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十一月 風邪? ①

 京都の冬は寒い、と京都に住んでいる者は皆言う。

 小春が初めて京都に来た時も、新幹線を降りた瞬間の身を切るような寒さが印象に残っていた。


 だが、それにしてもこの”京”の寒さは異常だった。

 身を切るどころか、芯から凍りついてしまいそうだ。

 

 「さむぃい」


 掻巻(かいまき)という綿の入った半纏(はんてん)に身を包みながら、小春はぶるぶると震えていた。


 もう朝の稽古が始まっているのが、聞こえてくる竹刀の音でわかる。起きなくては。

 そう思うのに、凍えきった体はなかなか活動を始めようとしなかった。火鉢を用意するにも、その為の熱量すら足りていない。

 

 (支度しなきゃ……)

 

 早く起きないと、朝餉の時間に間に合わなくなる。

 それに、まだ支度が済んでいない。いつも寝る時は胸の晒布を取っているから、支度が済む前に患者が来てしまったら、小春が女であることがバレてしまう。


 それはわかっているのだが……

 

 (眠い……)

 

 掻巻にじっと包まって仄かな暖を取っていると、一度去ったはずの眠気が再び襲いかかってくるのを感じる。

 小春の瞼が落ちかかった、その時だった。

 


 「氷上君、いるか」

 

 

 鬼の、もとい土方の声がして、小春の脳は一瞬にして覚醒する。掻巻を跳ね除けて起き上がった。


 「はい! お、起きてます!!」

 「……起きている、ということは、支度は済んでいないということか」

 「うぐ……」

 

 その通りである。ここで嘘をついても、土方に入って来られたら一瞬で見破られてしまう。

 バツが悪くて黙っていると、障子の向こうで溜息が落ちた。

 

 「まぁいい。支度が済んだら、近藤さんの部屋に行ってくれ。今朝から体調が悪いそうだ」

 「えっ!」

 

 小春は息を呑んだ。

 

 (近藤さんが、病気……?)


 新選組の局長近藤は、小春をこの隊に置くと決めてくれた命の恩人のような人である。体格も立派で、ちょっとやそっとのことで倒れるような人物とはとても思えなかった。

 そんな彼に体調不良とは、何事だろう。重病だったらと思うと、居ても立っても居られなかった。

 

 「すぐ行きます!」

 

 小春は大急ぎで着替え、近藤の部屋へ向かった。

 

 

 



 「風邪ですね」

 

 布団の上で起き上がっている近藤に、小春ははっきりと告げた。


 くしゃみ、鼻水、咳、喉の痛みと、至って典型的な風邪である。念の為肺や気管支も聴診したが、下気道まで炎症が及んでいるような音は聴取しなかったし、喉の腫れも軽度で済んでいた。


 風邪には特効薬と言えるものは存在しない。症状を抑える薬はあるが、風邪のウイルスそのものを殺すには、体の免疫に任せるしかないのだ。つまり、休養が第一である。

 

 「三日ほど安静にしていれば治るでしょう」

 「だから言ったじゃないか、ただの風邪だって」

 

 苦笑する近藤に視線を向けられて、土方はふいとそっぽを向いた。

 

 「新選組局長のあんたに、もしものことがあったらいかんだろう」

 「そうですよ。風邪を甘く見てはいけません」

 

 このところ近藤は随分忙しそうにしていたし、抵抗力が落ちていることも十分考えられる。風邪をこじらせると細菌感染を合併したりするので、抗菌薬のないこの時代では厄介どころか命取りになりうるのだ。


 土方と小春の二人に説得され、近藤は参ったように両手をあげた。


 「わかった、わかった。きちんと休むさ。歳、悪いが局長代行は任せたぞ」

 「ああ、もちろんだ」

 

 土方は一つ頷くと、近藤の部屋から出ていった。早速仕事を始めるつもりだろう。

 それにしても、副長としての仕事に加えて局長代行も務めるとは、土方こそ激務になってしまう。今度は彼が風邪を引かないか心配だ。

 

 (いやでも、土方さんなら風邪の方が逃げ出すかも……)


 などと思っていると、ちょうどその土方の代わりに、別の足音が近づいてきた。今にも走り出したいのを堪えているような音である。

 

 「近藤先生! ご病気だと伺いましたが、本当ですか?」

 

 沖田だった。彼は上体を起こしている近藤を見てほっと一息ついた後、その横にいる小春を見て顔を引きつらせた。

 この前聴診器を触らせてからというもの、沖田は小春を見る度に、(ぬえ)かツチノコと遭遇したかのような顔をするようになった。全く失礼な御仁である。


 土方にも沖田にも心配されて、近藤は気恥ずかしそうに笑った。

 

