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セピア10 季節の終わりに

作者: 山本哲也

(…好き…)

 それは、たった一言の、ほんの小さな囁きに過ぎなかった。

 だが、そのたった一言の言葉は、美雪の心の中で長い間温められ続けた言葉だった。

(だめ…言葉が…気持ちが…抑えきれない…)

 目の前にいる亮太が、一年前の、あの日の亮太と重なる。

典子の事が、ふっと美雪の脳裏をよぎる。だがそれでも、胸にこみあげてくる想いを押し止めるには至らなかった。

 美雪の唇がゆっくりと言葉を、美雪の想いを、形にしていく。

「…好き…」

 ため息とともに漏れ出したような微かな囁き。

「…え…?」

 キョトンとした様子の亮太が、反射的に聞き返した。

 美雪の顔がカーっと熱くなり、真っ赤に染まる。

「何でも…」

 慌ててそう誤魔化すと、美雪はパタパタとその場を走り去る。

「…今、確か…」

 後に残された亮太は、キョトンとした、狐につままれたような顔のまま、その後姿を見送っていた。


(…とうとう言っちゃった…)

 顔を真っ赤にした美雪は、心の中でそう呟きながら廊下を走っていた。胸に何かがつかえている。

(後悔? 自己嫌悪? 戸惑い? …ううん、これは…)

 再び、美雪の脳裏に典子の寂しげな微笑みが浮かぶ。

 …後ろめたさ。

 その正体に気づいた時、チクン、と胸が痛んだ。だが、一方で自分の想いを伝えられて喜んでいる自分がいるのもまた、事実だった。

(…ごめん…典ちゃん…)

 心の中でそう呟くが、果たしてそれは本心からなのだろうか? 美雪は自問する。

 今は、自分自身が一番信じられなかった。


 一方その頃、一人残された亮太はさっき自分の耳で聞いた言葉が信じられず、ポカンと口を開けたまま美雪の去って行った方をぼんやりと見つめていた。

(…何…だって…?)

 自分が聞いたと思った言葉があまりにも意外すぎたため、とうてい信じる事などできなかったのだ。

『…好き…』

 だが、頭の中で何度記憶を反芻してみても、美雪の言葉はそれ以外では有り得なかった。

(…綾瀬さんが俺の事を好きと言った? …はは、まさかな…)

 まだ心臓がドキドキいっている。頭の中は完全にパニックだ。

 亮太は震える手のまま最後のスプーンを取り、鞄にしまう。何かしていないと、落ち着かなかった。

 一体、どうして美雪は亮太に向かってあんな事を言ったのだろう。何かの冗談でそんな事を言うような人ではないはずだ。だとしたら、本当に…?

 もし、もし本当にそうなのだとしたら、一体、どうすればいいのだろう。亮太の今の心境を言葉に表せば、嬉しいと言うよりはむしろ戸惑いの方が近かった。

「うひゃ!」

 ショックから抜け出せぬまま、鞄を手にフラフラと教室のドアへと向かった亮太は、何かを踏んだ感触でハッと我に返った。慌てて足元を見ると、そこには白猫のキーホルダーが落ちている。

 その白猫のキーホルダーに、亮太は見覚えがあった。典子の物だ。

(何だよ典子の奴、こんな所に落として…着物着てたからか? それにしてもよく掃除の時に捨てられなかったな…)

 先程、教室全体の片付けがあったばかりだ。その時に捨てられずに済んだのは幸運と言うほかなかった。

(ま、みんな早く後夜祭に参加しようとしてそわそわしてたからな…)

 後夜祭。その言葉を聞くと、一人こんな所で片付けをしている自分が空しく思えて来さえする。

 亮太はそれを拾ってしげしげと眺めていたが、不意に思い出したように腕時計を見て、悲鳴をあげた。

「やべ! 早くしないとお店しまっちゃう!!」

 もし間に合わなかったら、もう一日分のレンタル料を払わなければならなくなってしまう。そうなっても、会計担当の西村は追加分を払ってはくれないだろう。亮太一人に片付けをさせた事は百万光年の彼方に放り出し、『あんたがぐずぐずしてるからやろ』ぐらいに言うに決まってる。

 素っ頓狂な声を出した亮太は、それを無造作に学ランの胸ポケットに入れると、玄関に向けて走り出す。

 そして、それっきり忘れてしまっていた。


「はぁ…」

 翌朝、美雪は制服に着替えながら溜め息をついていた。

 目の前の大きな姿見には、冴えない表情の美雪が映っている。

(どうしてあんな事言っちゃったのかな…言うつもりはなかったのに…)

 鏡の中の自分にそう問いかける。昨日の事を思い出すと、未だに顔がカッと熱くなった。一体、どんな顔をして、今日から学校で顔を合わせればいいのだろう。そして、亮太は自分のことをどう思ったのだろう。

(…ちょっと唐突だったよね…)

 弾みだったとはいえ、今更ながらにマズいタイミングだったと思う。もちろん、美雪自身にしてみれば十分理由のあることだったし、唐突でも何でもないのだが、それを亮太が知る由もない。亮太から見れば、クラスメートが突然告白してきたように見えたに違いない。亮太に変な奴だと思われるのはともかくとして、今まで自分が大切にしてきた自分の気持ちを、そんな風にして台無しにしてしまったのが残念だった。

(…言うつもりなんて、なかったのに…)

 告白してしまった後でも、亮太は今まで通りに接してくれるだろうか。そして、それを知った典子はどうするだろう…?

 再び、罪悪感がこみ上げてくる。不安と罪悪感とで、学校を休みたかった。だが、そんな事をしても何の解決にもなりはしないと言うことも、よく分かっていた。

「はぁ…」

 美雪はもう一度、溜め息をついた。


「ふぅ…」

 同じ頃、亮太もまた、溜め息をついていた。

 枕元の時計に手を伸ばし、時間を確認する。まだ午前七時少し前で、いつもなら絶対に起きていないような時間だった。昨日の美雪の言葉が気になって、よく眠れなかったのだ。

『…好き…』

 目をつぶれば、まるで今目の前に美雪がいるかのようにハッキリと、美雪の少し頬を上気させた表情が浮かぶ。溜め息と共に漏れたような言葉は、その息づかいをすぐ側で感じる様な気さえする。しかし―

(…本当に…そう言った…?)

 思い返せば思い返すほど、あれは去年のことを思い出していた自分自身が作り出した、白昼夢ではなかったのかと思えてくるのだ。

 だが、もしあれが夢ではなかったとしたら…? 一体、どう対応すればいいのだろうか。

 美雪には柳井もいるし、それでなくとも自分など候補にも挙がらないと思っていた。

 だから、そんな事など考えたこともなかったのだ。

(…一体、どうすれば…?)

 最初の問題は、今日からまた学校で顔を会わせるのに一体どう対応すればいいのかという事だ。

 普通の顔で、いつも通りに会う事が出来るだろうか…。

「ふぅ…」

 亮太はまた、大きく溜め息をついていた。


 だが、二人が望むと望まざるとにかかわらず、時間は過ぎ去っていく。学校に着いた美雪は、不安とほんの僅かの期待をこめて教室のドアを開けた。

(…武内君は…)

 恐る恐るドアを開けた美雪は、そっと教室の中を窺う。しかしと言うべきか、やはりと言うべきか、そこに亮太の姿はなかった。

 少しホッとして、美雪は教室に入ろうとする。その時…。

「そんなとこで一体何オドオドしてるんだ?」

 後ろからポコッと叩かれた。

「痛!」

 振り返ると、そこには思った通りの顔―つまり、柳井の顔があった。

「もう、柳井君ったら…」

 頬をプクリと膨らませ、美雪は柳井を睨みつける。もちろん、本気で睨んでいるわけではないのだが。

「そんな怖い顔するなよ。いたずらが見つかったかどうかビクビクしてる悪戯っ子みたいだったからちょっとからかっただけじゃないか」

 そう言って、柳井はいつものごとくニヤニヤと笑う。

「悪戯っ子って…あたし、そんな顔してた?」

 恥ずかしくなって、美雪は俯いた。

「まあね。それより、昨日探してた忘れものは見つかった?」

「…忘れものって…あ、う、うん。ありがと」

「何か怪しいよな…ホントは、忘れ物なんて嘘なんじゃ?」

 ニヤニヤ笑いながら柳井が尋ねてくる。

「べ、別に嘘なんて…柳井君、性格悪くなったんじゃない?」

 さすがと言おうか、何と言おうか。柳井には誤魔化しは通用しないようだ。

「何をおっしゃるウサギさん。俺は聖人君子が服を着ているようだといつも言われてるんだぜ」

 柳井がそう言った時だった。

「柳井先輩、おはようございます!」

 一年生だろうか、小柄な、ショートカットの女の子がそう声をかけてくる。確か、昨日の『衛星』の一人だ。

「あ、おはよう」

「聖人君子ねぇ…」

 柳井がしまったと言う顔をしたので、美雪は仕返しとばかりに思いっきり疑わしそうな視線を向ける。

「いや、だからね、俺は彼女のいろいろな相談相手になってあげてるわけで…」

「はいはい。それだったらこんな所で油売ってないでさっさと相談相手になってあげなさい」

 美雪はそう言って柳井を女の子に押し付けると、 

「ごゆっくり」

 と言ってドアを閉める。それからひとつ、溜め息をついた。

(危ないトコだった…)

 柳井の追求は的確で、本当は自分の亮太に対する気持ちを知っているのではないかと思うほどだ。もちろん、そうだとしてもあの柳井なら不思議は無いのだが…。

 それとも、昔の歌ではないけれど、周りの人間にも分かってしまうほど、表情などに出てしまっているのだろうか…。

 だとしたら、当然典子にも…?

(止めよう! 憶測の上に憶測を重ねても無意味だわ…)

 美雪がともすれば突っ走りそうになる考え事を止め、席に着こうとした時だった。

 ガラガラ…

 美雪の後ろのドアが開き、亮太が入ってきたのだ。

「あっとゴメ…」

 美雪にぶつかりそうになって顔をあげた亮太の表情が凍りつく。同時に、美雪の表情も固まった。

「ゴメ…」

 どちらも俯いてそう言いかけ、共に口をつぐむ。

「ゴ、ゴメン!」

 叫ぶようにそう言い残すと、亮太は鞄を持ったまま廊下を反対方向へダッシュして行く。美雪には声をかける暇も無かった。

「あ…」

 一人残された美雪は、ただ呆然とその後姿を見送っていた。

(…避けられた…やっぱり変な女だと思われてるんだ…)

 覚悟していた事とはいえ、やはり実際に目の前で行動されると想像していた以上に辛いものがある。美雪は鼻にツンと抜けるような痛みを覚えつつ、自分の席へ座る。やはり、急にあんな事を言ったので変な女だと思われてしまったのだろう。無理もない。もし立場が逆だったら、美雪だって対応に苦慮したに違いないのだ。実際、美雪は何度かこういった唐突な告白をされ、困った経験がある。相手にしてみれば長い間その気持ちを暖めていたのかもしれないが、告白される方にとっては唐突なのだ。亮太がどんな気持ちでいるか、美雪は容易に想像がついた。

 これから、一体どうすればいいのかまるで分からなかった。そして、昨日まで自分が大切にしてきた想いを台無しにしてしまった事が、何より悲しかった。

(…せめて、あの気持ちが昨日や今日できたものじゃないって事だけでも知ってもらえたらな…)

 知ってもらった上で、断られるなら諦めもつく。だが、今のままでは…。

 美雪はまた一つ、溜め息をついていた。


(…どどど、どうすりゃいいんだよ…)

 気がつくと、亮太は昇降口にいた。もちろん、鞄は持ったままだ。

 まだ頭がパニクッていて、顔が熱い。心臓もドキドキと激しく鼓動している。これは教室から昇降口まで、廊下を走り、階段を駆け降りた事だけでなく、間近で見た美雪の顔に昨日の美雪のほんのり上気した顔がオーバーラップした為でもあった。

 この分だと、意識してしまって話をする事はおろかまともに顔を見る事すら難しいように思える。尤も、今までだって美雪とまともに話した事など数える程しかないのだが。

 だが、亮太の脳裏には、昨日の出来事は亮太自身の作り出した妄想では無いかという疑惑が未だにこびりついていて離れなかった。これはある意味、逃避だったのかも知れない。

 もしそうだったら自分はとんでもない馬鹿をしている事になってしまう。さりとて、それを確認する事など出来るわけもなく。

(『綾瀬さん、昨日俺に告白した?』なんて、言えるわけ無いよな…)

 そう尋ねる自分を想像してみて、亮太は即座にその作戦を却下する。どう考えてもアホな勘違い君だ。

(あーっ! どうすりゃいいんだ!!)

