九月 切創 ⑤
「はい、これでおしまいです」
「わーい、お外行ってくるー!」
小春は湯を使って勇之助の傷を洗い、もう一度金創膏を塗って晒布を巻いた。何重にも巻いたので、土が足についても感染の心配はないはずだ。
勇之助はじっとしているのが居心地悪かったのか、治療が終わるなりさっさと表に出ていってしまった。
母親は深々とお辞儀をして、懐から包みを取り出した。
「先生、ありがとうございました。これ、診療代です」
「大したことはしてないので、お代はいりませんよ」
「え、でも……」
「本当に結構です」
そもそも、新選組に置いてもらう条件の一つに無報酬で診療することが挙げられているのだ。八木家の親子は新選組の一員ではないかもしれないが、だからといって彼女からは金を取る、というのは流石に気が引ける。
小春はにっこりと笑って続けた。
「さっきみたいに、お湯で洗って軟膏を塗り直すのを毎日やってあげてくださいね。それと、傷のことだけでなく、何か変だなと思う点があればいつでも呼んでください。例えば、熱が出たとか、顔が動かしづらそうだとか、あまり笑わなくなったとか、本当に何でも」
小春が主に心配しているのは感染とPTSDである。感染の中でも、特に破傷風は死亡率も高いので注意しないといけないし、PTSDはしばらく経ってから発症することもあるから油断はできない。
(平気そうに見えても実は、なんてこともあるもんなぁ)
などと考えていると、なぜか母親が遠い目をして小春を見つめていた。
「先生……」
「はい?」
「その顔でそないに優しくするんは、罪やで、罪」
「えっ」
小春が困惑していると、後ろで土方が小さく笑う声が聞こえた。
「心配すんな、おまささん。こいつには基本、新選組の奴らしか診せねぇよ」
「絶対にその方がええよ。女子は診せたあかんわ」
「えぇっ」
「ほら、もう行くぞ。俺は忙しいんだ、あんまりお前に付き合って長居してられねぇ」
どうやら土方が忙しいのは本当らしく、先程から新選組の隊士が土方を訪れては「後にしろ」と追い返されていた。賊に襲撃され、局長が亡くなったとあっては、本当は小春一人にだけ構っている場合でもないのだろう。
小春は急いで立ち上がった。
「それでは、私はこれで失礼しますね。お大事になさってください」
「先生、本当にありがとうございました」
深々と頭を垂れる母親を前に、小春と土方は八木邸を後にした。
勇之助の手当を終え、部屋まで送ってもらう道すがら、土方がふと話しかけてきた。
「なあ……なぜ手当に酒を使わなかったんだ?」
小春は土方を見た。その顔は、新選組の副長としてではなく、純粋に疑問に思ったことを聞いているようだった。
この時代、というか小春がいた現代でさえ、一昔前までは傷口はアルコールで消毒する、というのが常識だった。
だが、傷口を消毒すると正常な細胞も殺してしまい治りが遅くなる、というので、近年ではほとんどアルコールによる消毒はされなくなっている。
それをどうやって説明するかが考えものだった。
(細胞とか言ったところで理解してもらえるんだろうか)
ドイツの学者シュワンによる細胞説の提唱が西暦1839年である。今が西暦何年なのか、日本史弱者の小春には知る術もなかったが(ちなみに文久三年は西暦1863年である)、とりあえずこの時代の人々に細胞という概念はなさそうだ。
小春はなるべく慎重に言葉を選んで説明した、つもりだった。
「傷口にお酒をかけると痛いじゃないですか。あの痛みは傷を治すのに良くないんですよ。綺麗な水で洗うだけでも、菌は十分落ちるので」
「菌?」
「あっ」
(しまった)
うっかり口を滑らせてしまったが、細胞も知らなければ、菌、つまり病原体について知っているわけがないのだ。
どう説明したものか小春が考えていると、土方がふと溜息をついた。
「蘭方……いや、夷国の医学ってのは、だいぶ進んでるんだな」
どうやら、小春の知識を蘭方医学のものだと思ってくれているらしい。土方は更に難しい顔をした。
