと答えた。
「氷上小春です」
純日本的な名前だ。偽名だろうか。
「そうですか。私は沖田総司と言います」
その名を告げた途端、彼女の顔がぎくりと強張った。
(俺を知っているのだろうか)
時は文久三年八月。新選組が壬生浪士組から名を改めて間もない頃であり、活動としてはまだ駆け出しと言ってもいい。沖田どころか、新選組の名さえこの京には響いていないほどだ。それがどうして沖田の名を知っているのだろう。
本当に不思議な人だ。
ただ、その不思議さは沖田に敵意を抱かせるものではなく、むしろ好奇心を煽るものだった。小春の感情が顔にそのまま現れすぎていたからかもしれない。
沖田はもう一つ聞いてみた。
「失礼ですが、お歳は?」
「二十二です」
「え」
思わず、沖田の喉から声が上がっていた。
もっと幼いとばかり思っていた。
いや、確かによく見れば年相応の整った顔立ちだ。それに女子にしては背が高い。だが、前髪を残していたり、おどおどと不安そうな顔をしているからか、実年齢よりだいぶ幼く感じられる。
その視線を受けてか、小春の頰が赤く染まった。
「やっぱり、幼く見えますか」
「いえ……」
とっさに否定したが、やはり本人も気にしているのか、小春は苦々しい微笑みを浮かべた。
「私、だいぶ甘えた生き方をしているので、それが顔に出ているのかもしれません」
――小春が言っているのは、ろくな社会経験がないことだった。
同年齢の友人たちは、厳しい就活の中で揉まれ、今は立派な社会人として働いている者がほとんどだった。大学時代だって賃金の安い飲食店で働いて、客にクレームをつけられることも多々あると言っていた。小春はその愚痴を「大変だね」と神妙な顔で聞いていたが、まるで辛さが想像できなかった。
小春がしていたアルバイトは家庭教師だけ。それも隣に座って簡単な数学や英語を教えるだけで、破格の報酬をもらっていた。実家がそこそこ裕福なことも相まって、小春は金に困ったことがなかった。金だけではなく、今までの人生で挫折というべき困難を味わったことがほとんどなかった。
そんなことは露ほども知らない沖田は、小春の横顔をまじまじと見つめた。そして、言った。
「もしかして、どこかの国のお姫様ですか?」
小春の大きな瞳と目が合った。
(当たったか?)
と、沖田が思ったのも束の間。
「ふっ、あっはははは!」
京の町に、小春の快活な笑い声が響いた。
京の女とも江戸の女とも違う、明るくて邪気のない笑顔だった。まるで童のようだ。だがその笑顔に、不覚にも自分の心が揺れ動いたのを沖田は感じていた。
(なんて素直に笑う人なんだろう)
成人女性でこれほどけらけらと楽しそうに笑う人を見たことがない。これも育ちの良さなのだろうか、その笑顔には闇と呼ぶべきものが欠片もなかった。
小春は未だ心底おかしそうに笑っていた。
「やだなぁ、お姫様なんて、初めて言われましたよ」
「……そうですか?」
多分、沖田じゃなくても、小春を見た全員がそう思うだろう。だが、小春は目の端に涙まで浮かべていた。
「第一、お姫様はこんな笑い方なんてしませんよ」
それもそうか。大声をあげて笑うなど、姫ではなくても女性ならはしたないとされる時代である。
沖田が納得していると、急に小春の顔に影が差した。
「……でも、そうなのかもしれませんね」
冷たい風が吹いた。先程までの和やかな空気が風にさらわれていく。
小春は目を伏せて微笑んでいた。
「私はお姫様だったのかもしれない」
「……だった?」
沖田が首を傾げると、小春は「なんでもありません」と言って首を横に振った。そして、元気よく言った。
「さぁ、早く屯所に行きましょう! 後どれくらいですか?」
「そうですね、今三分の一を来たくらいですね」
「えっ……」
再び色を失った小春に、沖田はやっぱり本物のお姫様なのかもしれない、と思い始めていた。