 亮太は両手でガリガリと頭を掻く。しかしそうした所で良い解決案が浮かぶわけでもなく、戸惑いに焦りが加わるだけだった。

「はぁ…」

 溜め息をついて顔を上げた亮太の視線が、典子のそれとぶつかる。典子は今ちょうど学校に来たところのようで、亮太のことをまるで幽霊か何かを見るような目で見つめている。

「な、何だよ。俺がこの時間に学校にいるのがそんなに珍しいかよ」

 典子のその表情の意味を『何で亮太がこんな時間に学校にいるの!?』と言う意味に取った亮太は、決まり悪さも手伝ってそう言い放った。確かに、普段の亮太ならこんな時間には学校に来てなどいない。それどころか起きているかどうかも怪しい。ただ、今日は例の事が気になって余りよく眠れなかったので早く学校に来たのだ。

「べ、別にそういう訳じゃ…」

 典子は口の中でゴニョゴニョと答えると、そそくさとその場を後にする。拍子抜けした亮太は、ただぼんやりとその場に立ちつくしていた。

 チクリと、胸が痛い。

 昔なら、あの夏祭りの日の前なら、『何言ってるのよ。普段の行いが悪いからでしょ』位、返ってきたはずだ。それが、あの日から何だかギクシャクするようになってしまい、それから、また学園祭の直前には昔のように戻れたと思っていたのだが…。やはり、それは亮太の勘違いだったのだろうか。

 一体どうして、こんな事になってしまったのだろう。

「はぁ…」

 亮太はまた一つ、溜め息をつく。このままここにいても仕方がないし、鞄を持ったまま学校内をウロウロするのもアレなので取りあえず教室に戻りたいのだが、今、教室には美雪がいるはずで、それを考えるとどうにも戻りたくなくなってしまうのだ。

 とはいえこのまま校舎内をウロウロし続けるという訳にもいかない。覚悟を決めるしかないのだ。

(よし!)

 亮太は教室の方を振り仰ぐと、決意を固め、しっかりとした足取りで歩き始める。

 ―そして、数分後には漫研の部室の前にいた。

(…つくづく、俺ってダメだよなぁ…)

 少々情けない気分になりながらも、亮太は部室のドアを開ける。

「あーっ、先輩だーっ!」

 聞き覚えのある甲高い声にそう呼ばれたのは、そんな時だった。

『泣きっ面に蜂』

 それは、亮太の心に浮かんだ言葉だったのかどうかは定かではないが、その時の亮太の心を端的に表している言葉ではあった。


「じゃあ先輩、約束ですからね!」

 部室を出たところで久美子にそう念を押された亮太は、『ああ』とも『ヤダ』ともつかない曖昧な返事を返してそそくさとその場を後にする。

 キーンコーンカーンコーン…

 辺りにはチャイムが鳴り響いていて、亮太はそれに背中を押されるかのよう足早に歩いていた。というより、チャイムが鳴ったのでようやく久美子から解放されたのだ。

(行かなきゃよかった…)

 亮太は今更ながらに自分の行動を後悔する。教室に行くと美雪に会う可能性が高く、教室に行かないとすると他に行き場所がないので自分の所属している漫画研究会の部室に避難場所を求めたのだが、却って久美子に会う事になってしまい、面倒な約束をさせられてしまった。

(避難場所か…俺、綾瀬さんの事、『災難』だと思ってるのか…?)

 ふと、美雪と会うのを『厄介な事』と考えている自分に気づき、愕然とする。いつの間に、そんな風になってしまったのだろう。新学期になった頃は、その姿を見られるだけで幸せだったというのに。

(俺…どうしちゃったんだろう…。あの綾瀬さんに告白された(かもしれない)のに…)

 まさか自分が美雪から告白されるとは思っていなかったが、それ以上に意外なのは自分がその事について持て余している事だった。

 もちろん、嬉しくないわけではない。だがそれ以上に、どうしたらいいのか分からない、困ったという気持ちの方が強いのだ。

 かつてはその姿をちらりと見ただけで幸せになれたのに、今は会わない方がホッとするなんて…。何と皮肉な事だろう。一体どこから、すれ違ってしまったのだろう。そんな事を考えているうち、亮太は教室の前に来ていた。

(ドアを開ければ…)

 亮太はゴクリと唾を飲み込み、決意を固める。

 ドアを開けて教室に入った亮太にみんなの視線が集中する。しかし、それは既に予想していたことだ。亮太はそれらをしっかりと受け止め、余裕の笑顔で答える。そして、自分の席に向かう途中で、美雪が俯き加減で亮太の様子をうかがっているのと視線がぶつかった。

「お早う、綾瀬さん」

 これも、亮太にとっては予想していたことだったので、亮太はにっこりと微笑んでそれに応える。美雪は顔を真っ赤にして俯いた。きっと、昨日の情景がまざまざと蘇っているのだろう。

(かわいい反応だな)

 亮太には、冷静に観察する余裕すら生まれていた…。

「武内、何やってるんだ? さっさと教室に入らんか」

 ドアの前で妄想を膨らませていた亮太を現実に引き戻したのは、担任の岩口先生の半ば呆れたような声だった。

「いや、何も…」

 苦笑いでごまかしながら亮太はそろそろとドアを開ける。もちろん、開けたのは妄想とは違い教室の後ろのドアだ。そしてそのまま、腰をかがめてコソコソと自分の席へと向かう。もちろん、美雪の方は見ないようにして、だ。それでも気になってチラリと視線を上げると、見事に美雪と目が合った。

(!!)

 二人共、慌てて視線を下げる。どちらの顔も真っ赤になっていたので、もし二人の事を注意して見ている人がいたら二人がお互いの事を意識しているのがハッキリと分かっただろう。

(…ダメだ…意識しちゃって綾瀬さんの顔、まともに見られない…)

 席に着いた亮太は、早速下敷きで煽ぎ始める。もう十一月になっていて、朝夕は上着を着ていないと肌寒い位なのに、今はとにかく暑かった。出来るなら上着もシャツも脱いでTシャツだけになりたい位だ。そんな亮太を、隣の席の女子生徒が半ば呆れた様子で、半ば感心した様子で見つめて呟く。

「…元気ね…武内君…」

 幸い(?)自分の事で手一杯の亮太にはその言葉は聞こえるハズもなかった。

 一方、美雪もまた、物思いに耽っていた。

(どうしよう…恥ずかしくて亮太君の顔が見られない…)

 亮太の姿を見ると、途端に心臓の鼓動が早くなってしまうのだ。顔がカーッと熱くなり、顔が真っ赤になっているのが自分でもよく分かった。そしてそのせいで益々恥ずかしくなり、さらに顔が熱くなり…という悪循環だった。

(せめて、きちんと伝えたいな…)

 どんな結果になるとしても、自分の大事にしてきたもの―亮太への想い―がいい加減なものでない事だけは伝えておきたかった。


 それから暫く経って、 昼休み。

 四時間目の授業の終了のチャイムと共に、大きく伸びをしながら立ち上がった亮太は、さてこれからどうしようと思案を巡らせていた。もちろん、昼飯をどうするか、という事だ。典子が手作り弁当を持ってきてくれていた頃はそんな必要もほとんどなかったのだが、夏休み以後、典子から弁当をもらう事はなくなってしまっている。そのため、昼飯を学食にするのか、購買にするのか、それとも学校を抜け出してどこかで買い物をするのかという選択を昼になる毎にしなければならない。学食は安いが味も酷いもので、しかも混んでいる。購買は大して安くはないし、大した物もないし、しかも混んでいる。他方、学校を抜け出すのは校則違反であり、その分のリスクや、少々遠いので行き帰りに時間をとられてしまう。それぞれ長所と短所があり、一人暮らしのため典子以外には弁当などを作ってくれる人もない亮太にとっては、いつもながら悩ましい問題となっていた。

(典子か…)

 亮太は一昨日の学園祭の日に食べた、典子手製のカレーの味を思い出す。『明治時代のレシピに基づいて』という制約があったにも関わらず、典子の作るカレーは学食のそれとは比べ物にならないほどの出来だった。今までは考えたこともなかったが、きっと、弁当もそういった出来の物だったのだろう。食べられなくなって初めて、その事に気づくとは何とも皮肉なものだ。

(そう言えば…)

 ふと、亮太は学園祭の日に拾った白猫のキーホルダーの事を思い出す。学ランのポケットを探ると、確かにそれは入っていた。

「典子」

 亮太は典子の席まで行き、そう声をかける。と、典子は

「あ、ゴメン、今ちょっと忙しいの」

 そう答えるとそそくさとその場を後にする。

「お、おいちょっと…」

 典子の後ろ姿にそう声をかけるが、典子には聞こえなかったらしい。その場に一人残された亮太は、白猫のキーホルダーを手にその後ろ姿を見送っていた。

「ま、いいか…」

 溜め息と共にそう呟くと、亮太は手の中の白猫のキーホルダーを見つめる。と、そのホルダー部分が壊れている事に気づいた。多分、そのせいで外れてしまったのだろう。

(直してから返すか…)

 亮太はもう一度、それをポケットの中に入れた。


 その日の放課後、亮太は駅の近くのファーストフード店にいた。

「で? 何の用だって?」

 これ以上はないと言うくらい仏頂面をした亮太が、テーブルの向かいにいる人物―艶やかな髪をショートボブにした、小柄な女子生徒―に尋ねる。

「あー、そこまで不機嫌そうな顔しなくってもいいじゃないですかー。久美子泣いちゃうー」

 その女子生徒は亮太の不機嫌そうな顔もものともせず、ニコニコして甘ったるい声で答える。

「勝手に泣け。用があるって言うから無理して来てやったんだ。さっさと話さないと帰るぞ」

 そう言いながら、亮太は立ち上がる素振りを見せる。久美子は慌てて亮太の腕を掴んだ。久美子にしてみれば学校の帰り道なのだろうが、亮太からすれば回り道もいいところだ。

「先輩ー、最近冷たくなったんじゃないですかー? ハンバーガーおごってあげたのに酷いですぅ」

「だから帰られたくなかったらさっさと話せって。ただし、言っとくけど話を聞くだけだからな」

(…ったく、何でこんな時にこんなのに捕まるかね…)

「はーい」

 何をたくらんでいるのか知らないが、ニコニコしながら久美子は話し始める。半ばやけになって亮太はハンバーガーにかじりつくが、次の瞬間、思わずハンバーガーを落としそうになっていた。

「…何…だって…?」

「やだなぁ、何度も言わせないで下さいよぅ。『先輩、あたしの恋人になって下さい』って言ったんですぅ」

 そう言いながら、久美子は頬に両手を当てて恥ずかしそうに「きゃ」等と言っている。亮太の脳がその言葉を認識するまで、たっぷり三十秒はかかった。

「な、何だってー!?」

 思わずハンバーガーを握りしめて椅子から立ち上がり、素っ頓狂な声を上げた亮太を、周りの席に座っていた女子高生達がキョトンとして見つめている。恥ずかしくなった亮太は「コホン」と軽く咳払いをすると、出来るだけ音を立てないようにしながら席に着く。

「今…冗談…な…?」

 頭がパニックしていて上手く言葉にならない。

「ヒドイ、先輩、久美子のことをそんな風に思ってたんですか!? 久美子、先輩の事信じてたのに…」

 久美子は目を潤ませて亮太に詰め寄った。

「いやだからそんな突然に…」

 もう何が何だか訳が分からない。一体、こんな目に遭うなんて自分が何をしたというのだろう。泣きたい気分で亮太がなんと答えようかと言葉を必死で探していると、突然、久美子がプッと吹きだした。

