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十月 法医学 ⑤

殺人描写注意

 小春が刀を向けられたのは、これが初めてではなかった。

 新選組に初めて来た時も、土方に刀を突き付けられて脅されている。あの時も、小春は本気で殺されると思った。あまりの恐怖で、しばらく腰が抜けて立てなくなったほどだ。

 

 だが、あれはお遊びだったのだ、と今になってわかった。

 

 今、小春の目の前にあるのは、本物の殺意だった。

 殺意が人の形をしていた。



 「全く、家に潜んでいた俺に気付かないとは、新選組もただの馬鹿の集まりだな」

 

 男の言葉は、何一つ小春の耳には届かなかった。

 視界が狭まり、ただ男の武器だけに意識が向いている。

 心音を耳で感じる。呼吸が浅く、速くなる。歯ががちがちと震えている。


 ――闘争か逃走かを、選ばされていた。


 とはいえ、丸腰の小春に戦うことなどできるわけがない。となれば逃げるしかないのだが、果たしてリーチの長い日本刀を相手に、背を向けて逃げ出すことができるだろうか。

 鼻緒も切れているのに。足も痛いのに。

 

 (……できるのかな)

 

 あまりの可能性の低さに、視界が暗く歪む。

 そんな怯えている小春を見て、男の唇が嗜虐的に歪んだ。

 

 「冥土の土産に一つ教えてやろう。死体に傷を付けたのは俺だ」

 「え……?」

 

 驚きながらも、頭のパズルが急速に組み変えられていくのを感じる。

 

 (そうか)

 

 てっきり単独犯だと思い込んでいたが、この事件は複数犯だったのか。

 長州という大きな組織が絡んでいるのならば、当然考えられることだった。そんな簡単なことに気付けなかった自分が愚かしい。

 

 (推理なんて専門外の分野に、手を出すんじゃなかったな……)

 

 検死だけしてさっさと帰っておけばよかった。

 後悔してももう遅いとはこのことかと、小春が顔を青くしていたその時だった。

 

 男の鋭い目が、小春の羽織を憎々しげに睨んだ。

 

 「俺はあいつが憎かった……お妙は末端の間者風情が抱けるような女じゃねえんだ。なのにあいつは、あいつは……!」


 にわかに男の声が乱れ始めた。

 瞳の奥で苛烈な激情が蠢いているのが、赤の他人である小春にもわかる。

 ――”隙”の気配だ。

 

 (いける……)


 降って湧いた生存のチャンスに、小春の心臓が震えた。


 過ぎた感情は手元を狂わせる。

 冷静に剣を振るわれるよりは、怒りと憎しみに身を任せてもらった方が、小春の逃げる隙が生まれやすくなる。


 「……あんまり憎いんで手元が狂っちまったんだが、そのおかげでお前を斬れるとなりゃ、仏の加護かもしれねぇな」

 

 そのためには、男をもっと焚き付ける必要があった。

 臆してはならない。震えてはならない。


 (私だって、新選組の一員なんだ……!)


 両腕を上げた男と、小春の目が合った。

 


 「……ふふ」

 

 唇が勝手に釣り上がる。

 男が僅かな戸惑いを浮かべた。

 

 「なにがおかしい」

 「いえ……あまりにくだらないと思って」

 

 他人が聞けば、小春の声が微かにうわずっていることに気が付いただろう。

 それでも、今の気の昂った男には効果てきめんのようだった。みるみるうちに顔が赤くなり、眉がつり上がっていく。

 畳み掛けるように小春は続けた。

 

 「尊攘だなんだと言いながら、やっていることは結局痴情のもつれによる殺傷沙汰ですか。巻き込まれる方の身にもなってほしいですね」

 「何だと……!?」

 「貴方がしたことは、死体に傷をつけて、こそこそと隠れていただけでしょう。それのどこに偉ぶる要素があるんですか? ただの罰当たりじゃないですか」

 「貴様!」

 

 男の手がわなわなと震えている。それを、小春は注意深く観察していた。

 走り出すタイミングを窺っていた。


 白い刃が、青い空に煌めく。

 まだだ、まだ早い。

 その鋒が天を指し、男の気合が満ちた時が、小春の逃げる時だった。

 

 「死ねぇえええ!」

 

 (今!)

 

 小春は駆け出そうとした。

 しかし、それは寸前で遮られた。

 


 男の胸から、一刀が生えていた。

 


 「がっ……」

 

 刀を振りかぶったまま、男の動きが止まる。

 男の背後から、はぁ、と重い溜息が聞こえた。

 

 「明け方、お妙の家に別の男が入っていったという話を聞き、慌てて駆けつけたのだが……間一髪で間に合ったようだな」

 「さ……山南さん」

 

 小春は名前を呼んだつもりだが、唇が震えるだけで言葉にはならなかった。

 心臓を刺された男は、なおも小春を斬り殺そうとしたのか、その刀を握る手に力を込めた。

 

 「こ……ろ……」

 

 山南の眉がぴくりと動く。

 

 「まだ死なんのか。しぶといな」

 

 そう言うと、胸に刺さっていた刀を勢い良く真横へ斬り払った。

 ばっと鮮血が噴き上がり、地面に血溜まりを作る。

 男の手から刀が離れ、ふらりと半回転して地に伏した。

 

 (死んだ……)

 

 目の前で、人が殺された。

 それなのに今の小春には、人が死んだ恐怖よりも、危険が去った安堵の方が大きかった。

 

