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閑話 肘内障

 「新選組に若い医者が来た」


 その知らせは瞬く間に隊内で拡散され、今や一人として氷上小春の名を知らぬ隊士はいなくなっていた。

 小春の元には治療を求める隊士がひっきりなしに集まり、小春は毎日忙しくも充実した日々を過ごしていた――

 


 と、なるはずだったのだが。


 


 「はぁ……」

 

 水に浸した雑巾を絞りながら、小春は陰気な溜息をついた。縁側からは庭で稽古に励む隊士の姿がよく見えて、小春のみじめさを加速させた。

 

 (仕事がない……)

 

 小春が晴れて新選組お抱えの医師として正式に迎えられてから、早くも数日が経っていた。しかし、小春は未だ患者の一人にも恵まれず、こうして掃除に専念する日々が続いている。

 医師として新選組に来た小春にとって、これは大問題だった。


 すっかり失念していたが、新選組の隊士は健康な成人男性ばかりである。いくら江戸時代の人間とはいえ、若年者は基本的に体が丈夫だから、医者を必要とする病気になることはそう多くなかった。まだ冬にもなっていないせいで、風邪っ引きの一人すらいない。


 じゃあ怪我は、と思ったが、最近は不逞浪士と斬り合いになることが少ないそうで、治療が必要なほどの怪我人は出ていなかった。

 

 つまり、仕事がなかった。


 小春はもう一度、深い溜息をついた。

 

 (これじゃあただの穀潰しになっちゃうよ〜)

 

 本物の穀潰しにならないよう、せめて掃除くらいはと雑巾がけに励んでいるのだが、中にはそんな小春を不審の目で見る者もあった。

 

 「あれが医者か? ただの下働きじゃないか」

 「誰の小姓だか知らないが、なんであんなのが幹部並の扱いを受けてるんだ」

 「大体あんな若い医者がいるわけがない」

 

 非番の平隊士達が、小春にも聞こえるくらいの音量で喋っているのを、小春は黙って聞いていた。


 実際、彼らの疑いは尤もである。現代でも小春は医師になるのに二年若いし、この時代の医者は十年も二十年も師の元で修行していたというから、信じてもらえないのも無理はない。

 

 (もしかして、私のこと信じてないから、みんな具合悪くても来てくれないのかな……)

 

 だとしたら、事態はもっと深刻だ。やぶ医者扱いされているのだから。

 俯いた小春の元に、二本の足が止まった。

 

 「暇そうですね、氷上先生」

 

 沖田だった。やたらと嬉しそうな顔をしている。

 その顔を見て、小春は反射的に言い返していた。


 「む……こ、これも立派な仕事なんです! 清潔は大事です、し……」

 

 そう言う語尾がだんだん小さくなっていく。


 本当は、もっと華やかな仕事がしたい。もう掃除には飽き飽きしていた。骨折の固定とか、切り傷の縫合とか、今なら風邪の看病だって大歓迎だ。不謹慎ではあるが、隊士の不調を待つ心がどこかに存在しているのは事実だった。


 (本当は、患者なんていないに越したことないんだけど……)

 

 仕事がない、となればそう綺麗事ばかり言っていられないのも事実である。

 俯いた小春の顔を、沖田が覗き込んだ。

 

 「お暇なら、仕事を作ってさしあげましょうか?」

 「え?」

 

 なにか用事でもあるのだろうか、と小春は首を傾げる。

 が、沖田の口から出てきたのはとんでもない言葉だった。

 

 「私が今から道場に行って、隊士を軽く揉んできますよ。そしたら打ち身、骨折の一人や二人……」

 「わーっ、だめ、だめですよそんなの!」

 

 小春は慌てた。流石にそこまでして仕事がほしいわけじゃない。今の話が耳に入ったのか、小春と沖田の半径10メートルから隊士がささっと引いて行ってしまった。


 するとその時、壬生寺の方から火がついたような子供の泣き声が聞こえてきた。

 小春は沖田をじろっと睨んだ。

 

 「ほら、沖田さんがそんなこと言うから、子供も泣いてるじゃないですか」

 「私のせいですか?」

 

 沖田は不服そうな顔を浮かべた。あの発言を冗談抜きで言っているなら大したものだ、と小春は思う。


 だが、なぜか子供の泣き声は段々こちらへ近づいて来ていた。

 それどころか、男性が何かを呼んでいるような声まで聞こえてくる。

 

 「……先生! 氷上先生! いるか!?」

 「呼ばれてますよ、小春さん」

 「私?」

 