「先輩、そんなに慌てないで下さいよぅ。これにはちゃーんと、訳があるんですから」

「わ、訳!?」

 そう尋ねた亮太の声は、裏返っていた。


 久美子の言う、『訳』というのはこう言うことだった。

 クラスメートから告白されたが、断りづらくてきちんと返事をしないままにしていた。しかし、いよいよ誤魔化しきれなくなって来たため、亮太の事を『恋人』として紹介し、諦めさせたいというのだ。

「ヤなこった。どうして俺がそんな恨まれそうな事しなけりゃならないんだよ」

 椅子にふんぞり返った亮太は、久美子の話が終わった途端、即座に答える。元々そんな事などやる気がしないし、からかわれた後ならなおさらだ。

「つーわけで、誰か他探せ」

 そう捨て台詞を残して帰ろうとした亮太を引き留め、久美子が叫んだ。

「ヒドイ!! 先輩、久美子の事利用するだけ利用して、都合が悪くなったら捨てるんですか!? 久美子、先輩を信じて全部あげたのに…」

 途端に、周りの女子高生達の視線が再び亮太に集まる。

「そ、そんなに何度も同じ手が通用すると…」

 途中までは勢いよくそう言いかけた亮太だったのだが、泣き出す久美子を見て周りの視線が単なる好奇心によるものから突き刺さる性質のものへと変質すると、後の言葉は続かなかった。

「いや、だから、その…ま、と、とにかく、別の場所で話し合おう」

「…久美子のお願いを聞いてくれますか?」

 えっく、えっくと泣きじゃくりながら久美子が尋ねてくる。

「それは…その…」

「先輩が何て言おうと…えっく…久美子、産みますから!」

 久美子がそう言い放つと、周りが一瞬『ざわっ』とし、それから亮太に突き刺さる視線がより一層、冷たいものへとなった。『一体何を産むんだ!?』と言いたいところではあったが、それが出来そうな雰囲気でもない。そもそも、『二人の愛の結晶』等と言われたら目も当てられない。いくらウソだと言っても誰も信じてはくれないだろう。人は、真実を信じるのではなく、自分の信じたいものを信じるものだ。

「わーった! わーったから、とにかく出て話そう。な?」

 根負けした亮太がそう言うと、久美子は泣にっこりと微笑んで頷く。

 その顔に、涙は光っていなかった。


 それから数日経った、ある日の事。

 日直になった亮太は、放課後一人教室で掃除用具の後片付けをしていた。

 藤ヶ谷高校では教室の掃除は日直がする事になっている。日直は男女一組なのだが、女子の日直には日誌書き等の仕事を任せ、亮太が掃除を請け負ったのだ。掃除といっても自由箒で床を掃き、ゴミを捨てるだけなので、こういった分業は往々にして行われていた。それに、書類仕事の苦手な亮太にとってはその方が都合が良かったのだ。

「後はゴミを捨てて、と…」

 ゴミを掃き集めた亮太はホッと一息をつく。

 後は、ゴミをゴミ捨て場まで持っていけば面倒な日直の仕事も終わる。そうしたら、今日はバイトもないから例のゲームを…。

 亮太は最近発売されたばかりのゲームの事を考え、心を躍らせる。典子が家に来なくなって、唯一良かった事はどれだけゲームをやろうと誰も文句を言わない事だった。

(昔だったら、やれ『ゲームは二時間まで』だの、『勉強しろ』だのうるさかったからなぁ…)

 まだ典子が来ていた頃の事を振り返る。

 ちくりと、胸の奥が痛んだ。

 典子の作る料理の香り。いつもの、ずっと昔から続いていた典子とのやりとり。

 ほんの数ヶ月前までは、それが当たり前の生活だったのだ。

(一体、俺は何を望んでいたんだ…?)

 あの頃は、美雪の事が好きだった。少なくとも、好きだと思っていた。だから、無理だとは思いつつも付き合いたいと思っていた。しかし、あのころ思い描いていたのはこんな状態だったのだろうか。それが実現しそうになった今、何を失い、何が残ったのだろう…?

 だが、亮太の物思いはドアの開くガラガラという音によって破られる。誰が入ってきたのだろうと顔を上げると、そこには、亮太の事をしっかりと見つめて、美雪が立っていた。

「…綾瀬さん…」

 咄嗟にどう対応していいか分からず、亮太は視線を逸らせる。美雪の真剣な眼差しが、痛かった。

「…武内君、少し、いい?」

 そう尋ねる美雪の顔には、ある決意のようなものが宿っている。亮太はそれに気圧されたようになり、ただ黙って頷いた。

「あの…この間の事…」

 それを確認すると、美雪は漸く視線をそらす。それから、ぽつりぽつりと言葉を、自分の気持ちを紡いでいく。 

「…ごめんなさい。突然でびっくりしたよね…」

「いや…その…」

 暫しの逡巡の後、真っ赤な顔の美雪はそう言うとぺこりと頭を下げる。亮太は慌てて何か言おうとするが、次の美雪の言葉で何も言えなくなってしまった。

「…でもね、武内君…私…私が、武内君を好きになったのはもっとずっと前のことなの…」

 美雪は亮太をしっかりと見据えて一息でそう言ってしまうと、少し俯いた。そして、一番言いたい事を、言いづらい事を言ってしまったかのように少しホッとした様子で続ける。

「この前…武内君も一年前の事覚えてるって言ったでしょ。あの、一年前からなの。私が、武内君の事を好きになったのは…」

 第二の衝撃が、亮太を襲う。

 自分が、美雪を見初めたのと同じ時に美雪も亮太を見初めていたなんて、とうてい信じられる事ではなかった。亮太は我と我が耳を疑い、思わず自分の手をつねって痛みを確認する。

 確かに痛い。夢や妄想ではないのだ。

「ど、どうして…?」

 いろいろな思いが亮太の脳裏で交錯し、パニック寸前だ。ようやく、かすれた声で口から出たのはそれだけだった。

「…どうしてなのかな…? ただ、私の渡したスプーンを受け取った武内君の手が、綺麗だなって思って…」

 一番伝えたかった事を言い、気が楽になったのか、気負いのない素直な様子で美雪が答える。

「手…」

「あ、べ、別に手を気に入ったからとかじゃなく、それはきっかけにすぎなくて…」

 返事を聞いて目が点になった亮太を見て、美雪が慌ててフォローする。だが、途中で声がしりすぼみになり、俯いてしまった。

「変、かな…?」

 ややあって、美雪はおずおずと上目遣いで尋ねた。

「い、いや、そんな事ない…と思う…けど…」

 どう答えて良いか分からず、しどろもどろになる亮太。そんな亮太を見て、美雪はクスリと笑った。

「…そんな所なのかも。私が、好きになったのは」

「え!?」

 驚いた亮太が聞き返すと、美雪はただ曖昧に微笑んだだけだった。

「…ね、武内君」

「え?」

 ややあって、美雪が何か思い詰めた様子で話しかけてくる。夕日の放つオレンジ色の光に包まれた美雪は、とても綺麗で、そして何故だか儚げだった。

「武内君…私…」

 思い詰めた様子で何か言いかけた美雪だったが、結局俯いて首を僅かに振っただけだった。

「…ごめんなさい。何でもないの」

 美雪はそれだけ言うとそのまま走り去ってしまう。

「綾瀬さ…」

 一瞬、追いかけようとした亮太だったが、結局それ以上足が出なかった。

(…やっぱり、ダメ…)

 小走りに走りながら、美雪は首を振る。亮太に改めて『付き合って下さい』と言おうとしたその時、典子の少し寂しげな表情が脳裏をよぎったのだ。それからは、もう何も言葉にならず、ただ自分が浅ましい女に思えるだけだった。

(本当はどうなの…? 典ちゃん…)

 確かに、あの夏祭りの日、典子が真吾と抱き合っているところは目撃した(これに関してはまた別の罪悪感を感じていたのだが)。そして、典子は真吾と付き合っているのだと思った。否、そう思おうとした。だが、本当にそうなのだろうか。本当に、本人の言うように、『ただの腐れ縁』なのだろうか。典子は亮太の事を何とも思っていないのだろうか。

 毎日のように料理を作ったりしているのに?

 そして、亮太は本当に典子の事を何とも思っていないのだろうか? ただの幼なじみとしてしか見ていないのだろうか…?

 どちらも、そうであって欲しかった。

 だが、そう信じ切ってしまうには、美雪はあまりにも二人の事を知り過ぎていた。


(綾瀬さん…)

 亮太は、どうしていいか分からず、去っていく美雪の後ろ姿をただぼんやりと見送っていた。

 どうして、美雪はあんなに辛そうな顔をしていたのだろう。

 また自分が何かやってしまったのだろうか。

 亮太は自問する。だが、先程の会話の中にそれほど致命的なやりとりがあったとは思えない。何しろ、亮太はまともに話をしていないのだから。

 それなら、何故…?

 いくら考えても、答えは見つからない。亮太は溜め息をつくと、考えるのをあきらめてゴミ箱を手にゴミ捨て場へと向かう。

(それにしても…あれが夢じゃなかったなんて…)

 暫く歩いてるうちに、亮太はまた別のことを考え始め、自分でも気がつかないうちに足が止まっていた。

 一体、これからどうしたらいいのだろう。

 美雪に対して、どう接したらいいのだろう。

 そして、何と返事をすればいいのだろう。

 そこまで来た時、亮太はふと我に返った。

(…OKするんじゃないのか…?)

 亮太は美雪のことが好きだったハズだ。だったら、何を躊躇う必要があるというのか。渡りに船とばかりにそれに乗ればいいのだから。だから、OKしさえすればいいのだ…。

そうすればバラ色の生活が待っている。今まで誰も落とせなかった美雪を、『彼女』でも『連れ』でも『女』でも何でもいいが、とにかくそういう存在にすることが出来るのだ。手をつなぐことだって、抱きしめることだって(多分)OKだ。もしかしたらキスやそれ以上だって…。

 亮太は妄想を膨らませてみるが、それはほとんど膨らまないまま、すぐに萎んでいってしまう。

(どうしちゃったんだ、俺…?)

 ずっと、望んでいたハズなのに。

 それが手に入ると分かった途端に、こうもつまらないものに感じてしまうなんて。

 これが、『隣の芝生は青い』というやつなのだろうか。

(でも、取り敢えず返事はしないとな…)

 一体何と返事をしようか、等と考えている時だった。

「先輩、遅いです〜」

 不意に、聞き覚えのある甲高い声が聞こえてきたのだ。亮太が慌てて顔を上げると、そこには、久美子が腰に手を当てて、亮太を見上げていた。

「げ、久美子ちゃん…」

 亮太は露骨にイヤそうな顔をする。そう言えば、この前無理矢理約束させられたのを忘れていた。

(しまった…とっとと逃げるんだった…)

「先輩、この前約束したの、忘れてないですよね?」

「あ? ああ。忘れてないよ。ほら、今日は日直で…」

 しどろもどろになりながら、亮太はどうにか言い訳をする。

「良かった。久美子、ひょっとしたら先輩が逃げちゃったんじゃないかと思って、迎えに来たんですよ。じゃ、レッツゴ〜」

 そう言って久美子は亮太の腕に自分の腕を絡めてくる。

「やめれって!!」

 亮太は一所懸命振り払おうとするが、ゴミ箱を手に持っている状態では思うようにはならない。結局、二人はじゃれ合うようにしてゴミ捨て場に行くことになった。


 それから暫く後、亮太と久美子は駅の近くの公園にいた。

 二人の前には、同じ藤ヶ谷高校の制服を着た、小柄でストレートの髪を真ん中から分け、メタルフレームの眼鏡を掛けた、線の細い感じの男子生徒がいる。その男子生徒は(恐らく彼としては精一杯凄味を効かせたつもりで)亮太の事を睨んでいた。

(…何で睨まれなきゃならないんだ…)

 仏頂面でその視線を受け止めつつ、亮太は思う。

 嫌々連れて来られ、しかも恨まれるのは確実だ。ほとほと、自分の人の良さというか、優柔不断さに嫌気がさしてくる。

「えっと〜、この人が久美子のダーリンで〜す」

 そんな亮太の心も知らず、久美子が腕を絡めて甘ったるい声で言う。鳥肌が立ち、亮太は思わず身震いしてしまった。

(久美子ちゃん…調子に乗って…)

