完全なる証明
この騒動の元凶である這瑠 文人の完全なる消失――。
何一つ痕跡すらないこの屋上に残されたのは、彼の企てにさえ巻き込まれていなければ、どこにでもいる普通の十代の若者として過ごせていたはずの、二人の男女だった。
賦勇乃 劫慈と春野 こより。
再会の喜びや祝福とは程遠い面持ちのまま、両名は静かに対峙する――。
日が完全に暮れ、夜風が吹き抜ける状況であるにも関わらず、こよりは何ら纏うこともせずに身体を隠そうとしないまま、じっと遠くを見つめている。
彼女がサキュバスの血を引く者という証である角や翼が生えたままである辺り、現在の彼女の感覚は人間ではなく悪魔に近いのかもしれなかった。
とはいえ、このままの姿で放置するわけにもいかない。
そう判断した劫慈が、気まずそうにこよりへと話しかける。
「……その姿とか、もう元に戻らないのか?」
劫慈の問いかけに対して、「アハハ……」と明らかな苦笑とともに、振り返ったこよりが答える。
「そうだね。私は桁違いかつ膨大な精気を取り込んだから、サキュバスの力が活性化してるし、ひょっとしたら、人間の姿に戻る事が出来るのは、当分先になるかもしれない……あぁ!もちろん、試験会場のみんなの“生命力”や“知力”は養分なんかにせずに、ちゃんと返還出来るはずだから、そこは心配しないで!」
こよりからの返答に対して、劫慈は「そうか……」とだけ呟く。
ようやく再開出来たにも関わらず、会話がロクに続かない。
そんな状況を前に、表情に出さないようにしつつも、劫慈は内心で激しく消沈していた。
(何やってんだ、俺は!……深刻な事だけど、だからこそ今は、そんな事を聞きたいわけじゃないだろう!俺は、真っ先にこよりを心配しなくちゃいけないはずなのに……!!)
理性の面では自分が今、何をすべきかという事は分かっている。
だが、それ以上に――。
文人と絡み合っていた時のこよりの姿が、鮮烈な映像として脳裏に浮かんだまま、消えてくれない。
頭を抱えたくなるような苦悩を何とか押し込めながらも、平然に振る舞い続けようとする劫慈に――今度はこよりの方が話しかける。
「……これで分かったでしょ?みんなやこの世界に生きる人達を守るためとはいえ、私は好きでもない男の人相手に、そんな事をする上に、厄介な事情を抱え込んだ女の子なんだ~……っていう事がさ」
「……ッ!?」
まるでこちらの心情などお見通しだと言わんばかりのこよりの発言を受けて、思わず絶句する劫慈。
十字架から彼女を助け出そうとした時に、劫慈がこよりから告げられたのが今回の『サキュバスとしての力を覚醒させて、文人に吸い上げられたこの試験会場の皆の力を取り戻す』という作戦だった。
彼女の悲壮な覚悟を前に、自身の無力さを血が出るほどに噛み締めて了承した劫慈だったが――それでもやはり、あの光景が彼にもたらした衝撃は計りしれないものであったようだ。
彼の無言こそが、自身の発言に対する肯定なのだと見做したこよりは、そのまま寂しげに彼から視線を逸らす。
「だから言ったでしょ?――これが“最後のお願い”だって。私はサキュバスだから、あんな方法でしかあの人を止める手段がなかった。……でも、そんな穢されてしまった私なんかが、劫慈君の隣にいちゃいけないんだよ」
そう言うのと同時に、目元の涙をぬぐうと、こよりは再度劫慈に向き合ってから、満面の笑顔で告げる。
「バイバイ、劫慈君。――君は私なんかと違って、本当に好きな子と幸せになってね」
別離の言葉をかつての想い人に伝えると、彼女はこれで心残りはないと言わんばかりに背後に振り返り、翼を広げて飛び立っていく――。
だが、その瞬間に、彼女の右手をがっしりと掴むものがあった。
「ッ!?うわわっ!!」
突然の予期せぬ事態を前に、飛行のためのバランスが崩れて思わず転びそうになる。
そんな彼女の身体を支えたのは、今自分の右手を掴んだのと同様のがっしりとした掌だった。
……それはここに至るまでの道程が、どれほど険しかったかを物語るかのような逞しさに満ちていた。
それでいて自分を包み込むような優しさが感じられるぬくもり……。
彼女が知る限り、そんな人物はこの場でただ一人だった。
先ほどまで見せたのとは異なる、懸命に堪えるような表情のまま、彼女は自身を支えてくれている相手の方へと振り返る。
「どうして……?私なんかに、これ以上関わったりしちゃダメだよ……劫慈君!!」
賦勇乃 劫慈。
会えなかった間、自分がずっと想い続けていた一人の青年。
自分の事を救うために、世界中を飛び回るほどの過酷な旅をさせたにも関わらず、最終的に自分の決断で傷つけてしまった大事な存在。
そんな彼に、視線でどうして、とこよりが問いかける。
それに対する劫慈の答えは、極めて単純なものだった。
「――確かに、あの場ではあぁするしか他に方法がなかったとはいえ、かなりショックを受けたさ。自分が無力で何も出来ないのが悪いって頭では分かっていても、感情で受け止めきれるものでもなかった」
けどな、と劫慈は続ける。
「――それ以上に、俺がこの一年間世界中を探し回るくらいに、『こよりの事を取り戻したい』と思い続けてきた事も紛れもない事実なんだ。……正直、“こんな事”なんて言葉で片づけられないくらいに響いちゃいるけど、だからってそれで簡単にハイ、そうですかで済ませられるほど安上がりな想いじゃねぇんだよ……!!」
