十月 法医学 ③
燃えるような赤い痣――鮮紅色の死斑。
それが意味するところは、被害者が特殊な死に方をしている、ということだった。
その特殊な死に方とは何か。
青酸中毒、一酸化炭素中毒、凍死、この三つである。
このうち、一酸化炭素中毒はまず除外できた。昨日から今日にかけて火災は発生していないし、この時代の建物はとにかく通気性が良いので、中毒になる前に一酸化炭素が逃げてしまうからだ。
次に可能性が低いのが凍死だ。いくら立冬とはいえ、人が凍え死ぬほどの寒さではない。が、被害者が大量に飲酒していた場合はありえないこともない。真夏でも低体温症になることはある。
(ということは、凍死と青酸中毒を鑑別すれば良いってわけね)
もう少しよく全身を確かめてみようと、小春が再び遺体の頭部に移動した時、原田がきょろきょろと辺りを見回した。
「……なんか変な匂いしないか?」
「変な匂い?」
小春は首を傾げた。特になにも感じない。山南も首を傾げている。
が、原田は顔を顰め、しきりに鼻を鳴らしていた。
「ああ。なんとなくこの辺から苦い杏みたいな匂いが……」
そう言って原田が遺体の口元に顔を近づけるのを見て、小春の脳を今朝の記憶が弾けた。
――「青酸カリ中毒では呼気のアーモンド臭が特徴とされているけど、遺伝的に半分ぐらいの人は感知できないんだよ」……
遺伝的に半分。ということは、ここにいる小春、山南、原田のうち、原田だけがその匂いを感じられるとしてもおかしくはない。
そしてもう一つ、知識の引き出しがひとりでに開いた。
青酸は内服した時より、ガスを吸った時のほうがより致命的である。
「わーーーー!」
「うおっ!?」
それを思い出した瞬間、小春は原田の肩を引っ掴み、投げ飛ばすほどの勢いで遺体の口元から退かしていた。急な奇行に走った小春に、原田も山南もぎょっと目を見張っている。
「どうした先生、気でも違ったか」
「どうしたもこうしたもないです! 死んじゃいますよ!」
「は?」
おそらく遺体の呼気くらいの濃度では死ぬことはないが、気が動転していてそこまで冷静には考えられなかった。
一応小春も普通の医学生なので、こんな異状死体は初めて見たのである。
小春はあわあわと上手く回らない舌で言った。
「青酸! 青酸中毒ですよ、この人」
幹部二人の顔に、困惑と緊張が走った。
「青酸……ってことは、死んでから斬られてんのか、こいつ」
原田の言葉に、山南は答えない。ますます難しい顔をして、死体の傷跡をじっと睨みつけている。
そして、ぽつりと呟いた。
「切られたか……?」
「斬られた?」
斬られたのは見てわかる、と思ったが、彼が言いたいのはそういうことではないらしい。
山南は周囲に他の隊士がいないことを確認してから、驚くべき事実を告げた。
「楠君には、長州の間者の疑いがかかっていた。我々は知った上で、彼を泳がせていたのだ」
「えっ……」
(間者? こんなに若い子が?)