 振り解いて走り出したい衝動を懸命にこらえつつ、亮太は引きつった笑顔を浮かべる。

「ど、ども…」

「久美子さん、こんな男の何処がいいんですか!? 僕は認めません!!」

(…こんな男で悪かったな。俺だって、こんな奴の何処がいいんだと問いつめたい気分…)

「こんな男じゃないもん! 久美子のダーリンだも〜ん!!」

 そう言って久美子が亮太の腕をさらにギュッと抱きしめたので、背筋がぞくっとなって亮太の思考は一時停止してしまう。

(…のし紙つけて進呈するよ…)

 とにかく、亮太としては早くこのおぞましい空間から脱出したかった。

 そして、その希望はすぐに叶えられた。

「ぼ、僕、諦めませんから!!」

 そう、唐突に捨て台詞を残すと、男は涙目になってその場を走り去っていったのだ。

「おい…」

 ありがたい事ではあったが、少々拍子抜けしたのもまた、事実だった。

(結局、何がやりたかったんだ? あいつ)

 呆れた亮太は小さくなっていく後ろ姿を見送っている。

「べーだ」

 久美子は、その背中に向かって舌を出した。

「全くーう。アイツったら、しつっこいんだから」

 それから、亮太の方に向き直り

「先輩、これからの事話すのに、どっかでお茶しよ!」

 と言って腕をギュッと掴んだ。

「じょ、冗談じゃない!」

 亮太としては、もうこんな事に巻き込まれるのは二度と御免だ。それに、喫茶店になんか行ったらまた前回のように状況を利用されるに決まってる。

「え〜、行ってくれなきゃ久美子、この手を離さな〜い」

「なっ!?」

 久美子は亮太の腕に絡めた腕の力をさらに強める。

「んが〜っ!! 離せ〜っ!!」

 ブンブンと腕を振って引き離そうとするが、さすがに体重をかけてしがみついている久美子を引きはがすことは出来ない。

「ね〜先輩、無駄な抵抗はやめて、行きましょうよ〜」

 ニコニコ笑いながら久美子が囁く。その笑顔が、亮太には悪魔の微笑みのように見える。

 今回も、亮太の完敗だった。


「はぁ…」

 それから暫く後、漸く久美子から解放され、自分の部屋に戻った亮太はベットに倒れ込み、大きく溜め息をついていた。

 結局あれから喫茶店に行き、さらにその後関係ない買い物まで付き合わされたのだ。

 今の所、亮太は久美子のだだっ子攻撃に為す術がなかった。

「ググゥ〜」

 亮太のお腹が盛大に鳴る。時計を見ると既に夜の七時を回っていた。バイトがないのは不幸中の幸いだ。

(腹減った…何か食べる物あったっけ…)

 だるそうに起きあがると、亮太は冷蔵庫を開ける。だが、冷蔵庫の中は見事に空っぽで、僅かに干からびた長ネギのかけらが入っているだけだった。

(そう言えば暫く買い物なんかしてなかったっけ…)

 そもそも、典子が来なくなってからは料理なんか作っていなかったので食材など買っていなかった。その日食べる分の弁当か、バイト先の残り物か、カップ麺をコンビニで買うくらいだ。何か他に備蓄がないかと漁ってみるが、小麦粉などの食材はあるのだが、亮太のスキル―お湯を沸かす、お湯を注ぐ、三分待つ、かき混ぜる―でどうにか食べられる物に出来そうな物ではない。

「はぁ…」

 もう一度溜め息をつくと、亮太は立ち上がって上着を取る。近くのコンビニにでも、食料を買いに行くつもりだった。

「う〜寒…」

 外に出ると、当然の事ながらもう真っ暗で、しかもこの時期にしてはかなり冷え込んでいる。亮太は身震いすると、久美子への悪態をつきながら自転車に乗った。

(…こんな時、典子がいてくれたら…)

 寒さにかじかむ手を時折暖めつつ、コンビニへと向かう。その道すがら、亮太は典子と、美雪の事を考えていた。

 いくら料理が好きだからといって、あんな面倒な事をほとんど毎日、やってくれていたなんて。

(料理、か…あいつ、よく作ってたなぁ)

 典子が来なくなってからは何度か感じていた事だったのだが、亮太は典子が料理を作ってくれていたその有り難みを今更ながらにしみじみと感じていた。

(…それに…綾瀬さんの事はどうしよう…)

 そしてまた、自分の気持ちを告げた美雪に対して、どう応えようかとも考える。その時、昼間の男子生徒の傷ついた表情がチラリと亮太の脳裏をよぎった。

(悪い事をしちゃったよな…あいつはきっと真剣だったんだろうに…)

 まぁ、しつこい相手とはホトホト参るものなので、久美子の気持ちも分からないではない。亮太だって、久美子にはホトホト参っているのだから。しかし、そのために嘘をつくのも、そしてその片棒を担がされている事もイヤだった。出来る事ならに正直に打ち明けて、楽になってしまいたい。そうも考えていた。

 しかし今の所、それはとても出来そうにない。

「はぁ…」

 亮太はもう一度、溜め息をついていた。


 翌日、登校した亮太がまず目にしたものは、亮太の机の周りに出来た人だかりだった。

「ど、どうしたの?」

「武内…」

 戸惑いがちに問いかける亮太に、安藤が亮太の机の上に置いてあるものを薄気味悪そうに指差しながら振り返る。亮太の机の上には、『果たし状』と下手くそな筆文字で書かれた手紙が乗っていた。

「…果たし状…」

 それを見て絶句してしまった亮太に、西村が興味津々といった視線を向ける。

「武内ハン、一体どういう恨み買ってるん? ただごとやなさそうやけど?」

 亮太はそれには答えず、その果たし状を指でつまんでしげしげと見つめる。

 こんな物を送ってきそうな奴には、一人ぐらいしか心当たりがない。亮太はすぐにそれを開けようとしたが、周りの視線に気づいて止めた。もし心当たりの通りだった場合、久美子の事が書かれているはずだ。そうなると、いちいち状況を説明しないと誤解が広がってしまうわけで、亮太にとって甚だ芳しくない。亮太は鞄を置くと、西村や他の野次馬たちの視線を肌に感じつつ、その手紙を持ってそそくさと教室を出た。


 その『果たし状』はやはりあの、久美子に思いを寄せている男子生徒が書いた物だった。

 昨日は名前を聞かなかったが、果たし状の末尾に書かれている名前は『久保田 聡』となっている。また、内容としてはありきたりの物で、久美子をかけて自分と勝負しろ、ついては放課後に近くの神社で待つ、というものだった。

(今時こんな古風な事する奴がいるとはね…)

 亮太は、半ばあきれてその果たし状を見つめる。亮太自身としては久美子などのし紙をつけて進呈したいくらいだったので、全く応じるつもりはないのだが、それにしたって果たし状とは…。久美子が敬遠するのも無理はない。

 大体、久美子をかけて勝負、等と言ったところで久美子自身が納得しなければ意味がないのだ。そういうところが、抜けているというか何というか。

(やれやれ…何でこんなのばっかと関わり合いになっちゃうのかね…)

 亮太は自身の不幸を呪いつつ、それを学ランの内ポケットにしまい、教室へと戻った。

「で、どないだったん?」

 教室に戻った亮太は早速、西村の質問攻めにあった。

「別に」

 素っ気なく答えると、亮太は席に着く。

「そない言わはんと。相談に乗るで」

「別に関係ないって」

 亮太は出来るだけ無関心に答える。ここで何か話してしまうと後でとんでもない位に話が大きくなっているに決まっているのだ。

「ねー」

 西村はなおもしつこく亮太の周りをうろついていたが、亮太のとりつく島のない様子に諦めたのか、はたまた鳴り出したチャイムで一度引き下がる事にしたのか、チャイムが鳴り出すとすぐに自分の席へと戻っていった。

(ふぅ…今は、変な噂がたって欲しくないもんな…)

 どうにか西村が行ってしまうと、亮太は心の中で溜め息をつく。とにかく、今は特に変な噂がたって欲しくない。亮太はずっと気になっていた美雪の方をチラリと盗み見る。美雪は教科書を見ている風だった。一見無関心なようにも見えるし、また、見方を変えれば少し拗ねているようにも見える。

(大丈夫、なのか…?)

 それを見た亮太はほっとしたような、しないような、落ち着かない気分だった。

 一体、自分はどっちを望んでいたのだろう。無関心であって欲しかったのか。それとも、拗ねていて欲しかったのか。自分自身の心が、一番分からない。そんなはっきりしない気分でいる自分がふがいないし、また美雪に対しても申し訳ないとも思った。

(果たし状、か…)

 彼のやり方は手段はともかく、久美子に対する迷いのない気持ちだけは伝わってくる。一途というべきか、ストーカーまがいというかが微妙なところだが、そういう所は新庄に似ていると思った。そして、彼らの迷いのない様子をうらやましいとさえ思う。

 自分も、美雪に対してそれだけの気持ちで応えられたら。

 どうして、美雪の方からは告白されているのに、それに応えられないのだろう。やはり自分では美雪には釣り合わないと、内心思っているのだろうか。それが引っかかって、今一つ踏み切れないでいるのだろうか?

 それとも他に何か理由があるのだろうか。自分自身でも気付いていない、何かが。

 こうして迷っている事が、今までの自分自身を否定しているようにも感じられてイヤだった。揺るぎないと思っていた美雪への想いが揺らぐ事によって、その上に成り立ってきた今までの一年間までもがぐらついてしまうような気がしたのだ。

 一年前の文化祭で美雪に対して感じた気持ち。それからずっと感じていた、美雪への想い。新学期、クラス替えで美雪と一緒のクラスになれた事を知った時の、あの喜び。そして、体育祭の日、決心した事。それらは皆、嘘だったのだろうか。

(…早く、返事しないとな…)

 そんな気持ちばかりが募り、焦りを呼ぶ。

 亮太はまた一つ、溜め息をついていた。


 キーンコーンカーンコーン…

 この日、最後の授業の終了のチャイムが鳴る。途端に教室はザワザワとした空気に包まれ、帰宅部の生徒達が我先にとバス停に走っていく。藤ヶ谷高校は最寄り駅からはバスで十分程かかるため、大抵の生徒はバスでの通学となっている。だがこの時間、帰宅する生徒達が一斉にバス停に殺到するためバスが非常に混雑する。それを避けるために少し時間を遅らせるか、彼らのようにダッシュして先を取るかの二択になるのだ。

 そんな中、亮太はのんびりと帰り支度をしていた。亮太は家も近かったし、自転車通学だったので急ぐ必要はなかったのだ。

「たっけうっちく〜ん」

 と、何ともいえない声で亮太に近づいてきた者がいる。亮太は振り返って声の主を見上げた。

「そない露骨にイヤそうな顔せえへんでもええやろ」

 苦笑いを浮かべてそう言ったのは誰あろう、西村だ。

「下心見え見えの様子で近づいてこなけりゃ、もっと歓迎するんだけど」

 素っ気ない調子で亮太は答えた。

「せやからそこに誤解があるんや。ウチは武内ハンの味方やで。手助けしよ、思って来とるんやない」

「その気持ちだけでもう充分。後は結構ノーサンキュー」

 それだけ言うと、亮太は鞄を持って立ち上がる。

「これからいよいよ討ち入りでっか」

「あのね、言ってとくケド、俺はあんな果たし状に応じる気はないの。だから、期待しているような事はゼンッゼンありません」

 期待を込めた目で見つめる西村にピシャリとそう言うと、亮太は教室を後にした。

「ちぇー、おもろい事起こると思てたのに…」

 後に残された西村は、亮太のキッパリとした態度にこれ以上つきまとう事も出来ず、つまらなそうに唇をとがらせて呟いていた。

 一方、亮太はと言えば、別に西村に関わらせないためにああ言ったのではなく、実のところあの果たし状に付き合う―つまり、呼び出しに応じる―つもりは全くなかったのだ。

 だから、今日はそのまま帰ってしまうつもりだった。それによって久保田が勝ち誇り、久美子は自分のものだと主張するならそれはそれでいい。負け犬と呼ばれようが、何と呼ばれようが好きにさせておくつもりだった―下駄箱に行くまでは。

 亮太の計画が狂ってしまったのは、下駄箱に久美子がいたからだった。

「先輩っ!! 久美子を賭けて、あいつと決闘するんですって!?」

「…何で久美子ちゃんが知ってるの?」

 これでは逃げられない。

 いきなり胸に飛び込んできた久美子の言葉に、亮太は目の前が真っ暗になった気がした。

「だって、あいつが教えてくれたんです」

(…アホか! 何でそんな事ぺらぺら喋るんだよ。当事者に教えたらややこしいだけじゃないか!!)