 小春は慌てて立ち上がり、下駄をつっかけて外へ出た。後ろから沖田がのんびりとついてくる。




 表へ出ると、泣きじゃくる子供を抱え、困り果てた顔をしている男がいた。

 その男の顔を見て、小春は少なからず驚いた。沖田などは腹を抱えて笑っている。

 

 「これは驚いたな! まさか斎藤さんが女子(おなご)を泣かすなんて」

 「……変な言い方はよせ」

 

 この男は斎藤一(さいとうはじめ)。新選組でも沖田と並んで一、二を争うほどの剣豪であり、沖田と違って寡黙で実直な男だ。

 その腕の中で、3〜4歳くらいの小さな女の子が、顔が溶けてしまいそうなくらいに泣いている。


 小春は顔を青くした。

 

 (ゆ、誘拐……)

 

 「違うからな」

 

 小春の考えを読んだのか、斎藤が苦々しい顔で言った。



 斎藤の話によれば、彼が壬生寺の前を通りかかったところ、この女の子が池を覗き込んで、頭から落ちそうになっていたそうだ。

 慌てて腕を引いて助けたは良いが、その後わんわんと泣き出して、何を言っても泣き止まないと言う。

 

 (斎藤さんが怖かったのでは……)

 

 と思ったが、女の子は斎藤の腕の中から抜け出そうとするでもなく、泣くだけで大人しくしていた。

 小春は女の子と目を合わせた。

 

 「どうしたの? どこか痛いの?」

 「うっ、うぇええ、ふえぇえん」

 

 ……泣いているばかりで話にならない。

 沖田も同じように女の子に尋ねてみたが、結果は同じだった。

 

 「困ったなー……」


 小さい子の扱いは得意ではない。

 小春が当惑していると、斎藤がぼそりと言った。

 

 「泣く前に、痛い、と言っていた。どこが痛いのかはわからんが……それで先生のところへ連れてきた」

 「痛い?」

 

 どこが痛いのだろう。

 とりあえず斎藤に女の子を下ろしてもらうと、自分の足でちゃんと立てていた。立ち方に不自然なところもない。

 

 (足とか腰じゃない、多分お腹でもない)

 

 お腹が痛ければ少し前かがみになるはずだ。ではどこが痛いというのだろう。

 小春が女の子を観察していると、彼女が右の腕をだらんと垂らしていることに気がついた。

 泣き腫らした目を擦るのも、左手だけでやっている。


 その動作に、小春の頭をある病名がよぎった。

 

 (もしかして……肘内障(ちゅうないしょう)?)

 


 肘内障とは、肘の靭帯から骨が抜けてしまった病気――もとい、状態のことである。小さい子供は靭帯と骨の接着が甘いので、腕を引っ張るなど強い衝撃が加わると、骨が抜けてしまうことがある。俗に「肘が抜けた」とも言われる。

 治療自体に特別な道具はいらないので、医学生どころか素人でも治せる怪我だ。

 

 が、早合点は禁物である。

 先に骨折の可能性を否定しないと、肘内障の治療で骨折が悪化することがあるからだ。とはいえ、必ずしもレントゲンを撮る必要はない。

 

 

 小春は女の子に近寄った。

 

 「ちょっと先生に診せてね」

 

 そう言いながら、着物の合わせを少し開いて、まず鎖骨を観察する。鎖骨骨折の有無を見るためだ。

 左右の高さはきちんと揃っていて、特に色の変化や腫れもない。

 小春は指で鎖骨を少し押した。

 

 「どう? 痛い?」

 「ぐすっ、ううん」

 

 女の子は涙ながらに首を振った。痛みも腫れもない、ということは鎖骨は折れていないはずだ。小春はほっと息をついた。

 さて、次は本命の肘である。

 小春はそっと女の子の袖を肩までめくった。

 

 「痛かったら言ってね」

 「うん……」

 

 そう言いながら、素早く肘の左右差を目で確認する。

 鎖骨と同様、肘にも腫れや色の違いはなさそうだ。

 小春は女の子の右手を取った。指先がぴくりと動いた。

 

 (温かい)

 

 それに、動かすことができている。肘を骨折していると、その部分が腫れたり、指先が冷えて動かしにくくなることが多い。

 ますます肘内障の疑いが濃厚だ。ということはつまり、今ここで小春がさっさと治してしまえる、ということでもあった。

 

 (肘内障の整復なんてやったことないけど……やるしかないか)

 

