――人間合格。
――『赤き魔導書』を取り込むことに成功し、徐々に融合を果たしていく文人。
表情を見る限り、拒否反応やキャパオーバーという事もなく――忌々しいほどにくつろいだ表情をしている辺り、今のまま事態が進んでいけば、奴の目論見が失敗する……なんてことは起こりそうもなかった。
そんな宙に浮かぶ仇敵を前にしながら、劫慈は何も出来ずにただ悲壮な顔つきのまま、文人を見上げることしか出来ていなかった。
「せっかく、ここまで来たっていうのに、俺は……俺は、何も出来ないままだってのかよ!?」
もう睨む気力すらなく、自身の心に灯っていた意思の炎が急速に消えようとしている事を、劫慈は感じ取っていた。
そんな劫慈を嬲るが如く、文人が宙から言葉を投げかける。
「試験会場内で試験問題衆達が敗れたため、術式の効果も屋上にまでは及んでいないようだな。……その結果、お前はこうして先程までの威勢の良さが嘘であるかのように、捨てられたワンちゃんの如く、物欲しそうな表情丸出しで俺を見つめているわけだが……せっかく拾った命なんだ。俺がとっておきの余興に使ってやるとしよう……!!」
「余興、だと……!?一体、俺に、何をさせるつもりなんだ……」
これまで劫慈が鍛え上げてきた腕力など、全く意にも解さぬほどの超越者になりつつある文人。
瞬時に劫慈を消し去るなり、拷問で延々と苦しめる事が出来そうな彼だったが――その口から出てきた言葉は、意外なものであった。
「いや?お前は何もしなくて良い。――今と同じように、ただ見てくれているだけで良いんだ……」
「それって、どういう……」
そこまで言いかけてから、ハッとした表情を浮かべる劫慈。
それに対して文人は、
「オッ!お前は馬鹿なりに、さっきから良く分かっているようじゃないか!私の心情を読み解くテストがあったら、この時点で合格判定間違いなしだゾ!!」
などと道化のように振る舞いながら、答えを口にする。
「あぁ、お前がここまで来ることになったソレ。俺としては、もう目的を達成出来そうな以上、自力で試験問題衆を生み出せるようになったから用済みなんだが……どうせなら、最初にそいつに告げた通り、手慰み程度にそいつを玩具として扱ってやるから、お前は黙ってその様子を見ときんしゃい♪」
文人が指さした先にいたのは、現在十字架に磔の状態で固定されているこよりだった。
自分は、彼女を救うためにこの一年間必死で世界中を駆け回り、ようやくここまでたどり着いたのに……。
それが、どうして、どうして……こんな事に。
文人から楽し気な口調とともに告げられた最低かつおぞましい神託を前に、一人項垂れながら、絶望的な感情に急速に支配されていく劫慈。
……このまま、自分は何もできずに大切な少女と世界が蹂躙される様を眺めていく事しか出来ないのかと諦めかけていた――そのときだった。
「こ、劫慈君……」
あまりにもか細いが、はっきりと自分の名前を呼ぶ声を聞いてハッと顔を上げる劫慈。
彼が見つめる先にいたのは、憔悴した様子のこよりだった。
彼女はこれまで捕らえられた状態で、試験問題衆を生み出すための膨大な魔力を吸い上げられただけでなく、頬が赤く腫れていることからも文人から何らかの暴行を受けたのかもしれない。
痛ましい彼女の姿を前に、歯を食いしばりながらも、劫慈は囚われた彼女に向かって話しかける。
「……大丈夫か、こより!……俺が、無力なあまりこんな事になってしまって、本当にすまない……!!」
そんな劫慈に対して、こよりが優しく笑みを浮かべながらフルフルと首を横に振る。
「良いんだよ。それでも、劫慈君はここまで来てくれた。それだけで私は十分嬉しいんだ……」