 あの、久保田という男の馬鹿さ加減に亮太はいい加減腹が立ってきていた。

「先輩、勝ちますよね?」

 すがるような目で久美子が問いかける。まさか『行くつもりはない』とも言えず、亮太はがっくりとうなだれて溜め息をついていた。


 かくして、それから暫く後には亮太達三人は学校にほど近い、神社の境内にいた。

 神社と言っても別に大きな所ではなく、ごく小さな普段は無人の神社だったため他に人はいない。もちろん、他に人がいないであろう事をあらかじめ想定して行ったのではあるが。

「ここなら邪魔は入りませんから、手加減はしませんよ」

 鮮やかな赤や黄色やオレンジに色づいた木々に囲まれた敷地を見回し、久保田が宣言するように言った。

「…ホントにやるのか?」

 イヤそうな声で亮太が尋ねる。いや、『イヤそう』ではなくて本当にイヤだった。別に亮太は喧嘩が嫌いではない。好きでないのは確かだが。しかし、こんな茶番で痛い思いをするのはバカげている。とはいえ、今更『久美子ちゃんとは付き合ってません』と言ったとしても信じてくれそうにない。そもそも、誰かのせいでついてきた久美子自身が、納得しそうにない。

(…適当に殴られて負けるか…)

 久保田がそれほど腕っ節があるとも思えない。ここはなるべく身体を後ろに反らせて殴られたダメージを削り、しかもそれで戦意喪失したように見せれば…。

 亮太は、なるべく痛くありませんように、と祈りたい心境だった。

「じゃ、行きますよ」

 両者とも上着を脱ぎ、亮太はTシャツ、久保田はYシャツ姿になる。そして、戦いの火蓋が切って落とされたのだが…。

 実力差がありすぎた。

 亮太は決して喧嘩が強くはない。むしろ弱い方だと自負している。だが、久保田はそれ以上に弱く、どうしてこんな奴が果たし状などを送ってきたのか亮太としては理解しかねるほどだった。

 何しろ、軽く当ててもらうつもりいても、彼のパンチは当たらないのだ。両者手の届かない距離で、目をつぶって『えい!』『やぁ!』等と言いながら腕を大きく振っても当たらないのは道理ではあるが…。しかも、そうやっているウチに疲れるらしく、すぐに足許がふらついてくる。独り相撲をして、勝手に自滅しているようなものだ。

「バカにしないでちゃんと勝負して下さい!!」

 亮太が攻撃しないのを、バカにして攻撃してこないでよけてばかりいるのだと勘違いしているらしく、久保田は真っ赤な顔でムキになってそう叫ぶ。

(…一体それでどうしろと…)

 亮太は内心、途方に暮れていた。しかし、このままではどうにもならないのも確かだ。適当に攻撃するフリもしつつ、様子を見て殴られようと、今の調子なら絶対に当たらないコースでパンチを繰り出す。だが、亮太がそうやって細心の注意を払って繰り出したはずの拳は、間の悪い事にふらついてよろけた久保田の頬にクリーンヒットしていた。

 ガッ

「きゃっ!?」

「大丈夫か!?」

 鈍い音に、久美子の悲鳴と亮太の声が重なる。久保田はのけぞってそのまま後ろに倒れてしまった。

(まずいぞ…あの当たり方はシャレにならない…)

 手元に残る生々しい感触。とにかく、意識があるかどうか確かめなければ…。そう思って駆け寄ろうとした時、久保田がムクリと立ち上がる。

「まだ、まだ…」

 久保田は唇が切れたのか、口から血を流していた。それでもファイティングポーズ(らしきもの)をとり、亮太に向かってくる。

「まだまだって…大丈夫なのか!?」

 相変わらずのパンチをよけつつ(ほとんどについてはその必要もないのだが)、亮太は尋ねる。だが、久保田はそれには答えずにただ闇雲にパンチを繰り出すばかりだ。

(聞いてない…早めに終わらせないと…)

 今度は、亮太は相手のパンチの予想軌道上に頭を出した。多少、痛いかもしれないが、これ以上久保田を殴るよりはいい。

 だが。

 今度も、久保田のパンチは当たらず、逆に上体が泳いでしまったため、亮太の頭が久保田の鼻面にもろにヒットした。

「ぐはっ!!」

 よろめき、両方の鼻からしたたる鼻血をYシャツでぬぐい、再びファイティングポーズに。

「僕は…負けるわけにはいかないんだ…久美子さんを…」

(…何でこいつ、ここまで…?)

 正直、そこまで一途に想える純粋さが、うらやましく、そして眩しかった。

 それだけの気持ちを賭けて戦いを挑んでいるのに、自分は一体どうなのだろう。

 好きでもないのに『付き合っている』と嘘をつき、相手の気持ちを踏みにじっているのだ。そして、美雪に対しても中途半端な気持ちのまま、どう答えるかという小手先の事にばかり気持ちを向けている。それは、あれだけ真剣な気持ちで自分の気持ちを打ち明けてくれた美雪のその気持ちを踏みにじる事になってはいまいか。

 亮太を見つめる美雪の視線が脳裏をよぎる。その真剣な視線が、亮太を睨み付けている久保田の視線と重なり、胸に痛かった。

(相手が自分の真剣な気持ちぶつけてきてくれたんだったら、こっちも真剣に答えてやらないと失礼だろ?)

 不意に、この間真吾が言っていた台詞が蘇ってくる。その台詞が言わんとしている事が、今漸く、亮太にも呑み込めた。

 その瞬間だった。

 ガツン

 鈍い音とともに、亮太の目の前に星が瞬く。

「きゃっ!!」

「当たった!?」

 初めてのヒットに、久保田は自分の拳を驚いたような顔で見つめている。

「っ痛ー」

 口の中に血の味がした。亮太は血の混じった唾を吐くと、今度はこちらから攻撃を仕掛ける。

 拳を見つめていた久保田は不意をつかれた形になり、頬をまともに殴られて吹き飛んだ。

「立てよ」

 痛そうに顔をしかめる久保田の前に仁王立ちになり、亮太は言う。

「せ、先輩…」

 亮太の態度が変わった事に気づいたのだろう、久美子が心配そうな声を出した。

 本気だった。

 どんな結果になろうと、いい加減な気持ちで戦う事だけはしないようにしようと思っていた。

 それが、久保田の気持ちに答える事だと思ったから。

「い…言われなくたって!!」

 久保田も歯を食いしばって立ち上がり、ファイティングポーズをとる。

 今度は亮太から、攻撃を仕掛ける。亮太の拳はまともに久保田の頬に食い込んだ。眼鏡が飛び、そのままよろめく久保田。だが、今度は倒れずにギリギリのところで持ちこたえた。

「眼鏡、踏まないウチに久美子ちゃんに渡しとけ」

 亮太がそう言うと、久保田は一瞬戸惑うような表情を見せたがすぐに眼鏡を拾って久美子に渡す。久美子はその眼鏡を握りしめ、おびえた表情で亮太を見る。止めて欲しがっているのが亮太にも分かった。

 だがそれでも、亮太は止めなかった。

 その後はほぼ一方的に、亮太の攻撃が当たっていた。それでも、久保田の攻撃もまぐれで当たる事もあり、両者とも目を腫らし、唇から血を流し、という状態だった。

 ガツン

 何度目かの亮太の攻撃が顎に当たり、久保田はのけぞって倒れる。さすがに、これだけ殴られるともう腰が砕けているようで、足が震え、力が入らずすぐには立ち上がれないようだった。だがそれでも、久保田は必死に立ち上がろうと腕に力を込める。

「久美子さんは…渡さない…」

「もう止めて!!」

 ついに、久美子が亮太にすがりつく。

「ゴメン、先輩…でももういいよ…」

 亮太が頷くと、久美子は久保田の身体を抱き起こす。

「ゴメンね、久保田君…久保田君がそんな真剣な気持ちでいるなんて思ってなかった…ゴメンね…」

「久美子…さん…?」

 久保田は腫れ上がった目をうっすらと開けて久美子の顔を見る。久美子は泣いていた。

「ホントは、先輩は久美子の恋人なんかじゃないの。ただ、そう言えば諦めてくれるかなって思って…ゴメンね…」

「…そういう事なんだ。今まで騙していて本当に悪かった」

 亮太もそう言って頭を下げた。

「そう…だったんだ…」

「ゴメン」

「悪かった」

 久美子と亮太の声が重なる。

「…でも、良かった…このままじゃ絶対に勝てないと思ってました…」

 それを聞いて、久保田は晴れ晴れとした表情になってそう言った。


「階段から転んだ、ですって?」

 それから暫く後。三人は学校の保健室に来ていた。

「何の訳があるのか知らないけど、そんな下手な嘘で喧嘩の後始末を学校の保険医にやらせようってんだからいい根性してるわね」

 久保田の傷を手際よく処置しながら、保険医の高倉先生が言う。三人はその言葉でシュンとなってしまった。まぁそうそう騙せるとも思ってはいなかったのだが…。

「いや、あの、本当に…」

 久美子をかばってか、何か言おうとした久保田を先生が遮る。

「…ま、いろいろ事情がありそうだから詮索はしないけど、青春ドラマの真似事も程々にしなさいよ。幸い、大事には至らなかったけどね」

「痛ったーっ!!」

 先生が久保田の傷口を手荒く消毒し、背中をポンと叩いた。

「はいおしまい。それぐらい我慢しなさい。人を便利に使った罰よ。さ、次はそっちの君?」

「い、いやその…」

 消毒薬がしみるのか、悲鳴を上げている久保田を見ていると手当をしてもらおうという気にはならない。

「そう遠慮しないで。呼んだのは君たちでしょ」

 職員室にいた先生を久美子が保健室に呼び出したのだ。

「わーっ!! 先生、勘弁して〜」

「覚悟しなさい、この消毒薬はしみるわよ」

(ホントに、こいつらに関わるとロクな事がない!)

