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八月 タイムスリップ ①

 京都の夏は暑い、と京都に住んでいる者は皆言う。

 まだ朝だというのに、もうコンクリートの照り返しが地獄のように暑い。陽炎ゆらめく東大路通沿いを、小春(こはる)は自転車を漕いで北上していた。ノースリーブの肩が強い日差しで焦げてしまいそうだ。


 (あぁー、もっと早く家出れば良かった……!)


 信号に捕まり、ちらちらと腕時計を見やる。規定の集合時間まではあと十分しかない。一旦更衣室に寄って白衣に着替える時間も考えると、果たして間に合うのか自信がない……どころか、遅刻だ。

 

 (実習遅刻はまずいよね……)

 

 小春の背を、暑さではない汗が流れた。

 

 

 

 氷上(ひかみ)小春は医学部に通う五年生だった。京都では五回生、とも言う。


 特段お金持ちなわけでも、目を引く美貌があるわけでもない、普通の医学生だ。珍しいところと言えば、東京出身なことくらいで、それもレアと呼べるほどのものではない。

 嫌いなものは早起き。好きなものは実験と人体。……後者が”普通”と呼べるかどうかは物議を醸しそうだが、本人としては至って普通だと思っている。

 

 病院実習が始まって数ヶ月が経ち、夏休みも明けたばかり、茹だるような暑さの中で気が緩んでいた。

 

 だから、と言っても良い。

  

 信号が青に変わった瞬間力強くペダルを踏んだ小春の耳に、言葉にならない悲鳴が聞こえてきた。アクセルをふかす音がして、小春は首を動かした。

 

 (えっ?)

 

 黒い乗用車がこちらに向かってくる。まるで速度を落とす様子もないそれは、真っ直ぐ吸い込まれるように小春の目前に迫った。


 あまりのことで、思考が無に包まれている。逃げる瞬間はあったはずなのに、体が凍ったように動かない。周囲の時間が止まっていて、乗用車の時間だけが動いているかのようだった。


 (轢かれる――)


 そう思った瞬間、小春の体を圧倒的な加速度が襲った。

 

 

 

 世界が回っている。

 



 (高エネルギー外傷だ)


 唐突に、脳裏にそんな言葉が過ぎった。

 高エネルギー外傷とは致命的になる可能性が高い外傷のことである。自動車と自転車の衝突は軒並み高エネルギー外傷に分類されるし、この吹っ飛び方からして即死も十分ありうる。


 ふと、遠くに大文字山が見えた。


 (青い……)


 吸い込まれそうなほど青い緑だった。それだけを見ていると、ずっと回っている景色がだんだんと色褪せていくのを感じる。音も、匂いも、どんどん遠くなっていく。ふわり、と加速が止まり、何か優しいものに包まれたような心地がした。


 小春は目を閉じた。

 

 

 

 

 ――運命を変えろ、という囁きが聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 その数秒後、小春は背中に鈍い痛みを感じて顔を顰めた。


 「うぐっ」

 

 背中と尻が痛い。後ろから転んだようだ。舞い上がった土埃の匂いを感じ、小春は恐る恐る目を開けた。

 

 (死んで、ない……?)

 

 車に轢かれたにしては、随分と勢いのない転び方だった。もっと身を裂くような激痛を予想していたが、これはとてもありふれた痛みだった。例えば柔道の授業で受け身の練習をした時のような。


 まさか受け身を取れたのか?


 流石にあんな吹っ飛び方をしていては受け身も何もないと思ったが、小春は体を起こして辺りを確認した。そこで、硬直した。

 

 「ここ、どこ……?」

 

 そこは、少なくとも道路ではなかった。日本家屋がひしめく間にある細い道だ。その裏道のようなところに、小春は一人倒れていた。

 見回すと、京都でも有数の高級飲食店街である先斗町の景色によく似ていた。だが、大学の近くで轢かれたので、流石に先斗町まで飛ばされているはずがなかった。直線距離でも1kmほど離れている。


 小春は投げ出されていた鞄を掴み、よろよろと立ち上がった。

 次に感じたのは、匂いだった。


 (なんか、田舎臭い)


 それは比喩ではなく、お婆ちゃんの家の近くで嗅ぐ匂いだ、と小春は思った。

 こんなにいっぱい家があるのに田舎臭いなんて不思議だ。本当にここはどこなんだろう。

 小春は壁伝いに歩き、広い道に出た。


 そして、瞬きを繰り返した。


 「ここどこ?」


 先ほどよりも声に焦りが滲んでいる。それ以上に、小春の心臓が早鐘を打ち始めていた。車に轢かれる直前の方がもっと穏やかだっただろう。


 目の前に先ほど見えていた大文字山が、そっくりそのまま見えている。よく見ると木々の色が違うが、位置的には全く一緒だ。

 それだけならよかったのだが、視界の下半分には、まるで太秦映画村をそのまま引っ張り出してきたのかと思うような江戸時代の奥ゆかしい町並みが広がっていた。


 その二つの事実が合わさるのが問題だった。


 太秦映画村にしては立地が違う。元いた東大路通にしては町並みが違う。


 小春の背中を冷や汗が伝った。


 (ここはどこ? 京都じゃないの?)