小春は呆然として、死んだ楠小十郎を見下ろした。
「まさか……」
だって、彼は現代でも高校生くらいの年齢だ。そんな若い男の子に、間者なんて真似ができるわけがない。
――だが、それがあり得るのがこの時代なのだ、とも小春はわかっていた。
揺れ動く政情を前に、若い男達は皆、死をも厭わないほどの熱い志を胸に抱いている。それは曲がりなりにも新選組に所属している小春が、一番良く知っていることだった。
彼は新選組にいながら、長州の思想に共鳴していた、ということなのだろうか……
気を抜くと思考の海に溺れそうになり、小春はふるふると首を振った。
「……では、彼は間者の役割を果たせないとみなされて殺された、ということですか?」
小春が尋ねると、山南は腕を組んで頷いた。
「そう考えるのが自然だな。しかも、刀ではなく毒で暗殺している辺り、手を下したのは非戦闘員のようだ」
確かに、わざわざ痕跡の残りやすい毒を使うより、その辺にいくらでもある刀を使ったほうがバレにくいし、確実だ。毒を飲ませたからといって死ぬとは限らないのだから。
「下手人は楠君を毒殺した後、斬殺だと見せかけるために死体を斬りつけたのだろう。同じところを二度斬りつけたのは、一刀で致命傷にするほどの腕がなかったからか」
「なるほど」
実に単純明快でわかりやすい流れである。
となれば、犯人像もだいぶ絞りやすくなってくる。
激烈な苦味を持つとされる青酸を素直に飲ませるほど、被害者からの信頼が厚かった者。
そして、死体であっても一刀で斬れないほど、刀の扱いに未熟な者。
(女の人かもしれない)
それも、特別な間柄の。
奇しくも想像が一致したのか、三人の目が合った。
「……楽しくなってきたぜ」
「何がです?」
「これは好機だよ。長州の奴らを芋づる式に吊るし上げて、まとめて叩き切ってやるためのな」
原田がにやりと獰猛な笑みを浮かべた。その目には、爛々と血の輝きが宿っている。
山南の苦々しい溜息が落ちた。
「野蛮な真似は好まんが……隊の為なら致し方ない、か」
(血の雨が降るようなら帰りたいなぁ)
そう思った小春が何か言う前に、通りの北から一人の隊士が走ってきた。
「原田先生!」
「なんだ」
「楠君が懇ろにしていたという女が見つかりました」
その言葉に、三人の顔を鋭い緊張が走った。
(女……!)
つまり、容疑者である。
だがその経緯を知らない隊士は、参考人の一人を見つけた程度にしか思っていないようだった。
「名前はお妙と言って、昨日も楠君が家に入っていくのを見たという町人がいました。お会いになられますか」
短く頷いた原田は、なぜか小春の方を見た。
「氷上先生、一緒に来てくれねぇか」
「え、私ですか?」
丸腰で武道の心得もない自分が同行したところで、足手まといにしかならない気がする。
そんな小春の顔に気付いたのか、原田が笑った。
「先生みたいな優男がついてきてくれた方が、警戒されにくいだろ」
「はぁ……そうでしょうか」
よくわからない理屈である。が、毒物の知識がある者を側に置いておきたいのかもしれない、と思った小春は、おとなしく頷いた。
「では、私はここで他の隊士が戻るのを待っていよう」
「頼みます。じゃ、氷上先生、行こうぜ」
「はい」
こうして、原田と小春、そして案内の隊士の三人で、楠の恋人の家に行くことになった。
お妙の家は烏丸三条から二町(約200m)ほど東へ向かったところにある、とのことだった。案内役の隊士の後を歩きながら、小春は落ち着きなく首を動かしていた。
(迷子になりそう)
似たような木造の家ばかりが並んでいて、大通りから一本入っただけで自分の居場所がわからなくなりそうだ。現代ならコンビニやカフェが目印になるが、この時代で目印になりそうなものといえば店の看板くらいである。
京が碁盤の目状の町でなければ即死だっただろう。
だんだんと鼻緒擦れが気になり始めたところで、案内役の隊士が立ち止まった。
「ここです」
「普通の家だな」
その家は金物屋の隣にある町家だった。現代の京都でもこんな感じの家が改装されて、お洒落なラーメン屋やカフェになったりしている。
向かいの家の物陰には、新選組の隊士がこっそりと様子を窺っていた。彼によれば、今のところこの家から出ていく人間はいなかったと言う。
原田は案内役の隊士を裏口に回らせると、一瞬小春と顔を見合わせて、戸を開けた。
「失礼致す! 新選組の者だ。お話を伺いたい」
細長い土間に、原田の声がしん、と響いた。
――まさか、逃げられたか……
二人は最悪の想像を思い浮かべた、が、それは杞憂であった。
軽く木板の軋む音がして、何者かが二階から降りてきたからである。
ゆっくりと現れたその女を見て、原田も小春も一瞬、言葉を忘れた。
「あら……どうしはりましたん?」
そこには、絶世の美女がいた。
補足:鮮紅色死斑は寒いところで死体を放置した場合にも出現します