 先生に手荒な治療をされつつ、亮太はそう思う。だが、それとはまた別に、ある決意が亮太の中で芽生えていた。


 午後五時を回ったところで、女子テニス部は夏場より一時間早い終了時間を迎える。冬場は日の落ちるのが早く、ナイター設備のないテニスコートでは部活どころではなくなってしまうのだ。十一月も終わりに近いこの頃は午後五時でもテニスをやるには暗すぎ、四時半を過ぎた辺りからは走り込みなど基礎体力作りをするのが通例だ。

「ありがとうございました」

 全員での挨拶がすむと、辺りはホッとした空気に包まれる。何人かで固まりになりつつ更衣室へ向かう後輩達を見送りながら、美雪はある決意を胸に、帰り支度をしていた典子に声を掛けた。

「ね、典ちゃん、一緒に帰らない?」

「いい…けど…」

 躊躇いがちに、典子が答える。一緒に帰ると言っても、典子は徒歩、美雪はバス通学だ。一緒に帰れる距離などたかが知れている。

 それでも、少し前までは自然とそうしていた。それが、いつの頃からか別々に帰るようになってしまっている。どちらから言い出したわけでもないのだが、お互いが相手を避けていて、自然とそうなってしまっていたのだ。

 それを破り、声を掛ける。

 それが、何かの合図である事は典子にも分かっているのだろう。だから、典子は躊躇うような姿勢を見せたのだ。

 だが、それならそれでもいいと、美雪は思っていた。

 更衣室からバス停までの最短通路を避け、わざと遠回りをするようにして、二人は廊下を歩いていた。

 時間も時間だったためか辺りには誰もいない。そして、美雪がいつもと違う道順をたどっても、典子は何も言わなかった。

 やはり、何か感づいているのだ。

「…ね、典ちゃん」

 何かを待っているような典子に、おもむろに美雪はそう切り出す。

「…何?」

 俯いたまま、典子が答える。視線は正面に向いたままだった。

「…武内君の事、どう思ってる?」

 典子の動きが、ぴたりと止まった。

「どうって…ただの…ただの幼なじみよ。決まってるじゃない。どうしたのよ急に?」

 ややあって、典子は俯いたままそう答える。

「…本当に、それだけ?」

「それだけって…?」

「典ちゃん本当は、武内君の事…」

「止めてよバカバカしい」

 言いかけた美雪を、典子が強い調子で遮った。

「あたしと亮太の間は何にもないの。大体、あんなグズでいい加減で、だらしがない奴なんかこっちからお断りよ!」

 それだけ言うと、典子は俯いて顔を逸らせる。そして、

「あ、そ、そだ、用事があるの思いだしたわ。悪いけど…」

「待って」

 言いながら走り去ろうとした典子の手を、美雪が掴む。それから、美雪は言った。

「あたし…武内君の事が好き」

 典子の身体が硬くなり、典子が息を呑むのが分かる。美雪はそのまま続けた。

「それでもいいの? 典ちゃん?」

「それでもって…」

「こっちを見て。きちんと話をして」

 美雪は典子の腕を掴み、その顔をのぞき込む。

 だが、美雪の予想に反して、典子は泣いてはいなかった。

「何でもないって言ってるじゃない! 美雪まで他のみんなみたいに言わないで!」

 しっかりと美雪を見据えて強い口調でそう答える典子に、美雪は思わず手を離していた。

「ゴメン美雪、あたし先帰る」

 そう言うと、典子は走り去っていく。

「…典ちゃん…やっぱり…」

 その後ろ姿をぼんやりと見つめたまま、美雪はそう呟いていた。

 確かに、典子は泣いてはいなかった。

 だが、それ以上に悲しそうな顔をしていたのだ。その顔が、美雪の瞼にこびりつき、離れなかった。


(良かっ…た…)

 逃げるように美雪の元を離れた典子は、一人夜の街を歩いていた。

「しっかりしなきゃ…」

 自分自身を励まそうと、そう呟く。顔は涙でぐしゃぐしゃだ。幸い、他の通行人はいなかったのだが、いい年をした女子高生が泣きながら歩いていたら何事かと思われてしまう。そうは思うのだが、涙は止まらなかった。

 どうにか美雪の前で泣かないで済んだのは奇跡としか言いようがない。そこで泣けば美雪に自分の心を知られてしまう、ひいては亮太の恋の成就に影を落としてしまう、そんな事は出来ない、という、典子の意志の力の賜物だった。

 新学期の頃、ふとした事から美雪への想いを吐露してしまった亮太。そんな亮太の、照れたような、ばつの悪そうな表情が典子の脳裏に蘇る。そんな亮太を悲しませるような事を自分がしてはならないのだ。だから、自分の亮太への気持ちは、知られてはならないし、あってはならないのだ。

 固く閉じられた典子の口から、微かな嗚咽が漏れだしていた。


 保健室でしみる手当をされた後、どうにか部屋に戻った亮太は、ベットに横になって天井を見つめ、考え事をしていた。

 (…そうだよな…やっぱりきちんと返事しないと…)

 時折痛む傷口が、心の痛みに重なる。瞼に焼き付いた久保田の真剣な瞳が、痛かった。

(相手が自分の真剣な気持ちぶつけてきてくれたんだったら、こっちも真剣に答えてやらないと失礼だろ?)

 真吾の台詞が脳裏をよぎる。

 結局、久美子が本当の事を話したので作戦は失敗し、その上、亮太も久保田も無駄な怪我をしてしまったのだ。久保田は何も言わなかったが、随分心もプライドも傷ついた事だろう。それが、亮太や久美子が久保田の想いにきちんと応えなかった結果だった。相手を傷つけたくないという気持ちもあったかも知れないが、きちんと対応しないで逃げたせいで余計に傷口を広げてしまったようなものだ。

 そして、それこそが真吾の言わんとしていた事だった。

(…でもどう答えよう…)

 亮太の脳裏に、美雪の笑顔が浮かぶ。果たして、自分はその笑顔を前にして、答える事が出来るのだろうか。意識してしまってまともに会話も出来ないと言うのに?

「はぁ…」

 溜め息をついてうつぶせになった亮太の胸に、何かが当たる。いや、着たままになっていた学ランの胸ポケットに何かが入っているのだ。胸ポケットから出てきたそれは、例の白猫のキーホルダーだった。

 学祭の日、教室の入り口で拾ったまますっかり忘れていたのだ。

(…典子…)

 そのキーホルダーはまだ二人が小学生の頃、もう一つの黒猫のキーホルダーと共に亮太が典子の誕生日プレゼントとしてあげた物だった。別に宝石や貴金属で出来ているわけでもなく、ただのプラスチック製のキーホルダーだ。正直言って典子が今まで使っているとは思っていなかった。

(…あいつも、物持ちがいいというか…)

 さすがに、壊れたまま返すのも気が引ける。亮太は自分の机を漁り、他のキーホルダーからホルダー部分を外して付け替えた。

 そう言えば、典子と真吾は結局、どうなのだろう。

 亮太はふと思う。学祭の前に真吾には聞いているが、典子には聞こうとして結局、聞けなかったのだ。

 付き合っているのだろうか? それとも、真吾の言っていたように、本当に何でもないのだろうか。

 冷静になって考えてみれば、真吾がそこまでして嘘をつく必要はないはずだ。大体、真吾の性格から考えてもそういう事を隠しはしないだろう。だが、それだったらどうして抱き合ったりしていたのだろう…? いくら中学時代からの友達だからと言って、男女の間でそこまでするものなのだろうか。少なくとも、亮太はそういう経験はないのだが…。

 しかし、真吾の性格や女性に対する経験から考えればそのくらいはやるかもしれない。例えば、何か悩み事を打ち明けられ、慰めるためなら真吾は例え初対面の女性に対してだって躊躇わずやるだろう。ただ、それを典子のような身近な相手にもやるかどうかは分からないが。

 一番いいのは、典子にも確かめる事だ。

(これ渡す時にでも確かめてみるか…?)

 亮太はキーホルダーの白猫を、指先でチョンと突いた。


 しかし。

 それから数日間、亮太は美雪に返事をするため、まず話しかけてどこかで会う約束を取り付けようとしていたのだが、時には柳井がそばにいて、またある時には話しかけようと側に行くまでは良かったが呂律が回らなくなり、結局逃げ出したり、またある時は途中で邪魔が入り、と、ことごとく玉砕していた。

(…ダメだ…)

 放課後の昇降口で一人しゃがみ込み、亮太は今日築き上げた失敗の山を数えていた。

 あそこで一回、ここで一回…と、数え上げる度に気分が落ち込んでいく。果たして、こんな事できちんと返事が出来るのだろうか…。もう十一月も半ば過ぎ、木々が色づき、そろそろ期末テストの準備がどうこうと言われている時期だ。うかうかしていると期末テスト→試験休み→終業式→冬休みのコンボがやってきてしまう。美雪としても、亮太のただならぬ様子に何をしようとしているのかは感づいてはいるようで、一応待ってくれているらしい。だから、余計に早く答えたいのだが…。

「ち、ちょっと、どうかしたの!? 亮太!?」

 と、その時、不意に両肩を掴まれて現実に引き戻される。顔を上げると、目の前には典子の心配そうな顔があった。

「典子…」

「大丈夫!?」

 典子は亮太が具合が悪くてしゃがみ込んでいる様に見えたらしい。心配して、今にも泣きそうな顔だ。

「い、いや、別に」

 何となく気まずくて、亮太はぶっきらぼうにそう言って立ち上がる。その時、ふと例のキーホルダーの事を思い出した。

「そ、そうだ、これ」

 亮太はそう言いながらキーホルダーを取り出し、典子に手渡す。

「!! 良かった…なくしたと思ってた…」

 キーホルダーを受け取った典子は一瞬驚いたようだったが、すぐにそれを大事そうに両手で抱きしめる。

(そうだ…)

「な、典子」

 亮太は唇を舐めて、そう切り出した。

「何?」

 典子がキョトンとした顔で見つめる。亮太はその視線に耐えられなくなり、視線を逸らせる。

「その…お前と真吾って、付き合ってる…?」

 やっと、絞り出すように言う亮太。暫し、沈黙が流れた。

「はぁ!? どうしてあたしが真吾と!?」

 ややあって返ってきたのは、素っ頓狂な声の返事だった。

「いや、その…俺、見たんだ…この前の夏祭りの日、お前と真吾が抱き合ってるの…」

「!! あ、あれは…」

 今度は典子が視線を逸らせる。それを見て、亮太の胸がズキリと痛む。

(…やっぱり、隠してたのか…? そうなのか…?)

 やはり、亮太は除け者なのだろうか。二人にとって亮太は信頼できる親友ではなく、お邪魔虫なのだろうか?

「べ、別に俺はその事でどうこう言うつもりはないんだ。ただ、もしそうなら隠さなくてもいいよ。俺、別にからかう気もないし、みんなに言いふらしたりするつもりもないし」

 典子はただ黙って俯いている。それが、さらに亮太を雄弁にさせた。

「別にそんなに警戒しなくたってさ、俺だって小学生の子供じゃないし。もちろん、おばさんにだって言わないし。それとも、俺がもてないからって遠慮…」

「そんな訳ないじゃない!!」

 不意に、亮太の台詞を遮るように典子が叫ぶ。その剣幕に圧倒され、亮太は典子を見た。

 典子は、くしゃくしゃな顔をして泣いていた。

「典…」

「…んな…そんな訳ないじゃない!! どうして亮太ってば…」

「じ、しゃあどうして…」

 泣きじゃくる典子を扱いかね、亮太はしどろもどろに尋ねる。

「亮太には分かんない!! それに、亮太には美雪がいるじゃない!!」

「!?」

 一瞬、典子が何を言わんとしているのかが分からなかった亮太だが、すぐにそれを理解した。そして、掃除を一通りした後だったのにもかかわらず、どうしてあの場所にキーホルダーが落ちていたのかも分かった。

「…お前…見てたのか!?」

 驚いた表情の亮太にそう言われて初めて、典子は自分が二人の様子を覗き見してしまっていた事を話してしまった事に気付いたようで、一瞬、愕然とした表情になり、すぐに顔が真っ赤になった。

「亮太のバカ!!」

 一瞬の沈黙の後、典子はそう叫ぶと踵を返して走り出す。亮太は思わずその後を追っていた。

「待てよ、典子!!」

 だが、典子は泣き顔のまま校門の方へと走っていく。

「待てったら!!」

 その後を追って、亮太も走る。そうして、二人は校門を出てさらに夕闇迫る街へと…。

 しかし、それは長くは続かなかった。典子がとある十字路にさしかかったところで、不意に脇から車が走ってきたのだ。

「!?」

 思わず立ち止まり、すくんでしまう典子。

「典子!!」

 このままでは、典子は確実に轢かれてしまう。

 亮太は、躊躇わずに典子に精一杯の体当たりをかけて典子をはじき飛ばす。耳をつんざくような音を立てて車が亮太に近づいてくるのが、まるでスローモーションのようだと亮太は思った。


「亮太!! 亮太ぁ!!」

 典子は道端にボロ布のように転がった亮太に駆け寄り抱き起こす。亮太の顔は血塗れで、意識が朦朧としているようだった。

「…怪我…は…?」

 それでも、亮太は典子を心配してか、何かを求めるように手を差し出す。典子はその手をしっかりと握り、呼びかける。差し出された手には力がなく、そうしていないと今にも意識が途切れてしまいそうだったのだ。そして、意識が途切れてしまったら、亮太はもう帰ってこないような気さえしていた。だから典子は必死で呼びかける。涙がポタリポタリと亮太の顔に落ち、幾筋もの流れを作っていた。

