十月 法医学 ①
「知ってるかい? 小春」
夢うつつの中で、懐かしい声がした。
小春には兄がいた。優しくて、好奇心旺盛で、どこで役に立つのかわからないような雑学ばかり小春に教えてくれた。兄が医学部に入ってからは、雑学と称して色んな病気のことを教えてもらったりした。
その兄の声がした。
「青酸カリ中毒では呼気のアーモンド臭が特徴とされているけど、遺伝的に半分ぐらいの人は感知できないんだよ」
へぇ〜…………
…………
……
「いやどうでもいいわっ!」
小春は勢いよく布団から起き上がった。朝だ。急に起き上がったので頭が痛い。
(お兄ちゃんの夢なんて、久々に見たな……)
とはいえ、内容がくだらなさすぎて郷愁も何もあったものではなかった。アーモンド臭がわからないからなんだというのか。
外を見ると、いつも起きる時間より少し早く起きたようだった。薄明と呼ぶのだろうか、瑠璃色の空の向こうがぼんやりと橙に光っている。
それから程なくして、みるみるうちに空が白み始めた。ビルもマンションもないこの時代では、山間から太陽が頭を出すところまでくっきり見える。
その光景が、小春は好きだった。
(よし、今日も頑張ろう)
自然と笑みが浮かんだ。
京の秋は深まり、早くも十月になっていた。
先日肘内障の子供を治療した一件で、隊内での小春の評判はだいぶ改善していた。それまでは「なぜか幹部並みの待遇を受けている自称医者」だったのが、余計な修飾語を全て省いた「医者」になった。
そのおかげで、ちらほらと診察を受けに来る隊士が出始めた。たいていはちょっとした風邪や打ち身で、酷くても骨折程度だったが、医師としての仕事ができるということだけで小春は幸せだった。
「はい、これでしばらく安静にしてくださいね」
「かたじけない」
小春は晒布の両端を結んで、にっこりと微笑んだ。晒布の奥からは微かに油の匂いがする。
今日の患者は21歳男性。三番隊に所属する平隊士だ。
主訴(患者の訴え)は足の痛みで、稽古をしていたところ、脛に手痛い一撃を食らったと言う。
診察したところ骨に異常はなさそうだったので、金創膏を和紙に塗った和製湿布を貼って、晒布で固定し治療を終了した。
晒布を巻かれた隊士が、ちらりと窺うように小春を見た。
「先生は、石田散薬をお出しにならないんですね」
「えっ、と……」
小春は言葉に詰まった。
石田散薬、とは土方の実家で製造している秘伝の薬らしい。土方家近くの川に自生している草を、土用の丑の日に刈り取り、乾燥させて黒焼きにする……というなんだか怪しげな薬だ。
いや、それだけならまだ良い。小春が知らないだけで、ちゃんと有効成分が入っているのかもしれない。
だが小春が許せないのは、その服用方法だった。
石田散薬は、日本酒で飲むのだ。
(薬を酒で飲むな!!)
基本的に、薬は肝臓か腎臓のどちらかで代謝される。アルコールも肝臓で代謝される。薬と酒を同時に摂取すると、肝臓に負担がかかって代謝が遅れるので体に良くないのだ。というか、薬の種類によっては最悪死ぬ。
そんなわけで、小春は日本酒で服用する石田散薬を、基本的には処方していなかった。
が、中には効くと信じ込んでいる人もいる。そういう人には、他に飲んでいる薬がない時に限って出しても良いことにしていた。
「お出ししましょうか?」
そう言うと、隊士の顔がぱぁっと輝いた。
「え、いいんですか? てっきり先生はあれを嫌っているものだと……」
「そっ、そんなことないですよ!」
一応、土方は小春の上司である。上司の実家の製品を嫌っているなどと知れたら、大いに心証を害するだろう。
小春は棚から石田散薬を取り出した。
「はい、どうぞ」
「ああ、これですぐ治るような気がします……!」
隊士はまるで仏を前にした時のような笑みを浮かべると、一礼して診察室から出て行った。ちなみに、診察室とは小春の私室の一角である。
それを見て、小春はこっそりと溜息をついた。
(また石田散薬に負けた……)
自分の治療が終わった時より、石田散薬を処方してもらった方が、隊士は何倍も嬉しそうな顔をするのである。それが、小春には悔しかった。
(早くそれぐらい信頼してもらえるようになりたいなぁ)
とはいえ、信頼とは一朝一夕についてくるようなものではない。肘内障を治療したときのように、もっと実績を積み重ねていかなくては。
診療録を書くべく、小春が筆を手に取ったその時だった。
「おい」
「ふぎゃあ!?」
部屋の入口で土方の声がして、小春は思わず床から飛び上がった。
(もしかして、今の聞かれてた!?)
