十月 法医学 ④
「お妙、逃げようか」
背を向けて帯を結ぶ楠が、さらりとそんなことを言ったので、お妙は息を止めた。
「まぁ……どないしはったん?」
その声が低くならないようにするのに必死だった。
お妙は楠が長州と通じていることを知っている。だが、楠はお妙が長州の者だとは知らない。まして、新選組に忍ばせた間者の情報をお妙が一手に握っていることなど、楠は知る由もない。
彼はお妙を、甘味処で偶然出会い何度か逢瀬を交わしただけの、ただの美しい娘だと思っている。
その油断が口を緩ませたのかもしれなかった。
楠は驚くお妙の顔を見て、ふっと綻ぶように笑った。
「冗談だよ。ちょっと疲れただけなんだ」
「何に?」
その声が刺々しいことに気付いて、自分でもはっとなった。が、楠は気に留めなかったようだった。
彼はちょっと考える素振りを見せてから、
「働くのに」
と言って、畳の上にごろんと転がった。他愛もない新選組の愚痴を取ってつけたように言いながら、どこかぼんやりとして天井を見つめている。
それを聞いて、お妙の心がみるみるうちに冷めていった。
(裏切るつもりね)
彼が疲れた、と言ったのは、単に新選組としての活動を指すのではない。長州の間者として忍び込むのが嫌になったのだ。自分から志願しておいて、なんて肝の小さい奴――
そうして怖気づいた間者を殺すのも、お妙の役目だった。いつもなら、他の間者に命じて斬らせている。
だが、彼はもうすぐ新選組の屯所に戻ってしまう。誰かを呼んでいる暇はない。
お妙は立ち上がると、薬棚を探った。隣の金物屋からくすねてきた毒があった。
「あんさん、疲れてるんやわ。この薬をお飲みおし」
楠は起き上がると、心底嬉しそうに微笑んだ。若者特有の眩しい笑顔だ。それを見ていると、お妙は自分の暗く擦り切れた心が焼けていくのを感じる。
「ありがとう」
彼が顔をしかめながらも、毒を飲み干していくのを、お妙は固唾を飲んで見守っている。
最後の一口まで飲み終わり、楠は立ち上がった。土間に降りて、振り返った。
「もし新選組を抜けたらさ」
(馬鹿ね)
――抜けるも何も、貴方はもう死ぬのよ。
お妙が冷笑さえ浮かべそうになった、その時だった。
「二人で俺の故郷へ帰ろう。一面に咲く菜の花を、君に見せたいんだ」
楠が笑っていた。
それを見て、お妙の胸が激しく揺れ動いた。
「あ……!」
思わず楠に飛びついたのと、彼が崩れ落ちたのは、ほぼ同時だった。
「楠さん、楠さん」
無我夢中で名前を呼んでいる。苦悶する楠の顔から色がみるみる抜けて、体がどんどん重くなっていくのを、絶望的な気持ちで見守っている。
――私も逃げたかった。
そんな単純なことに気付いたのは、彼がただの”物”になってしまってからだった。
楠と違うのは、もはやお妙には逃げるという選択肢さえ残されていないことだった。間者を取りまとめる立場にあるお妙の命は、重い。逃亡も自決も、お妙には許されていない。家族を人質に取られている。
お妙は一生をこの狭い鳥籠で過ごすことになるだろう。長州藩士の手先として、暗い世界を生きていくことになるだろう。
だからこそ、楠の語った夢が、お妙の心を鮮烈に動かした。
「楠さん……夢の、続きを……」
涙に濡れたお妙の瞳に、一人の男の影が映った。
京町家の庭は小さいながらも静謐な美しさを湛えている。その庭が見える座敷で、小春と原田は容疑者であるお妙と向き合っていた。
小春の背中を、冷たい汗が伝った。
(なんだろう、この圧迫感は……)
容疑者を前にしているという緊張からか、それとも彼女の人形じみた美しさからか、小春の全身を緊張が包んでいた。
おそらくお妙は、楠殺害の疑いが自分にかかっていることには気付いていないはずだった。
普通の人間が検死しただけでは楠の死因が毒殺だとは見抜けないだろうし、死体の傷が二刀によるものとすらもわからなかったかもしれない。たまたま小春や原田、山南がその場に来たからわかっただけだ。
まさか企みの全てがバレているとは思うまい。
情報戦ではこちらの方が有利に立っているはずなのに、心理的には劣勢に追い込まれていた。
飲まれている。
彼女の圧倒的な美しさに。
ただ顔が良いだけであれば、ここまでたじろぎはしなかっただろう。だが、頭の天辺から爪先に至るまで、お妙の所作には寸分の隙がなかった。まるで彼女の存在そのものが一つの剣のようだ。
その剣が、微笑を浮かべた。
「そない怖い顔してたら、色男が台無しでっせ……さ、何でも聞いておくれやす」
風にそよぐ新緑を思わせる柔らかな声に、原田は一つ咳払いをした。
「では聞くが」
彼女と戦うのは原田の役目だ。戦闘はプロに任せるに限る。
「楠君は毒殺されたんだ。何か心当たりはないか」
「は、原田さん」
小春はぎょっとして原田を見上げた。
(もうちょっと言い方あったでしょ!)