「あたしは平気だから!! 亮太! しっかりして、亮太ぁ!!」

「良かっ…た…」

 だが、必死の呼びかけにも関わらず、亮太は安堵したようにフッと微笑むと、そのまま、糸の切れた操り人形のようにがっくりと頭を垂らす。

「亮太!! 亮太ぁ!!!」

 亮太の頭を抱き起こし、必死で呼びかける典子の耳に、遠くで鳴っているサイレンの音が届き始める。だか、典子にはそれは聞こえていなかった。

 

 救急車で病院へと搬送された亮太は、そのまま救命救急で処置を受けた。幸い、怪我は額の骨に少しヒビが入っている他は擦り傷程度だったのだが、頭を強く打った事によるショック状態らしく、意識が戻らない。CTやレントゲンなどの検査をしても異常はなく、医者の話では『このまま明日にでも意識が戻るかも知れないし、ずっと戻らないかも知れない』という事だった。

「典子、あなた本当にもう大丈夫なの?」

 青ざめた様子の典子を見つめて、典子の母親が尋ねる。まだ一人残して良いかどうか、判断が付きかねていた。

 亮太の両親には既に連絡が行っていたが、転勤先から戻ってくるのは明日の朝になるという事だったので今日は典子と典子の母親が看病していた。その母親も、一端帰る事にしたのだが、その際、典子が自分は残ると言い出したのだ。

 救急車が到着した際、救急隊員から典子の母親に連絡が来たのだが、慌てて現場に駆けつけてみると典子は半狂乱になっていた。そのため典子自身も病院で鎮静剤を打ってもらった程なのだ。

「うん。ホントにもう大丈夫。お願い、亮太の側にいさせて」

 薬のせいか、典子は青ざめてはいたものの大分落ち着いて見えた。

「…分かったわ。どうせ家にいたって気が気じゃないだろうしね、亮太君が目を覚ますまで、ここにいておやり」

「…ありがとう」

「でもその前に、顔ぐらい洗っておいで。そんなひどい顔、亮太君が見たらびっくりするよ」

「…うん。そだね」

 典子の顔に、漸く笑顔が戻ってくる。典子の母親は、それを見てようやく一安心していた。これなら大丈夫そうだ。

「さ、そうと決まればさっさと顔を洗いに行った行った」

 典子を威勢良く部屋から追い出すと、亮太の寝顔を見て呟く。

「こんな事言っちゃアレだけど…典子のためにも頑張ってよ、亮太君」

 亮太の寝顔は、ちょっと見るとただ眠っているようにも見えた。

 もし万が一、亮太がどうにかなってしまったら、典子もダメになってしまうだろう。だからそれは、典子の親としての偽らざる本心だったし、小さな頃から知っている亮太は、自分の息子のように思えたのだ。


 母親が帰った後、典子はずっと亮太の手を握り、祈っていた。

(神様お願い…亮太を助けて…)

 元はと言えば、自分のせいでこんな事になってしまったのだ。亮太の両親や美雪、そして亮太自身に、一体どんな顔をして顔を合わせればいいのだろう。

 亮太は、許してくれるだろうか。

 ただの友達でいい。嫌われていなければ。

 今は安らかな寝息を立てている亮太の寝顔がぐにゃりとゆがむ。

(ゴメン…亮太…ゴメンね…)

 涙が頬を伝ってこぼれ落ち、床に当たって弾ける。

 いつも、『亮太ってばあたしがいないと全然ダメなんだから』等と言って世話女房を(内心では)気取っていたが、幼稚園の頃といい、今回といい、実は自分の存在はいつも亮太に迷惑をかけているのではないだろうか。

 しかも、今回は一つ間違えば死んでしまうところだったのだ。とても、許して等と言える立場ではない。

 それでも、亮太の側にいたかった。

 嫌われたくなかった。

 それに、もしこのまま亮太の意識が戻らなかったら、自分は…。

(お願い…神様…)

 思わず、手に力が入っていた。

「…う…」

 亮太が、微かにうめく。

「!? 亮太!! 聞こえる!?」

 だがそれっきり、亮太からの反応はない。典子は再び、祈りを込めて亮太の手を握っていた。


 トントン

 それから暫くして、ドアが控えめにノックされる。

「はい」

 看護婦が巡回に来たのだろうと涙ぐんだ声でそう返すと、ドアから顔を出したのはなんと真吾だった。

「し、真吾!?」

 もう面会時間はとっくに終わっているはずだ。一体どうやって? だが、その事を尋ねても真吾は曖昧に微笑んで肩をすくめただけだった。

「で、どうなんだ?」

 ベットで寝ている亮太の方に顎をしゃくり、真吾が尋ねる。

「まだ意識が…戻らないの…」

 典子は視線を逸らし、そう呟く。それから、堪えきれなくなったように真吾に取りすがった。

「どうしよう、このまま、このまま亮太が…そんな事になったら、あたし、美雪や亮太の両親に一体どう謝ればいいの!? ううん、謝って済む問題じゃない。あたし、一体どうすれば…」

 それは、今まで無理矢理押さえつけていた不安が一気に吹き出したものだった。

「落ち着けよ、典子」

 ポロポロ涙をこぼしつつ、早口でまくし立てる典子を抱きしめ、その耳元で囁く。

「お前がここで取り乱してどうするんだ? 大丈夫、こいつは簡単に死にやしない。だから、お前がこいつを信じてしっかり待っててやるんだ。そうすれば必ずこいつは戻ってくる」

 真吾は諭すように、一言一言に力を込めて囁く。典子に、信じられるものを、安心を与えてやりたかった。

 例えそれが、かりそめのものだったとしても。

 暫く後、亮太の手を握ったままうとうとし始めた典子の背に毛布を掛けると、真吾はそっと病室を出る。

 久し振りに嗅いだ、病院の臭い。その臭いと共に蘇ってくる苦い記憶から逃れようとするかのように、真吾は早足で歩き出した。

 真吾は知っている。信じても、祈っても、どうにもならない事があるという事を。そして、かりそめの希望が打ち破られた時の絶望の深さを。

 だがそれでも、ああ言わずにはいられなかった。いや、誰より真吾自身がそう信じたかったのだ。あの時から、全ての希望を失ってしまった自分の心に、もう一度、信じられるものが欲しかった。病室にいる典子を見た時、これだけの想いなら、あるいは…。と感じた。典子には、そう思わせる何かがあったのだ。 真吾は、それに賭けたのだった。

(なぁ、頼むよ…あいつは典子にとって必要なんだ。もしそっちに行きそうなら、戻してやってくれ…)

 真吾は知らず知らずのうちに、首に掛けたロケットを握りしめていた。


 そして、翌日。

 亮太は、まだ眠ったままだった。朝一で駆けつけた亮太の両親が来た時、典子は泣きながら謝り、それでも亮太の側にいさせて欲しいと懇願した。

 午後になり、典子の母親がいい加減少し休むようにと言った時も、頑として応じなかった。学校で事故を知った美雪が着いたのは、ちょうどそんな時だった。

「イヤ。絶対イヤ。あたし、亮太が起きるまで絶対ここを離れない!」

 ドアの向こうから聞こえてきた典子の声に、ノックしようとしていた美雪の手が止まる。

「そんな事言ってたら今度はお前が倒れるじゃないか。そうなったら余計に迷惑かけるんだよ!?」

「イヤ!! この手を離したら、亮太が…」

「馬鹿な事を言うのはおよし。亮太君は大丈夫だから、お前も少し休むんだよ」

「あたしは大丈夫だから!! お願いだからここにいさせて!!」

 最後の方は、ほとんど絶叫だ。その剣幕に、美雪の胸がズキリと痛んだ。

(…典ちゃん…)

 亮太への想いなら、同じくらいある。そう、自負していた。いや、今だってそう自負している。だが、このドアの向こうの空間には、美雪の入り込むだけの隙間はなかった。その代わり、もし今美雪がこの扉の向こうに入れば、典子の中で張りつめていた何かが粉々に砕け散るのだ。

 それは、典子が再起不能になる事を意味している。

『開けるんだ。一体、ここに何しに来たんだ? 亮太の見舞いに来たんじゃないか。開けて、見舞いをして…。それだけでいい…』

 美雪の心の中で、何かがそう囁いている。

 妬いているのだ。

『武内は、加藤が轢かれそうになったのを庇って、代わりに轢かれたんだって』

 学校で聞いた噂。それが、嫉妬の原因だった。

 そんな自分を、つくづくイヤな女だと思う。それでも―。

 もし万が一、亮太がこのまま…。

 そうなったら、自分は典子を許せるだろうか。美雪にはその自信がなかった。

『さぁ、開けろ。開けるんだ』

 ドアノブにかけていた手に、力がこもる。そしてそのまま、音がしないようにゆっくりとノブを戻すと、美雪はそっとその場を立ち去る。

『何故だ!? 憎くないのか!? 羨ましくはないのか!?』

 心の中で荒れ狂っている声を無視して、美雪は病院を後にする。かみしめた唇には、うっすらと血がにじんでいた。


 頭の中に、靄がかかっているようだった。

 意識をハッキリさせようとしても、一向に集中できない。意識が一つに定まらないのだ。そして、身体が浮き上がっているような、そんな感覚。目を開けようと思っても、身体を動かそうと思っても、身体が動かないのだ。そしてそのうち、眠気がやってきて…。

 そんな時間がどのくらい続いたのだろう。

 やがて亮太は、誰かに呼ばれているような気がして辺りを見回した。いや、見回そうとした。

(…誰だ? 典子?)

 …違う。典子じゃない。だが、亮太はその声に、確かに聞き覚えがあった。

 透き通った、微かなソプラノ。

(君は…確か…)

 その時、ストンと落ちるような感覚がして、身体が痛み出した。最初は微かだった痛みが、次第に強くなっていき、ついに全身がズキズキと脈打つように痛んで目が覚めた。目を開けると、殺風景な天井が見える。見慣れた、マンションの天井とは違うもっと事務的な感じのする天井で、強いて言えば学校などの天井に似ていた。

(…ここは、一体…? そもそも、どうしてこんなに身体中が痛いんだ…?)

 何かの打ち上げで、酒でも飲み過ぎたのだろうか。しかし、それでは身体中が痛いのも変だ。それでは何故…?

「うひゃ…」

 頭を掻こうとした亮太は、自分の手が典子に握られているのに気付いた。典子は制服姿のまま、亮太の寝ているベットに突っ伏して、亮太の手を握って眠っているのだ。

(…何やってるんだ…典子の奴…大体、ここは一体…)

 辺りを見回すと、どうやら病院のようだ。

(えーと…俺…何かやったっけ…)

 痛みのためか、次第に意識がハッキリとしてくる。そして、徐々に記憶が蘇ってきた。

(そうか…俺…昨日車に…)

 轢かれた時の事は今一つハッキリとしないのではあるが、典子が轢かれそうになり、それを突き飛ばした事までは覚えていた。

(典子は…無事か!?)