 (助かったんだ……)

 

 俯いた瞳から、理由もわからない涙が落ちる。

 その涙を拭って、小春は立ち上がった。

 

 「さ、山南さん……ありがとうございました」

 

 山南は、懐紙で刀を拭っていた。


 「礼などいらん。仲間として当然だ」

 「えっ……」


 聞き間違いではなければ、この人は今、小春のことを仲間と呼んだ気がする。

 あれほど小春のことを疑っていた山南が。

 

 そんな小春の視線に気がついたのか、山南が顔を上げた。

 

 「なんだ」

 「あ、あの、今、仲間って」

 

 山南は「そんなことか」とでも言いたげに、また刀に視線を落とした。

 

 「ここまで活躍した君をまだ疑うのは、愚か者のすることだろう。疑ってほしいというのなら別だが」

 「いえ、そ、そんなことないです」

 

 小春はぶんぶんと首を横に振った。

 

 「さぁ、屯所に戻るぞ。土方くんや近藤さんに、事の次第を報告しなくては」

 「は、はい」

 

 屯所に向かう山南の後を、小春は追いかけていった。

 





 楠小十郎の死によって、新選組内部に潜んでいた長州の間者は一斉に摘発、粛清されることとなった。

 その摘発に一役買ったのが、新選組医師の氷上小春だった。山南や原田の話によれば、彼女は死体を見ただけで死後経過時間と死因を当ててみせたらしい。

 ますます不思議な女である。

 盆に茶と菓子を乗せて、沖田は彼女の部屋を訪れていた。

 

 

 「小春さん、失礼しますよ」

 「はい、どうぞー」

 

 緊張感のない、間延びした声が返ってくる。

 入ってきた沖田を見た小春は、手に持っているものを見てきらりと目を輝かせた。

 

 「カステラ!」

 「はい。講義でお疲れでしょうからと、近藤先生が用意してくださったんです」

 「わぁ〜、嬉しい!」

 

 小春はにこにこと無邪気な笑みを浮かべていた。

 土方の命で、小春は死体から死因や死後時間を推測する方法について、監察方の隊士に度々講義をしていた。このカステラは、いわばその報酬代わりである。

 だが、沖田が部屋を訪れたのは、カステラを運ぶ為だけではなかった。

 

 小春は竹串でカステラを切り分けながら、廊下の方を見やった。

 

 「今日はなんだか静かですね?」

 「そうでしょうか」

 「だって、まだ一人も患者が来ていないんですよ。珍しい」

 

 そう言いながら茶を飲む小春を、沖田はじっと見つめている。


 隊内が静かなのは、彼女の気の所為ではない。

 今日が、捕らえた長州の間者を一斉に処刑する日だからだ。

 


 あの後、原田が追っていたお妙は逃げ切れないと踏んだのか、短刀で首を切って自害した。だが、彼女の家からは、新選組に忍ばせていた間者に纏わる情報がいくつも発見された。それと同時に何人もの隊士が脱走した。全員、間者としての証拠が上がっていた者だ。

 脱走した隊士は一人残らず捕縛され、今日を以て斬首に処することになった。

 

 今も、庭の白洲には誰かの血が散っている。


 沖田が小春の部屋を訪れたのも、彼女に処刑の様子を見せないようにするためだ。驚いたことに、それは山南による助言でもあった。

 自分の証言で何人もの隊士が死んだとなったら、寝覚めが悪いだろう。

 そういう考えだった。

 

 

 「そういえば、私、やっと山南さんに認めてもらえたんですよ」

 

 小春は嬉しそうにそう言った。山南が小春のことを尋問しなくなったのは、もう幹部全員の知るところだった。

 

 「そうみたいですね。山南さんが小春さんのこと褒めてましたよ。襲われた時も、丸腰なのに肝が据わっていたって」

 「あれは……なんていうか、必死だったので」

 

 小春が照れ臭そうに笑う。

 沖田は思い切って聞いてみた。

 

 「怖くはありませんでしたか。その……目の前で人が死んで」

 

 山南は、小春の目の前で浪人の男を斬り殺したらしい。その話が、沖田は気にかかっていた。

 沖田の言葉に、小春は視線を斜め上に動かした。当時の光景を思い出しているようだった。

 

 「怖い、というより、本当にあるんだなぁ、と思いました」

 「本当に?」

 「人が殺されるなんて、物語の中だけだと思っていたんです」

 

 太陽が陰って、部屋を薄闇が覆った。彼女の表情が翳って見えたのは、その暗さのせいだけだろうか。

 

 「でも、これは現実なんですよね。なんだかいまいち信じられませんでしたけど……でも、大丈夫です。私、ちゃんと慣れますから」

 

 そう言って、彼女はいつものように両の拳を握りしめた。

 沖田の眉が動いた。


 (無理をして笑っている)

 

 二月も過ごしていれば、彼女の笑顔が作り物かどうかなどすぐにわかる。

 その作り物の笑顔を向けられていることが、腹立たしかった。

 

 「慣れなくて良いです」

 「え?」

 

 目を丸くする小春に、沖田は続けた。

 

 「小春さんは、そのままでいてください」

 

 彼女の顔が、ふと綻んだ。

 

 「……沖田さんが、そう言うのなら」

 

 

 再び日が射した部屋の中で、彼女の笑顔だけが鮮やかだった。

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