閑話 聴診器
ラブコメ回
「そういえば」
と、いつものように小春の部屋に遊びに来ている沖田が言った。
その視線の先には、机の上に無造作に置かれた聴診器がある。
「いつもそこに置いてありますけど、それ、使わないんですか?」
「あぁ、これですか」
小春は聴診器を手に取った。ちょっと埃を被っている。
この医務室に来る隊士は怪我が中心で、聴診器を使う内科的な病気の者は今のところ来ていなかった。そろそろ風邪が流行る頃だから必要になるかもしれないと思って、手の届くところには置いている。
「これは聴診器と言って、心臓や肺の音を聞くのに使うんですけど……中々必要になる機会がなくてですね」
「心臓や肺の音?」
「はい。すっごくよく聞こえます」
直接胸に耳を当てて聞くのとは違って、聴診器を使うと細かな音まではっきりと認識できる。熟練した医師ならば、音を聞いただけで病名を診断できると言うほどだ。
小春がそれを説明すると、沖田はきらきらとした瞳で聴診器を見つめた。顔に「聞いてみたい」と書いてある。
「聞いてみますか?」
「え、良いんですか?」
まさかそう言ってもらえるとは思っていなかったようで、沖田の顔がぱぁっと輝いた。その顔を見ていると、こっちまで微笑ましい気分になってくる。
小春は聴診器を手渡した。
「はい、どうぞ」
「わぁ……」
だが、沖田はただ聴診器を眺めるばかりで、一向に装着しようとしない。
小さい子でもすぐ使えそうなものだが――
そこまで考えて、小春ははっと気付いた。
(そっか、使い方を知らないのか)
現代ではお医者さんといえば聴診器を使っているイメージが思い浮かぶが、この時代は違う。聴診するとしても、直接耳を当てるか、筒のようなものを使ったりしているだろう。それに、イヤホンやヘッドホンもない以上、耳に何かを挿すという概念自体がない可能性が高かった。
小春は手を伸ばした。
「こうやってつけるんですよ」
前と後ろを確認して、聴診器の耳管部をそっと沖田の耳に嵌める。
その途端、沖田がぎょっとして顔を強張らせた。
「ど、どうかしましたか?」
小春が聴診器を外すと、沖田はぱちぱちと瞬きをした後、気まずそうに苦笑した。
「すみません、あまりにも静かだったもので」
「ああ、最初はびっくりしますよね」
聴診器をつけると、外からの音はほとんど聞こえなくなる。高性能のイヤホンをつけたような感じだ。小春も最初つけた時は、そのあまりの静かさにびっくりしたのを覚えている。
もう一度聴診器をつけた沖田に、小春は少し大きめの声で説明した。
「この平たい部分を、胸に押し当ててください」
沖田は無言で自分の胸に聴診器のチェストピースを当てた。が、首を傾げている。
「がさがさ言ってます」
「それは服の擦れる音ですね。もう少し素肌に近いところへ当ててみましょうか」
Tシャツなどの薄着一枚ならともかく、和服の上から聴診するのは流石に聞こえないだろう。しかも服の擦れる音はよく響くのだ。
沖田は自分で襟の合わせを開くと、今度は胸の素肌に押し当てた。
――その頬が、興奮に色づいた。
「……!」
沖田がひっそりと息を呑んでいるのを、小春は目を細めて見守っている。
初めて自分が聴診器を使った時のことを思い出した。
心臓が力強く血液を送り出す音が。
肺が静かに酸素を取り込む音が。
きっと、今の彼には聞こえているに違いない。
(あぁ……良いなぁ)
生きている。
その感動こそ、小春が医学を志した理由だった。
「どうですか?」
小春が身を乗り出して尋ねると、沖田は未だ興奮冷めやらぬといった表情で顔を上げた。
「これは……すごいですね。本当にはっきり聞こえます」
「でしょ!」
まさにその答えが聞きたかったのだ。
小春は満面の笑みを返した。
「私も、初めて聞いた時はどきどきしました。本当に聞こえるんだなって」
小春がそう言うと、沖田はなぜか驚いた顔をした。
「小春さんもですか?」
「なんで驚くんですか」
「いや、小春さんにも心の臓があるんだな、と」
「どういう意味ですかそれ!」
まるで小春が化け物か何かみたいな言い草である。
ムカッと来た小春は、沖田の手首を掴んでいた。もう片方の手で襟を開き、自分の素肌が見えるようにする。
「私だって生きてるんですよ、ほら!」
そのまま、チェストピースを持つ沖田の手を、自分の胸に押し当てた。
「……」
沈黙が流れる。
自分の心音を聞かせている以上、小春は喋るわけにはいかなかった。聴診中に患者が喋ると、声が響いて大変うるさいのである。
が、30秒経っても、1分経っても、沖田はその姿勢のまま動かなかった。瞬き一つしていない。まるで沖田というパソコンがフリーズしているかのようだった。
「あ、あの……?」
(もしかして、私の心臓、動いてないんじゃ……)
もしや、実は自分の心臓はあの事故に遭った時に止まっていて、今の自分は謎の外力によって動かされているただの人形なのではないか……
そんな不穏な想像に、小春が顔を青くした、その時だった。
「……はっ」
沖田が息を吹き返した。
かと思えば、途端に悲鳴を上げて小春からのけぞった。
「わーーーっ!?」
「え……」
なぜか赤くなっている沖田とは対照的に、小春はますます血色を失っている。
(嘘でしょ、そんな)
やっぱり心臓が動いていなかったのだろうか。
だから沖田はこんなに驚いているのだろうか。泡を食ったような慌てぶりである。
「す、すみません! とにかくこれ、お返しします!」
押し付けるように聴診器を返し、沖田が立ち上がろうとする。
その肩を、小春は必死に掴んで押し留めた。もはや押し倒してしまいそうな勢いだった。
「待って、待ってください沖田さん!」
「何なんですか!? もう俺何もしませんからね!」
沖田は顔を赤くして、小春からひたすら目をそらし続けている。
その襟を掴んで、小春は息を吸い込んだ。
「私、死んでるんですか!?」
「……は?」
沖田が呆気に取られたような顔をする。
しかし、小春はそれどころではなかった。生きるか死ぬか、もとい生きているか死んでいるかの瀬戸際である。
震える唇で問いかけた。
「私の心臓、動いてませんでしたか……?」
瞬き、一つ。
沖田が天を仰いだ。
「……じゃないですか……」
「え?」
「自分で聞けばいいじゃないですか! もう知りません!」
「えっ、あ、あの」
(なんか怒ってるー!?)
なぜか随分と怒らせてしまったようだ。沖田は立ち上がると、小春を押しのけてさっさと部屋から出ていってしまった。
「えー……」
なぜ怒らせてしまったのかわからない。
部屋に取り残された小春は、しばらく呆然とその後姿を見つめていたが、やがて大慌てで聴診器を引っ掴んだ。
もう一度襟を開けて、素肌の胸にチェストピースを当てる。
ちゃんと心臓の音がした。
「い、生きてる……」
目の端から、涙が零れてくる。
ひとしきり安堵した後に、じわじわと怒りが湧いてきた。
「生きてるじゃないですかー! 沖田さんの馬鹿ー!」
廊下に向かって、小春は思いっきり叫んだ。
「や……やわらか……」
沖田はずるずると廊下にしゃがみこんでいた。
【余談】聴診器は服の摩擦音をかなり拾います。心雑音や肺の異常音は音量が小さいので、摩擦があるととても聴取できません。