 「総司、そんなに心配するな。氷上君にも見てもらったが、風邪だそうだ」

 「はい。聴診の結果、気管支や肺に異常はありませんでしたよ」

 

 安心させるために小春が口添えすると、沖田はぎょっと目を剥いた。


 「聴診!? したんですか!?」

 「え、ええ……」

 

 別に傷をつけたわけでも、血を抜いたわけでもないのに、何故そこまで驚くのだろう。

 沖田はその怖い顔のまま、小春の肩を掴んだ。

 

 「まさか近藤先生に変なことはしていないでしょうね!?」

 

 失礼な、と思ったが、沖田の言う「変なこと」の定義がわからないと返答のしようがない。

 小春は彼の目を見て尋ねた。


 「変なこと、とは?」

 「それは……」


 答えようとした沖田は、顔を赤くして、青くして、やがて撃沈した。


 その様子を、近藤が目を丸くして見つめている。

 

 「……これは驚いた」

 

 ぽつりと呟かれた言葉に、小春も沖田も、はっと居住まいを正した。病人の前で騒ぎ過ぎた。

 

 「失礼致しました。近藤先生の前で見苦しいところを」

 「申し訳ありません」

 

 見苦しかったのは沖田であって小春ではないような気もしたが、つられて頭を下げている。

 近藤の笑い声が響いた。

 

 「いや、良いものを見た、と思ってな。これで風邪も早く治りそうだ」

 「はぁ……」

 

 近藤が何を言おうとしているのかよくわからず、小春は首をひねった。ちらりと横を窺うと、沖田も不可解そうな顔をしている。

 

 (ま、元気なんだったらいいか)

 

 小春は深く考えないことにした。沖田にわからないのであれば、小春にわかるわけがない。


 「それより、そろそろ朝餉の時間だろう。俺は小姓に何か用意させるから、二人は食べに行ってくれ」

 「先生、くれぐれも無理はなさらず」

 「では失礼します。お大事に」


 名残惜しそうな沖田を伴って、小春は近藤の部屋を辞去した。

 


 廊下を少し歩いたところで、沖田がふいに立ち止まった。

 

 「小春さん、近藤先生は本当に風邪ですか」

 

 一歩前へ進んでいた小春は、その声に振り返った。

 沖田にしては珍しく、不安を顔に浮かべている。まるで母親に置いて行かれた子供のような表情だ。

 その顔を見て小春は少なからず動揺したが、とりあえずは客観的事実を言うより他なかった。

 

 「医学に絶対はありませんが、十中八九そうだと思います。どうしてですか?」

 「いえ、それならいいんです。ただ……」

 「ただ?」


 しばらくためらうように黙っていた沖田は、ふと口を開いた。

 

 「私の両親は労咳で死んだそうですから、もしかしたら近藤先生も……と思っただけです」


 その言葉に、小春の息が止まった。

 

 (労咳……)

 

 結核のことだ。沖田の口から労咳という言葉を聞くと、小春はどうしても身構えてしまう。

 彼は、自分の両親の命を奪った病魔が、尊敬する近藤の命も奪ってしまうのではないかと心配になったのだろう。

 気持ちはよくわかる。現代においても、結核は風邪や喘息と誤診されがちである。まして検査法の発達していないこの時代で、100%結核でないと言い切ることは、小春にはできない。


 それでも、小春には言えることがあった。

 

 「……私は、なんでもかんでも風邪扱いする医者には、絶対になりません! それに……」

 

 小春は沖田の目をまっすぐ見つめた。

 


 「労咳で鼻水は出ないと思います!」

 


 その言葉に、沖田は緊張の糸が切れたと言わんばかりに笑い出した。

 

 「それもそうだ。すみません、私がどうかしてました」

 

 なんだか久しぶりに彼の屈託ない笑顔を見たような気がする。

 小春は安心すると同時に、身の引き締まるような思いがした。

 

 (これは、誤診が許されないな)

 

 後医は名医、という言葉がある。病気の経過が長くなり、情報が集まってからの方が診断が付けやすいため、後に診た医者ほど賢く思われる、という意味の言葉である。

 だが、新選組に常駐している小春が後医になることはほとんどないだろう。自分の腕を信用してもらうためにも、小春は少ない情報をかき集めて正確な診断に至らなければならない。


 そのためには、一つ心得なくてはならないことがある。


 「いえ、沖田さんは大事なことを思い出させてくれました」

 「大事なこと?」

 「はい」

 

 小春は指を一本立てると、

 

 「疑わなくては病気は見えない、ということです」

 

 にっこりと微笑んだ。



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