こういうのは普通、もっと外堀から埋めていくものではないのか。いきなり話の核心を突いてどうする。
お妙も目をまん丸に見開いていた。その顔に浮かぶのが驚愕なのか狼狽なのか、小春にはわからない。
「毒殺……?」
「ああ。下手人は今朝、楠君に毒を飲ませて殺した後、斬殺に見せかけるために遺体を斬って捨てたらしい。そして、昨日の夜、楠君がこの家に入ったのを見たという証言もある。それ以降、生きた彼を見ている人はいない」
お妙は黙って聞いている。
その落ち着きぶりは、逆に原田を困惑させるほどだった。
「えっと、だからだな……その……つまり、貴方に楠殺害の疑いがかかっているんだ。我々の屯所までご同行願いたい」
返事を返すことはせず、お妙は小春に目を向けた。
「どうして朝方やとわかったんどす?」
「えっ……」
彼女の視線は、まるで小春が検死したのを見てきたかのようだった。
小春は意図せず目を泳がせた。
「それは、その……蘭学をやっておりまして」
「ああ、学者はんやったんやね……そんなら、しゃあないわ」
お妙は納得したように頷くと、ふっと何もかも諦めたような笑みを零した。
「その通りどす。毒を使うたのも、殺した時間もばれてしもては、これ以上の抵抗は無駄やなぁ」
お妙は素直に立ち上がり、皺になった着物の前を軽く払っている。
思ったより大事にはならなさそうだ。
原田と小春がほっと息をついた、その時だった。
「……でも、私はまだ死ぬわけにはいかないの」
その言葉と共に、お妙が懐から出したものを見て、小春の肌がぞわりと粟立った。
中身の入っていない褐色の瓶。
だが、それが丸っきりの空であるはずがなかった。
(青酸ガス……!!)
お妙が瓶を振り被ったのと、小春が息を吸い込んだのはほぼ同時だった。
「下がって!!」
瓶が砕ける音がした。
小春と原田は咄嗟に飛び下がり、口を袖で覆った。その間にお妙は颯爽と庭へ降り、忍者のような軽い身のこなしで走り出していた。
原田がその後を追う。一瞬、小春の方を振り返った。
「先生は山南さんの所へ戻ってろ!」
「は、はい!」
小春は慌てて草履を履き、表へ飛び出した。目を白黒させている見張りの隊士に、裏口へ回って原田の後を追うよう伝えると、小春は通りを走り出す。
(早く戻らないと……!)
早く戻って、もっと応援を呼ばないと。
そう思うのに、なかなか足が速く回らない。足元を見ると、鼻緒が切れかかっていた。おまけに、酷い鼻緒擦れもできている。
「ああもう、こんな時に……!」
小春はさっとしゃがんだ。
――その時、頭上をひゅっと空気の裂ける音がした。
(え……?)
何だろう。
何の音だろう。
その音の正体を、小春はもう知っている。
にわかに心臓が早鐘を打ち始めていた。一呼吸遅れて、汗が滝のように噴き出してくる。一歩間違えば、この肌を濡らしているのは汗ではない何かだっただろう。
小春が振り向くと、そこには男がいた。目をギラギラとさせて、笑っていた。
「あぁ、運の良い奴だな」
刀を、持っていた。