今の、とは、小春が石田散薬を嫌っている云々の話である。
――もしかして、あの会話が土方の耳に入っていたりしたのだろうか。それで自分を絞めに来たのでは……。
不穏な想像におそるおそる顔を上げたが、土方は怒っているでもなく、ただ小春の行動について不審がっているだけのようだった。
「なにびびってんだ。それより、山南さんが呼んでるぞ」
「ほっ……」
小春は胸を撫で下ろした。どうやら聞かれていなかったようだ。
「山南さんですね、わかりました。今行きます」
筆を置いて立ち上がった小春の背に、土方の笑いを噛み殺したような声が飛んできた。
「石田散薬に負けてるようじゃ、お前もまだまだだな」
その言葉に、小春の顔から血の気が引いた。
(やっぱり聞かれてたんじゃないかー!)
「しょっ、精進しますー!」
そして、脱兎のごとくその場から逃げ出した。
山南敬助。新選組総長であり、立場上、小春が女であることを知っている数少ない人物の一人でもある。
博識で温厚な性格であり、剣術の腕も優れているだけあって、隊内からの評判は非常に高い。
そんな優しい山南であるが、小春にだけはやたらと冷たかった。
「氷上君、今日こそは教えてもらおう。君は一体どこから来たんだね」
「そう言われましても……」
そう、ほとんどの隊士が小春を受け入れた今でも、山南だけはかたくなに小春の正体を疑い続けているのである。
ほぼ毎日のように部屋に呼び出されては詰問されるので、流石の小春もそろそろ参っていた。
正座している足先がだんだんと痺れてくるのを感じながら、小春は眉尻を下げた。
「出身は言えませんけど、医学を学んだのは本当なんです」
「そのことは疑っていない。私が疑っているのは君の腕ではなく出身だ」
「はぁ、それはどうも……」
とはいえ、山南の言うことは尤もである。新選組の中核である近藤、土方の両名が小春を信じきっている以上、自分だけは疑いを捨ててはいけない、という信念があるのだろう。もし小春が間者だったら、新選組は今笑えない事態になっている。
それがわかるからこそ、小春はあまり強く出られないのだった。
(でも、未来から来たなんて言えるわけないし)
小春にもう少し詳しい日本史の知識があったなら、自分の出身について、うまく辻褄の合うようなストーリーを考え出すことができていたのかもしれない。それこそ、沖田が言っていたようにどこかの国から逃げてきたお姫様、とか。
だが、小春にこの時代に関する基礎知識が無い以上、むやみに嘘をつくのは悪手と思われた。
となれば、小春はひたすら黙って過ごし、他人が小春の正体を勝手に納得してくれるのを待つしかない。その点、山南はなかなかの強敵だった。
「じゃあ逆に聞きますけど、山南さんは私のことをなんだと思っているんですか?」
「長州の間者」
「違いますよ! だいたい長州ってどこなんですか」
「西の方だ」
西の方とはアバウトすぎる答えだ。ちなみに長州とは今の山口県辺りである。
(どうしたら信じてもらえるんだろう……)
もしかしたら一生信じてもらえないかもしれない。
小春がいよいよ困り果てていると、障子の向こうからふと声がした。
「山南先生、いらっしゃいますか」
「ああ、入りたまえ」
入ってきたのは、監察方の隊士の一人である島田魁だった。
監察方とは、新選組内部の違法行為を取り締まったり、敵方に潜入して密偵行為を行ったりする部署のことである。要は、新選組の間者みたいなものだ。
小春は、音もなく障子を開けた島田を見つめた。
(山南さんには、この人と私が同じに見えているんだろうか……)
彼は首を見上げるほどの大男だったが、この部屋に来る時も足音一つ立てていなかったし、こうして控えている今も気配というものをまるで感じさせない。まさにプロの間者といった佇まいだ。
対して、小春はといえば、もう正座をするのが限界でこっそりと足を崩している。
いったいどう見れば小春が間者に見えるのか、山南に問い詰めたいくらいだった。
島田は小春がかろうじて聞こえるほどの小声で言った。
「平隊士の楠小十郎君が遺体で発見されました。十番隊の原田隊長が応援を要請されております」
「楠君が? それに応援とは、戦闘にでもなったのかね」
山南が言うと、島田は首を横に振った。そして、さらに声を落とした。
「いえ……遺体に不審な点がありまして」
「えっ!」
声を上げたのは小春だった。二人に睨まれ、慌てて口に手を当てる。
が、胸の内から沸き立つような興奮は押さえられなかった。
(不審死……すごく気になる!!)
湧き上がる小春の知識欲の前には、もはや倫理も常識も敵ではなかった。
医学生は患者に触れることは多くても、死体に触れることはほとんどない。解剖実習で同じ遺体に約三ヶ月間向き合うことになるのを除けば、医学生が相手にするのは生きた患者だけだ。
しかし、医学部で習う科目の中には、法医学といって死因の解明やDNAの鑑定などについて学ぶものもある。なかなか興味深い学問なのだが、習った知識を実践する機会は普通に生きていればほぼ無いに等しかった。
その機会が、今目の前に来ている。
しかも、不審死ということは、あんな死体やこんな死体が見られてしまうかもしれないのだ。現代で普通に医者をやっていてはとても見られないようなものが。
小春は思わず立ち上がっていた。
「行きましょう、山南さん!」
「えっ……いや、君は呼ばれていないんだが」
「行きましょう! 山南さん!」
「はぁ……仕方ないな……」
こうして、小春の初めての外出が決定した。