 相手は子供だ。上手く行かなければ散々に泣かれて、医者嫌いにもなってしまうだろう。

 そうでなくても整復には痛みを伴う。これは一発勝負なのだ。

 

 小春はごくりと唾を飲んだ。


 心臓が早鐘を打つ。指先が冷える。

 おまけに変な汗が出てきた。


 それでも、誰かに任せるわけにはいかない。この場で整復法を知っているのは、小春しかいないのだから。

 

 (落ち着こう……そんなに難しい手技じゃない)


 小春はなるべく優しそうに見える表情を浮かべた。


 「ちょっと触るね」

 「いたい……!」

 

 肘を触ると、女の子は身をすくませた。思わず手を離してしまいそうになるのを、心を鬼にしてぐっと堪える。

 

 (整復はなるべく手早く!)


 そのまま、親指側の肘窩の骨を押さえ、女の子の手のひらを上から下へとひっくり返した。

 

 こくっ、という小さな音がした。

 

 (来た!)

 

 整復に成功すると、靭帯に骨がはまるクリック音がすることがある。骨を触っている指にも、靭帯が上手く嵌ったような感触があった。

 小春はそっと手を離した。

 

 「どうかな? もう痛くないと思うんだけど」

 

 女の子の涙に濡れた瞳と、目が合った。

 

 「え……?」

 「もう治ったのか?」

 

 様子を見ていた斎藤と沖田も、不思議そうに女の子の腕を眺めている。女の子も目をぱちぱちと瞬かせていたが、やがておずおずと右腕を上げた。


 「いたくない……!」

 「うん。よく頑張りました」

 

 小春が女の子の頭を撫でると、女の子は満面の笑みを見せた。

 初めて見る笑顔だった。

 

 「せんせい、ありがとう!」

 「どういたしまして」

 

 言いながら、小春は自分こそ感謝したくなるほどの、胸の温かさが広がってくのを感じていた。

 

 (ああ、これが医者の醍醐味ってやつか……)

 

 このやりがいは、きっと何にも取って代えることはできないだろう。

 小春が微笑んでいると、斎藤が女の子の左手を取った。

 

 「送っていく。家はどこだ」

 「おてらのちかく!」

 「それではわからん」

 

 女の子を連れて、再び寺の方に戻っていく斎藤に、小春は声をかけた。

 

 「斎藤さん!」

 「む?」

 「小さい子の手を引く時は、なるべく肩に近いところを持ってあげてくださいね。今回みたいな緊急時は別ですが」

 

 斎藤は柔らかく笑って頷いた。

 

 「ああ。恩に着る、先生」

 

 治った右手を振って、女の子が歩きだす。

 その姿をいつまでも見ていると、後ろから声がかけられた。

 

 「せ、先生……あんた本当に医者だったんだな!」

 「え?」

 

 振り返ると、いつの間にか非番の隊士が小春の後ろに大勢集まっていた。中には小春の陰口を言っていた者もいて、沖田が呆れたように溜息をついた。

 

 「はぁ……近藤先生がやぶ医者なんて入隊させるわけないじゃないですか」

 「そ、その通りです! 俺達が間違ってました! 氷上先生、申し訳ありません!」

 「え、ええ……!?」

 

 隊士達が一斉に頭を下げる。十数人もの成人男性が自分に向かって頭を垂れている光景は異様そのもので、小春は思わず狼狽えた。

 

 「やめてください。そんな……謝ることじゃないです」

 

 そもそも、医者と信じてもらえるほど難しいことをしたわけでもない。ただの肘内障の整復だ。

 それでも、隊士達に感動を与えるには十分なようだった。砂糖に群がる蟻のように、隊士が小春との距離を詰めてくる。

 

 「先生、俺実は頭が痛くて……!」

 「俺も腹の調子が……」

 「この前稽古で作った打ち身が……!」

 

 にわかに大量発生した患者に小春が囲まれていると、沖田が険しい顔をしてその間に割り込んだ。

 

 「お前ら、どうせ大した病気じゃないだろ! 全員石田散薬飲んで寝てろ!」

 「そんなぁ、あんまりですよ、沖田先生!」

 

 その場にどっと笑いが起こる。

 結局、治療が必要なほどの病気の患者はいなかったが、それでも小春の信頼は、この一件を機に瞬く間に隊内に広がったのだった。

 



 

 「俺は最初から信じてたのになぁ」

 「なにか言いましたか? 沖田さん」

 「いいえ、なんにも」



肘内障の整復は必ず小児科または整形外科へ!

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