十月 法医学 ②
楠小十郎の死体が発見されたのは烏丸三条の辺り、新選組の屯所からは約2㎞ほど離れたところだった。小春のひ弱な足にも優しい距離である。
急いで現場に向かうと、そこには新選組十番隊隊長の原田左之助が槍を片手に立っていた。彼は山南と小春に気が付くと、からっとした笑顔で寄ってきた。
「おっ、山南さんに氷上先生までついてくるとは、百人力だなぁ」
不審死した遺体を前にしてこの明るさである。原田は豪胆な男で、昔に切腹したことさえあるらしかった。小春も一度傷を見せてもらったが、現代の手術痕かと思うほどまっすぐで綺麗な横一文字の傷だった。
そんな原田とは対照的に、山南はずいぶん険しい表情をしていた。訝しむように遺体を見下ろしている。
「なに、気にするな。それより……下手人はわかりそうか」
「それがですね……」
原田は山南と共に遺体の傍へしゃがみこむと、二人だけでぼそぼそと話をし始めた。上層部の人間にしかわからない話があるのだろう。
うつ伏せで倒れている遺体の顔を覗き込んだ小春は、はっと息を吞んだ。
(まだ若い……)
新選組の隊士なのだから若いのは当然なのだが、それにしてもずいぶん若かった。まだ前髪が残っている。あどけない顔立ちが、死への恐怖と苦しみで頑なに歪んでいた。
それを見て、小春の胸が痛んだ。
(かわいそうに)
人体への興味と好奇心だけで生きている小春だが、別にサイコパスなわけではない。哀れみや慈しみの心もちゃんと持っている。ただ割り切るのが人より早いだけで。
小春は遺体にそっと手を合わせた。
(せめて、しっかり検死させてもらいます)
そう、医師の仕事は患者の治療だけではない。こうして病院外で亡くなった人間の死を診断し、死因を調べるのも大事な仕事なのである。
小春が遺体の傍へ寄った時、山南が顔を上げて小春を見た。
「氷上君、この死体がなぜ不審かわかるかね」
「えぇっと……」
小春はさっと遺体を頭から足先まで一瞥した。
確かに、背中から腰に掛けてばっさりとやられた傷がある。死因は背中を斬られたことによる失血死だろうか。
(でも、死因がわかってたら不審死じゃないよね?)
首を傾げた小春に、山南は背中の傷を指し示した。
「傷をよく見たまえ。同じところを二回斬られているだろう」
「酷いですね」
「そうじゃない」
よほど被害者が恨みを買ったのかと思ったが、そうではないらしい。山南は出来の悪い学生を前にしたかのような苦い顔を浮かべた。
「普通は背中から斬られれば、真っ先に振り返るだろう。だが楠君は剣も抜いていないまま、二度も斬られている……よほど油断していたのだろうか」
「もしくは、相手が奇術の使い手か、だな」
原田がにやりと笑って横槍を入れる。それを、小春は死体から目を離さないまま聞いていた。
「そっか……」
呟きながら、考えている。
いくらぼーっとしていたとしても、背中から斬られれば、当然山南の言うように振り返るはずだ。一太刀目で既に再起不能に陥っていたのなら、同じところをわざわざもう一度斬る理由がない。
(……本当に斬られて死んだのかな?)
とはいえ、傷口だけ眺めて考えていても仕方ない。
まず死亡を診断する必要があった。
「山南さん、原田さん、この方に触ってもいいですか?」
「ああ。もう傷の検分も済んだからな」
小春は念の為、心拍、呼吸の有無を確認した。たとえ死体として発見されていても、医師としては、心停止、呼吸停止、そして瞳孔散大の三つが揃っていないと「死んだ」とは言い切れないのである。
やはりというべきか、心拍はなかったし、呼吸も止まっていた。
だが、瞳孔を見ようと遺体の目を開けたとき、小春は目を瞬いた。
当然ながら瞳孔は散大していたのだが、それよりも意外なことがあったからだ。
「あれ」
(思ってたより、新鮮?)