自分の方が苦しいはずであろうに、どこまでも相手の事を気遣うこよりの優しさを前にとうとうこらえきれないと言わんばかりに、劫慈は涙を流し始める。
――だからこそ、彼女の発言をそのまま受け入れる訳にはいかなかった。
「――そんなはずがないだろう!!俺はまだ、こよりに何もしてやれていないんだ!……これで十分だなんて、そんなはずがないだろう……!!」
絞り出すように劫慈が自身の思いの丈を口にする。
それは端から見ていれば子供の駄々程度のモノにしか見えなかったかもしれないが――それすらも許すように、こよりは苦笑を浮かべながらも彼に真摯な眼差しで言葉を紡ぐ。
「それなら、最後のお願いなんだけど……劫慈君の力で、この拘束を何とか解いてくれることは出来るかな?――そうすれば、絶対に文人を止める事が出来るはずだから……!!」
「えっ……こよりの拘束を解く、だって……!?」
そう反芻しながら、チラリと今や手が届かぬほどの上空に浮かんでいる文人をチラリと、不安げに見上げる劫慈。
……今、究極の生命体に進化しようとしている彼の不興を買うような真似をすれば、瞬時に自分達は抹殺されるかもしれない。
劫慈がそのような思考から、堂々巡りに最悪の未来を想定し始めていた――そのときだった。
「大丈夫だよ、劫慈君。……きっと、君なら大丈夫」
死の恐怖に囚われそうになっていた劫慈の意識を引き戻したのは、肉体が囚われたままでありながらも、気高さを失うことのなかったこよりからの呼びかけだった。
彼女は劫慈を安堵させるように、磔のままにも関わらずゆっくりと語り掛けていく。
「『赤き魔導書』を取り込んだ彼が、究極生命体としてその力を完全に自身に馴染ませるには、もう少し時間が必要みたい。……その間は、十全に動いたり力を行使する事が出来ないっていうのを、彼の身体の中を巡る魔力の流れでなんとなく分かるんだ。――だから、劫慈君。今のうちにこの拘束を解いて……!!」
そんな彼女の発言を聞いて、ようやく自身が何をすべきか理解したのか、「あぁ、分かった……!!」と言いながら、劫慈がこよりのもとに駆け寄っていく。
今の劫慈には、もう文人を恐れる気持ちは微塵もなく、ただ『眼前のこよりを救いたい』という想いのみがあった。
こよりの身体を拘束している十字架にかけられた術式を、鍛え上げた腕力で引きちぎりながら、一心不乱に彼女を解放する準備をしていく劫慈。
残るは、あと右腕部分のみ……となった段階で、劫慈の動きが止まった。
「……どうしたの、劫慈君?やっぱり、少し無茶させ過ぎちゃったかな……?」
そんな不安げなこよりの声に対して、劫慈が「いや……」と反論する。
「ようやく、俺はこよりに再会する事が出来たんだ。その喜びで元気なら有り余ってるくらいだな。……ただ、こよりはさっき俺に対して“最後のお願い”と口にしていたけど……アレは一体、どういう意味なんだ?こよりは、究極生命体になろうとしている文人の事を、どうやって止めるつもりなんだ……!!」
そんな劫慈の発言を聞いて、本当に困ったように眉を寄せながら、泣きそうな笑顔を浮かべるこより。
だが彼女は、やがて観念したように呟く。
「……劫慈君には、本当に隠し事は出来ないね。これじゃあ、将来劫慈君と付き合う人は大変だな~……」
「~~~ッ、なんでその相手が『自分じゃない』なんて、諦めきった表情で言えるんだよ……こより!!」
そんな劫慈の叫びに対して、今度こそ全くふざけることも笑顔で誤魔化すこともせず――まっすぐに、彼の顔を見ながら、こよりが答える。
「――そんなに悲しそうな顔をしないで、劫慈君。……私はこれから、この世界を救いに行くだけなんだから」