 今の所、ベットに突っ伏して寝ている典子に手当の跡などは見つからない。まぁ、無事でなかったら今頃ベットの中にいるだろう。亮太はちょっと安心して、溜め息をつく。と、布団から出ている肩が寒い事に気付いた。時計を見ると、午前五時を少し過ぎたところで、一番冷え込む時間だ。

 このままでは典子が風邪をひいてしまう。亮太は何か掛けられそうなものを探すが、やっと見つかったのは床に落ちている毛布だけだった。多分、典子が使っていた物が落ちてしまったのだろう。しかも、典子に手を握られている状態では典子を起こさずにそれを取るのは不可能だ。

 それにしても、典子はいつからこうして亮太の手を握っていたのだろう。きっと、一晩中亮太の無事を祈り続け、疲れ果てて寝てしまったに違いないのだ。

「無理しやがって…」

 亮太がそう囁くのと、典子が小さくクシャミをするのとが同時だった。

「り、亮太!?」

 典子はそのクシャミで目を覚ましたらしく、亮太が自分を見ているので驚いたのだろう。

「風邪ひいたんじゃないのか? 毛布かけろよ」

 そう言って床に落ちた毛布を示す亮太だが、典子は聞いてはいなかった。

「よかった…」

 そう呟く典子の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。

「お、おいちょっと…」

 それは、亮太を慌てさせるのには十分だった。そして、嬉しがらせるのにもまた、十分だった。


 その後暫くして、意識が戻ったという連絡を受けてやってきた亮太の両親に話を聞いた亮太は、自分が二日間生死の境をさまよっていた事を知った。そして、典子がその間ずっと側に付いていた事も。

 その気持ちに答えるかのように、意識が戻ってからの亮太の回復はめざましく、午後になって真吾達が見舞いに来た頃には自分で歩けるようにさえなっていた。その回復力の早さにはさすがに医者も驚いたようで、担当の医者が廊下を歩いている亮太を見つけて「あっこんな所に!?」

 と驚いたものだ。

「ったく、暫く生死の境をさまよったなんて嘘だろ? 普通ならそんなにピンピンしてないぜ」

 上半身を起こして漫画雑誌を読んでいる亮太を見て、真吾は開口一番そう言った。だが、その手は知らず知らずのうちにTシャツの上からロケットを握っていた。

「言ってくれるよ。俺様の驚異の回復力に驚け」

 亮太も軽口で答える。見舞いに来てくれたのは、真吾の他には安藤、坂本女史、西村、そして美雪で、皆一様に亮太の元気そうな様子に安堵しているようだ。

「あ、花、活けてくるね」

 坂本女史が持っていた花束を受け取ると、典子はそそくさと部屋を出て行く。典子は今日も一日、付き添っていたのだ。始め、亮太も亮太の両親もそんなに大した事はないので少し休むよう勧めたのだが、典子は『自分の気が済まない』と頑として聞かなかったのだ。

「個室なんてずいぶん豪勢やない? さては、相手からうんとふんだくるつもりやな?」

 西村が意味ありげに笑いながら言う。

「ここしか空いてなかったんだってさ。それに、どうせすぐに退院だよ。もう何処も痛くないし」

 本当はまだ身体のあちこちが痛んでいたが、亮太はなるべく何でもない風を装ってそう答える。出来るなら怪我の具合などについての話題は典子の前では避けたい。今は典子はいないが、その話題をしていればいずれ帰ってきてしまうだろう。その時、ただでさえ自責の念にかられている典子がますます自分を責めるんじゃないかと心配だった。だが、その亮太の気持ちをくんでか、真吾が別の話題を始め、そのまま、怪我についての話題には戻らないままで済んだ。

 その後、安藤、坂本女史、西村が先に帰り、残っていた真吾と美雪も帰る事になった。

「じゃ。いつまでもさぼるなよ。この上出席点までなくなったら、後輩になっちゃうぜ」

「お前に言われたくないよ」

 お互いに憎まれ口を叩きつつも、亮太は起きあがってスリッパを履く。もう、二人の間にわだかまりはなかった。

「見送りなんかいらないぞ」

「そうよ、武内君、寝てなゃ」

 二人が制止しようとするが、亮太は

「トイレにも行きたくて。それに、もう大丈夫だってば。医者に驚かれたくらいだしね」

 亮太はそう答えて笑ってみせた。


 後片付けをすると言う事で病室に残った典子を除く三人は、病室のある階のエレベーターの前までゆっくりと歩いてきていた。

 途中、真吾が自分の時計を見て素っ頓狂な声を上げる。

「やべ! もうこんな時間か!?」

「何だよ」

「悪い、亮太、綾瀬。俺、これから約束があるから先に帰るわ」

 そう言うと、真吾は亮太にだけ分かるようにウインクしてさっさと行ってしまう。それが何を意味しているか、亮太にも分かっていた。

 気を利かせたのだ。

 亮太が、どうして無理に見送りに出てきたのかを分かって。

 さすがにそういう所は、すごいと思う。はじめ、亮太はどうやって美雪と二人になろうか悩んでいたのだ。

「…えーと、い、行こうか」

「ええ…」

 途端に空気が重苦しくなり、二人は無言でエレベーターホールまで歩いていく。どちらも、会話の糸口が見つからなくて困っている様だった。

「武内君、もうここでいいから」

 エレベーターがやってきて、乗り込もうとする美雪が、一緒に乗り込もうとする亮太を制止する。

「…ちょっといいかな」

 亮太は思い切ってそう声を掛ける。今まで、ずっとどう話そうか、迷っていたのだ。

「何?」

 そう答える美雪の姿が、少し緊張しているのが分かる。おそらく、美雪も亮太が何を言おうとしているのかが分かったのだろう。

「…うん…ここじゃちょっと…」

 そう言って、亮太は美雪を招き寄せる。

 二人が行った先は、屋上だった。

 さすがにこの時期の屋上は寒く、他に人はいないようだ。ちょうど、美雪が亮太に告白した時のように、オレンジ色をした夕日が辺りを染めていた。暫く、どう切り出したものかと黙っていたので二人とも無言だった。

「…この前の返事、だよね」

 ややあって、柵に身をもたせかけ、眼下に広がる街の様子を見つめながら美雪が呟く。

 亮太は黙って頷く。と、美雪が亮太の方に向き直った。

「…あの…」

 まっすぐに自分を見つめている、美雪の瞳。その視線が辛くて一瞬目を逸らせた亮太だったが、すぐに思い直してその視線を真っ正面から受け止めた。

「綾瀬さん…その…」

 美雪の身体に緊張が走るのが感じられる。

 注目されていて、どんな言葉でも、とにかく言葉を言うのが怖かった。

 だが、黙っているわけにはいかない。それではせっかく気を利かせて先に帰った真吾の厚意も、そして美雪自身の想いにも、応えない事になってしまう。

 少しでも緊張をほぐそうと、亮太は深呼吸する。それから、おもむろに口を開いた。

「…ゴメン」

 最初に口をついて出たのは、たったそれだけだった。頭が真っ白になり、何を言って良いのか、何を言おうとしていたのか分からなくなる。だがこれでは不十分だ。亮太はもう一度深呼吸すると、その後に続けようと思っていた言葉を口にした。

「…俺、綾瀬さんの気持ちには応えられない…」

 それだけ言ってしまうと、亮太は俯いた。胸が締め付けられるように痛い。だが、それが亮太が答えようと心に決めた、答えだった。それが、嘘偽りのない、正直な亮太の気持ちだった。

 不意に吹いてきた向かい風が、美雪の長い髪をなびかせる。

 逆光と、髪の陰に隠れて美雪の表情を窺い知る事は出来なかった。もっとも、亮太には美雪の顔をまともに見る勇気はなかったのだが。

 暫くそのまま、風の音だけが二人の耳に響いていた。

「…ありがとう」

 ややあって、静かな口調で美雪がそう、口にする。少し驚いて亮太が顔を上げると、美雪は亮太をまっすぐに見つめて、微笑んでいた。オレンジ色の夕日を後光のように浴びて、目に涙をためて微笑んでいる美雪は、綺麗を超えて壮絶ですらある。

「いや…俺…」

 美雪の意外な答えに、何と言っていいのか分からなかった。てっきり、泣かれたりするものだと思っていたのだ。だが、目に涙をためてはいたが、美雪は微笑んでさえいたのだ。それは、亮太の理解の範疇を超えていた。

「…ありがとう、きちんと答えてくれて。あたし、武内君のその気持ちだけで嬉しい」

 美雪はそこで一端言葉に詰まり、俯いたがまた続けた。

「それにね、多分、こうなるんじゃないかって思ってたの。…だから、明日から、また…」

 再び、美雪の声が詰まる。その声を聞く度、亮太の胸が締め付けられた。

「…また、友達でいてね」

 ややあって、美雪はそう絞り出す様に言うと、ぺこりとお辞儀をしてその場を後にする。

「典ちゃんの事、大切にしてあげてね」

 その後ろ姿を見送っていた亮太の耳に、微かに、美雪の声でそんな言葉が聞こえた気がした。

 空耳だったのだろうか。

 少し考えてみたが、やがて亮太は首を振る。

 それは、美雪にしか分からない事だ。考えてみても始まらない。

 だが、美雪ならそう言うだろうと思っていた。

「…ありがとう」

 好きになってくれた事に。亮太の気持ちを受け止め、応えてくれた事に。そして、この一年の間、憧れであってくれた事に。その後ろ姿に向かって、亮太は万感の思いをこめて、そう呟いていた。


 暫く後、病室に戻った亮太だったが、そこには求めていた典子の姿はなかった。さらに、毛布がきちんと畳んで椅子に置かれている。

(典子!!)

 亮太は病室に掛けてあった所々ほつれた学ランを羽織り、病室を飛び出す。

 どこへ、というあてがあるわけではない。だが、タクシーに飛び乗った亮太は、自然と自分のマンションの場所を運転手に告げていた。どうして、と言われても、答えられなかっただろう。ただ、典子が行くとしたらそこではないかと思ったのだ。

 そして、典子はそこにいた。

 亮太の部屋のあるマンションのエントランス。気の早い誰かの飾り付けたクリスマスツリーのイルミネーションが、その顔をチカチカと不規則に照らしている。

 典子はいくつも並んだ郵便受けの一つに手を伸ばし、何かを入れようとしている。

「典子!」

 不意に呼ばれた典子は、パジャマ姿に学ランを羽織った亮太が飛び込んで来たのに驚いた様子だった。

「ち、ちょっと亮太、こんな所で一体何を…」

 その手には、例の黒猫のキーホルダーのついた合い鍵が握られている。亮太は典子の問いかけには答えずに、つかつかと歩み寄ると手を差し出した。それを見て、典子は黙って鍵を亮太の手に置こうとする。

 その手を、亮太が包み込むように握った。

「!!」

 典子が驚いて亮太の顔を見る。亮太は、その典子の目をまっすぐに見返して言った。

「良かったら、それ、ずっと持っていて欲しいんだ」

 驚いた様子で何か言いかける典子だったが、すぐには言葉にならない。ややあって、掠れたような声で尋ねる。

「で、でも、亮太には美雪が…」

「…見てたんだね」

 その問いかけに、典子は恥ずかしそうに俯いて頷く。

 その仕草が、愛おしかった。

「綾瀬さんは、断ったよ」

 亮太はキッパリと、そう告げる。その言葉は余程意外だったのだろう。典子は驚いた様子で亮太を見つめ、暫く口をぱくぱくさせてから漸く声を絞り出す。

「ど…どうして!?」

 どうしてだろう。憧れていたはずなのに?

 それは、亮太自身も何度となく繰り返した問いかけだった。だが、結局の所それには答えが見いだせなかった。ただ、他の答えなら見つかっていた。だから、亮太はそれを答えた。

「…どうしてかな…自分でもよく分からない。ただ、これだけは言える。俺は、他の誰でもない、典子に側にいて欲しいんだ」

 亮太はそう言うと、典子の目をしっかりと見つめる。そこには、いつもの優柔不断さなどみじんも感じられない、意志の光が宿っていた。

「…そんな…そんなのって…」

 典子は驚きと戸惑いでどう答えていいか分からないようだった。

「…や、やっぱり調子良過ぎかな…」

 そんな典子の様子に、今更ながらに気恥ずかしさがこみ上げてきて、亮太はしどろもどろになる。そして、頭を掻こうとして、不意によろけた。

「亮太!?」

 典子が慌てて身体を支える。だが、当然と言えば当然だが、体重差がそれなりにある亮太を支えられるはずもなく、二人はそのままずるずると崩れるようにしゃがみ込んだ。

「だ、大丈夫!? 亮太!?」

 典子はそれでもすぐに身体を起こし、心配そうに亮太の顔をのぞき込む。

「…」

 目をつぶったままの亮太からの返事はない。

「亮太!! しっかりして!!!」

 だが、亮太はかくんと頭を垂らしたまま、動かない。

「亮太!! 亮太ぁ!!!」

「…腹、減っちゃった」

 パッチリと目を開いた亮太は、苦笑しながらそう言った。

「もう、亮太のバカ! ホントに、ホントに心配したんだからね!!」

 そう叫ぶ典子の声がだんだんと泣き声に変わり、涙が床にシミを作っていく。

「ご、ゴメン。そんなに心配するなんて思わなかったから…」

 謝る亮太の胸に顔を埋めて、典子は言った。

「いくらだって作ってあげるわよ。あたしの料理で良ければ」

「…典子の料理だから、食べたいんだよ」

 そう言いながら、亮太は典子を優しく抱きしめる。

 そんな二人を、クリスマスツリーのイルミネーションが祝福するかの様に照らしていた。


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