遺体の瞳は黒々と澄んでいて、わずかではあるが水分さえ湛えていたからである。
人間の体には、死んでからもその経過時間に応じて様々な変化が現れる。一般的には、角膜(瞳)が白く濁ったり、体が硬直したり、血液が溜まって痣ができたりする。これを死体現象と言う。
角膜は死後約12時間くらいで混濁が始まり、48時間が経つと真っ白になって瞳孔も見えなくなる、とされている。
この遺体は角膜が混濁していないので、死後半日も経過していない、ということになるわけだ。しかもまだ瞳に水分が残っているから、半日どころか数時間程度しか経っていない可能性が高かった。
試しに服の袖から手を差し込み、遺体の二の腕辺りを触ってみると、そこはまだほんのりと温かかった。
(やっぱり……)
今は立冬で気温も低く、死体を外に晒しておけばすぐ冷え切ってしまう。なのにまだ温かいということは、やはり死んでからさほど時間が経っていない、ということだった。
「なにかわかったのかね」
山南が真剣な面持ちで覗き込んでくるので、小春は顔を上げた。
「この方、亡くなってから数刻ほどしか経っていないと思います」
「なに? なぜわかる」
小春は先程の考察を、噛み砕いて山南と原田に説明した。
ところが、説明すればするほど、二人の顔がなぜか引きつっていった。
――なぜそこまで死体に詳しいのか。
――もしかして、故郷で猟奇的な実験でもしていたのではないか……
そう思われていることを、小春は知らない。
「そ、そうか……それは結構なことだ」
暑くもないのに汗を垂らしながら、山南がよくわからない相槌を返す。
小春はまだ死体を見つめていた。
「もう少し調べてもいいですか?」
「えっ」
山南の了承も得ないまま、小春は遺体の顎や首、手足、指先を順に触っていた。
死後硬直を調べるためである。
小春の予想通り、手や足はまだ柔らかかった。唯一、顎だけが僅かに固くなっている。冬場で硬直が始まるのが遅い、という点を考慮しても、死んでから最長で4時間程度しか経っていないのではないか。
本当は直腸温を測ればもっと正確な死亡推定時刻を割り出せるのだが、残念なことにここはまだ体温計のない時代だった。それに、この時代で、遺体の尻に体温計を突き刺すような真似が許されるとは思えない。
小春はもう一度二人に向き直った。
「やっぱり、まだそこまで硬直が始まってませんね。おそらくですが、朝方くらいに亡くなってるんじゃないでしょうか」
「……」
「朝方?」
沈黙している山南の代わりに、原田が返事を返した。その目には希望が宿っている。
「ってことは、見てる奴がいるかもしれねぇ、ってことだな。おい、お前ら!」
小春の周りから引いていた隊士達が、原田の鶴の一声で集まってきた。
「今日の未明から明け方にかけて、こいつの目撃情報がないかどうか聞いてこい。ついでに女の有無も」
「はっ!」
そして、瞬時に隊士が散っていく。それを見て、小春は「警察みたいだなぁ」とぼんやり感心していた。
尤も、新選組の仕事は治安維持であり、その点では今の警察とそう変わらないのかもしれない。
さて、次は死斑の確認である。
一言断りを入れると、小春は死体を仰向けにひっくり返した。
帯に手をかけたところで、黙っていた山南が、とうとう耐えかねたように立ち上がった。
「ま……待て」
「はい?」
「何をする気だ」
その顔にありありと「不謹慎」の三文字が書かれているのを見て、小春は慌てた。別に追い剥ぎをしようとしているわけではない。
「やましいことじゃありませんよ! 死斑を見ようと思って」
「死斑?」
「はい。体の中にできる血溜まりみたいなものです」
当然ながら、死ぬと血の流れが止まる。止まった血液は重力に従って体の下の方へ落ちていくので、死後30分くらい経つと、体の表面にまるで痣のような赤紫色の跡が浮かぶ。これを死斑と呼ぶ。
死斑の有無だけでなく、指で押して消えるかどうか、体位を変換して消えるかどうかも、死亡時刻の推定に有用だ。
この遺体はうつ伏せで倒れていたので、前胸部に死斑があるはずだった。
「失礼します」
着物の合わせを開くと、確かにそこには死斑があった。
それを見て、小春はあっと息を呑んだ。横から覗いた山南が神妙に頷いている。
「うむ、確かに痣があるな」
そう、痣があったのである。
――燃えるように真っ赤な痣が。