そう言うや否や、何を思ったのか劫慈は自身が身に着けていた衣服を次々と脱ぎ散らかしていく。
突然の事態を前に、こよりが戸惑う中、劫慈はとうとうこより同様に一糸まとわぬ姿で、堂々と腕を組みながら仁王立ちしていた。
困惑しきったこよりに対して、劫慈が一呼吸してから、意を決したように彼女へと告げる。
「――こより。お前が嫌じゃないなら、このまま俺を本当の男にしてくれないか?」
人間状態ならいざ知れず、完全なサキュバスと化した自分に向けられた、劫慈からの思わぬ申し出。
それに対して、こよりは目を見開きながら驚愕していたが、すぐにまた悲し気な表情で俯く。
「……変に、私に気を遣わなくても良いよ、劫慈君。――私ね、さっきはあぁ言ったけど、今回サキュバスの力を使って初めて吸精した相手が、『赤き魔導書』の力を宿した究極生命体なんていうとんでもない存在で、そんな相手の力が私の内部に結びついた以上、私がサキュバスから人間に戻れる可能性はほぼ皆無に等しいんだ。……それどころか、私という存在にこれからさらにどんな影響が出るか分からなくなってしまっているの」
そんなこよりの言葉を黙って聞き続ける劫慈。
そんな彼の態度を再度肯定と見做してから、こよりは話を続けていく。
「その影響でこのままサキュバスから人間に戻れなくなるっていうだけなら、まだ軽いかもしれない。……最悪の場合、“サキュバス”でも“人間”でもない、これまでの事例では考えられないような存在に私が変質してしまう可能性だってあるんだよ……!?」
だから、とこよりは告げる。
「もう、私を見かけたとしても、二度と近づかないで!――私はこれ以上、劫慈君を傷つけたり、苦しめたりなんてしたくない、の……!!」
そう最後まで言いきらないうちに、正面にいた劫慈に抱きしめられるこより。
咄嗟の事で心の整理が追い付いていない中、そんなこよりに畳みかけるように劫慈が告げる。
「――だからって、こんなに悩んでいる女の子を一人放っておけるはずないだろう。……口ではどうこう言っていても、こうして抱きしめて欲しいって誰よりも願っているのは、他でもないこより自身だろ?」
「……ッ!?」
そんな劫慈の発言に対して、思わず二の句を告げなくなるこより。
――早く、この手を振りほどいて、今度こそ彼の手が届く前にどこか遠くへ飛び去らないと。
そう感じているのに、身体が動かない。
……何より、このまま何も言わなければ、それを無言の肯定だと彼に受け止められてしまうかもしれない――!!
そのように思考しているにも関わらず、どうしても自分を抱きしめる彼の腕を振り払う事が出来ない。
それどころか、こよりの両腕も劫慈同様に、彼の背中に回されていき、ギュッと抱きしめる形になっていた。
劫慈の胸板に顔をうずめながら、こよりが消え入りそうな声で呟く。
「……もう今の私は完全なサキュバス。このまま本当に劫慈君とそういう行為をしてしまったら、劫慈君の精を絞り尽くして死なせてしまう可能性の方が遙かに高いはず。……それでも本当に、劫慈君は今の私で男になりたいの?」
例えどれほど鍛え上げようとも、劫慈は常人の枠に収まる青年であり、強大なサキュバスに抗えるような特殊な能力や体質など何一つ持っていない。
このまま本当に決行してしまえば、こよりの言う通り、彼が絶命する事は確実であった。
だが、それでも――彼は死の恐怖を感じさせない快活な笑顔で、こよりへと告げる。
「それなら、どのみち俺は死なねぇよ!……例え事後にどんな結果になったとしても、俺の精気は確実にこよりの糧としてともに生きていく事が出来るんだ。それなら、命を懸けてこよりに挑む価値がある!!」
それにな、と劫慈は言葉を続ける。
「十字架の拘束を解いていた時に、言っただろう?――こよりに再会出来た喜びで、元気が有り余ってるくらいだってな。だから、案外生き残れちゃったりするかもしんないぜ?」
劫慈の発言を受けて、こよりがようやく可笑しそうに――けれども涙をぬぐいながらも、心からの笑みを見せる。
どんなに楽しくても、これが最後のひとときになるかもしれない。
そんな事を噛み締めながらも、互いに微笑み頷き合ったのち、両者は距離をとって静かに対峙する。
それまでとは一変して、こよりが妖艶に腰をくねらせながら、名乗りを上げる。
「――完全なるサキュバス:春野 こより。……今宵はとことんまで、アナタの事を絞り尽くしてア・ゲ・ル♡」
対する劫慈は先程と同様に、腕組みをした仁王立ちという姿で、堂々と雄々しく名乗りを上げる。
「――大事な存在を取り戻すために、ガムシャラに鍛えてきただけの馬鹿な男:賦勇乃 劫慈!!……ならば俺は、とことん自身の意思を貫き、その証を刻みつけるのみッ!!」
名乗り上げも終わり、両者が緊張した面持ちで構えを行う。
そして、自分が先に組み伏せようと、ほぼ同時に相手へと飛び掛かっていく――!!
――共通テスト試験会場・一日目。
今ここに、文字通り生死を懸けた“愛の証明”という最終試験が繰り広げられようとしていた――。