 残念ながら、ここはれっきとした京都であり、さらにいえば小春が先ほど轢かれた東大路通まさにそのものなのだが、小春の脳はそれを認識しようとしていなかった。もしそれを認識すれば、導き出される結論はただ一つ。


 タイムスリッ――


 そこまで考えて、腕を、がっ、と誰かに掴まれた。




 「おい嬢ちゃん、そんな格好でどこ行くんだ」


 小春は声のする方へ振り向いた。


 いかにも落ち武者のような身なりをした男が三人、笑みを浮かべて小春を取り囲んでいる。表面的には小春の身を案じているようにも聞こえるが、彼らの視線は小春の頭の先から爪先までを舐め回すように這っていた。

 掴まれた腕に鳥肌が立つ。

 それでも無理に振りほどくのは失礼だろうと、小春は引きつった愛想笑いを浮かべた。


 「えーっと……少し散歩にでも?」


 それはどう考えても男を突き放すのには悪手であったが、現世でもナンパに遭ったことがない小春は、それ以外の答えを思いつかなかった。


 しかし、小春の言葉に男達は目を剥いた。


 「散歩!? その格好で!?」

 「えっ……」


 ぎょっとしている男達に、小春も戸惑ってしまう。何かおかしいことを言っただろうか。

 自分の服を見下ろすが、ノースリーブのブラウスにクロップドパンツと、夏場には至って普通の格好だ。靴もただのスニーカー。どこもおかしいところなんてない。

 

 (……ない、よね?)

 

 小春はちょっと不安になった。


 男達はしばらく顔を見合わせてなにやら囁き合っていたが、やがてまた小春に向き直った。


 「嬢ちゃん、そんな格好じゃ冷えるだろう。俺達が着物を見繕ってやるよ」

 「着物を!?」


 今度は小春が目を剥く番だった。

 この男達はそこまで金を持っているようには見えないが、見ず知らずの人間に着物を買って与えてやるほどの財力があるのだろうか。着物なんていくらすると思っているんだろう。そんなもの受け取れるわけがない。


 男達が言っているのは小春の想像しているような振袖ではないことは明らかだったが、盛大に勘違いしている小春は、ぶんぶんと恐縮して首を振った。


 「そんな、とんでもない! お気持ちだけで十分です」

 「遠慮すんなって。ほら行くぞ」

 「いやいや、そんな……」


 その場に留まろうとする小春を、男達が肩を抱えて連れ去ろうとする。


 ――これはもしかしてまずいのではないか?


 高額な着物を売り付けられ、その借金返済のために危ない場所に売り飛ばされてしまうのではないだろうか。

 

 (体で払え、とかなっちゃうんじゃ……)

 

 当たらずとも遠からずなその考えに、小春の顔が青くなったその時だった。

 

 


 「失礼ですが、そこで何を?」

 

 澄み渡るようなその声に、小春ははっと顔を上げた。

 そして、目についた。


 明るい。


 陽の光を受けた浅葱色が、小春の目を引いた。ぼやけたような世界の中で、その色だけが鮮やかだった。


 (……綺麗)


 思わずぼーっとしてしまう。

 しかしそんな小春とは対照的に、男達は喉の奥からひぃっと絞り出すような悲鳴をあげた。


 「み、壬生浪(みぶろ)!」

 「馬鹿、今は新選組だ」


 (新選組?)


 「とにかく逃げろ!」


 聞き覚えのある言葉にぴくりと背中が動く。そうしている間に、男達は小春など忘れたかのように一目散に逃げて行った。

 小春が逃げていく三つの背中をぼんやりと目で追っていると、浅葱色の羽織の男が声をかけてきた。


 「お怪我は?」

 「え、あ、ああ……大丈夫です」


 あまりの展開に頭がついていかない。狼狽えながら答えた小春に、男はなおも続けた。


 「良ければご自宅までお送りしましょう。そんな恰好でこの京を一人歩くのは危険です」


 さっきから自分の服が延々とあげつらわれていることに小春は少し腹が立ったが、それ以上に困ることがあった。


 (自宅……)


 そう、自宅がないのである。

 もうここまで来れば小春にもおおよその見当がついていた。

 

 (新選組って言ってた、ってことは……)


 ここは、令和の世ではない。乱世を極める幕末の世だ。


 何がどうしてそうなったのかは知らないが、小春はタイムスリップしてしまったのだ。当然、帰るべき家はない。小春の下宿先も、通っている大学も、これから行こうとしていた病院も、この世界にはない。

 そしてなお悲しいことに、小春には日本史の知識がほぼない。高校では日本史を取らなかったし、中学で習った内容もほぼ忘れている。


 小春はひとりぼっちで、何も知らない世界へ放り出されてしまったのだ。


 (どうしよう、本当にどうしよう)


 今まで授業を寝過ごしてしまった時や、試験に落ちた時でさえ、これほど焦ったことはなかった。昔、中学受験に失敗した時も、これほど絶望的な気分ではなかった。

 

 (私、本当にタイムスリップしちゃったんだ……)


 だんだんと真っ青になっていく小春に気付いたのか、男が慌てた。


 「本当に大丈夫ですか? あ、寒いですよね。これどうぞ」


 男が羽織を脱いで、小春の肩にかけてくれる。

 その動作に、緊張の糸が切れた。


 目の前が真っ暗になり、小春は立っていられなくなった。

この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。

また、無資格者による医療行為は犯罪です。絶対に真似しないでください。

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