「攘夷の正しさを疑ってるわけじゃねぇが……もしかすると、この国は遅れを取っちまってるのかもな」
「ち、違います!」
小春は慌てて土方に向き直った。
この時点での日本が西洋諸国に遅れを取っているのは事実なのだが、小春の知識を元にそう判断されては困る。
だって、小春は未来の人間なのだから。
頭で考えるより先に、口から勝手に言葉が突いて出た。
「私が……私が賢すぎるだけなんです!」
……言ってから、急に恥ずかしくなってきた。
(調子乗ってると思われたらどうしよう……)
現代ならまだ冗談としてギリギリ通じたかも知れないが、この時代ではそれが通用するだろうか。
おずおずと土方を見上げると、彼は切れ長の目を見開いていたが、やがて、
「ふっ……」
と、溢れるような笑みを漏らした。それを見て、小春もつい顔を綻ばせた。
どうやら、今のは許されるレベルの発言だったようだ。
「ふふ」
「ははは」
まるで賊の襲撃に遭った次の日とは思えないほど、ほのぼのした光景が広がっていた。
――が、それは瞬く間に打ち砕かれた。
「馬鹿も休み休み言え」
「あたっ!」
土方が小春の頭を小突く。武人だけあってその威力は現代の比ではなく、小春は思わずよろめいた。
「金創膏も知らないくせして、何が賢すぎるだ。もっと漢方も真面目に勉強しろ」
「はい……」
ぐうの音も出ない正論に、小春は項垂れた。
この時代で医者をやるなら、たとえ蘭方医だろうが漢方の知識は必須である。というより、現代でも必須だった。小春がまともに勉強していなかっただけで。
小春が頭を押さえてしょぼくれていると、土方は「ちょっと待ってろ」と言い残し去っていった。
「……?」
戻ってきた土方は、一冊の本を手にしていた。
「お前、明日中にこれを読め」
「あ、ありがとうございま……明日中!?」
小春はぎょっとして手元の本をぱらぱらとめくった。
薬草についてまとめられた書物のようだ。ところどころに挿絵が挟んであるものの、基本的に文字ばかりだった。まあ、そこは現代の医学書でも同じである。
ところが、決定的な違いが一つあった。
漢字が異常に多いことだ。
(これ漢文じゃん!)
漢文なんて、大学受験に使ったきり久しく触れていない。古い医学書の中には漢文で書かれているものもあったが、まさか本当に読まなければならない日が来るとは思っていなかった。
(読めるかな……)
だが、医学生なのに文字が読めない、となればいよいよ正体を怪しまれる。確か、この時代の医学書は全て漢文のはずだ。
小春が不安と躊躇いを浮かべたその時、土方が厳しい声で言った。
「何故明日中かわかるか?」
「いえ……」
「明後日から本格的に働いてもらうからだ」
その言葉に、小春ははっと顔を上げた。
働く――つまり、新選組の医師としての仕事が始まる、ということだ。
今日やった傷の手当のように、医師の真似事みたいな仕事ばかりではない。もっと重い怪我人や病人も、これからは小春が責任を持ってみなくてはいけない。
己の一存で人が死ぬことも、あるかもしれない。
そう思うと、小春は急に手元の本がずしりと重く感じた。漢文だろうが何だろうが、頼れる知識を一つでも多く身に着けなければならなかった。
「わかりました……私、頑張ります」
その声はもう揺るぎなかった。
土方が満足げに頷いた。
「期待している。氷上君」
「……!」
氷上君。土方がそう小春を呼んだということは、小春が名実ともに新選組の一員になったと同義だった。
小春の胸を、勇気の泉が満たした。
(私、この人達の役に立てるんだ)
行き倒れている小春を拾ってくれた。正体が何一つはっきりしていないのに、医学を学んでいるというただそれだけで、衣食住と仕事をくれた。
そして何より、小春を信じ、期待してくれた。
――やっとこの人達に恩を返せる時が来る。
それが、小春には何より嬉しかった。
「お任せください!」
この日、小春の心は新選組に忠誠を誓った。




