進撃するG
…さむいなぁ。
真冬の丑三つ時。
ふと目が覚めてしまった俺は、尿意を感じてトイレに行った。
「ったく…、これだからオンボロ日本家屋は…」
ふとんを抜け出してから、廊下を歩いてトイレに向かい、用を足し終えたいまこの時まで。
もうひたすらに、寒い。冷える。
手足の先が特に酷い。
冷たい電気を帯びたような、そんな感じ。
感覚が麻痺しているのだ。冷たくて。
…なんか温かいものでも飲むか。
部屋に戻る途中、出し抜けに。
俺はそう思い立って、くるりと体を回す。
尿意から解放されたばっかの奴の考えることじゃないかもだけど、まあ、気分だ。寒いし。
「ココアがいいな」
独りごちながら、俺は上りはじめていた階段を下りる。
数歩で一階へと逆戻りして、左右に短く伸びた廊下を、左に。
引き戸は完全に閉められているけど、心なしか冷蔵庫の作動音がきこえてくる。
――わが家の台所。
…こんな時間に台所に入るなんてめったにないよなぁ。
なんてぼんやり思いながら、きいぃいいい…、と。
俺が通れるだけの道をつくって、真っ暗い台所のなかへと進んだ。
「…ん、あれ。どこだ?」
目になにも映らない闇のなか。
照明のスイッチをフィーリングで押そうと、奮闘する。
そうして、
「…お」
ようやく、それらしい感触をみつけて声を漏らし――ポチ。
転瞬。
昼間の明るさを取り戻すだいdころ。
俺はそれにすこし目を細めて、
――そんな狭まった視界のド真んなかにトンデモナイもんが映って一瞬、フリーズした。
そいつは。
その黒いやつは。
ぶうぅうう…ん、と。
わが家の台所において、我が物顔といった風に。
まるで家族の一員ですとでもいいたげに堂々と、飛行していた。
――Gとの遭遇だった。
「いぅっ…?!」
思わずのけぞる。
えらいもんで、Gに対して人は並々ならぬ恐怖を持っているのか、俺はそいつがGと認識するより先に一歩、後ずさっていた。
なんせ飛んでいるのだ。
いまだに蝶のように、舞うような緩い速度で飛び回っているそいつは確かにGだったけど…(舞とはいってもキモイ舞だが)
俺は今まで、こう、床をカサカサするタイプしか見たことがなかった。
というか無知な俺は、ゴキが飛べるなんて思っちゃいなかったのだ。
よって、
「~~っ!! きっっも…!!」
思いっきり顔をしかめて、そう吐き捨てた。
ショックだった。
あまりにも、衝撃的な光景だったから。
そして。
そんな、罵声を浴びせた俺に対して。
不本意ながらも同じく、きっと。
驚いていただろうGの方はといえば、
トチ狂ったのだろうか、急に俺めがけて突っ込んできやがった。
距離にして、2メートルもなかったと思う。
見事な奇襲だった。
「うっお…?!」
元からあんまり距離が開いてなくて。
近いといえば近い位置に奴はいたわけだ。
…まあだからこそ、余計に体がぞわっとして唾棄してやりたいような気分になったんだが。
ひとまず、それは置いといて。
Gによる、見事にきもい不意打ちによって俺は大いに慌ててしまい――
なんでだろうか、気づいたら俺は左手を奴の進路上へと伸ばしてしまっていた。
たぶん伝染したんだと思う。
最初に奴がトチ狂ったから、それがきも過ぎて俺までトチ狂ってしまったんだ。そうに違いない。
とはいえ、こんな動きをすれば、次になにが起こるかなんて自明だったはずなのに…
それでも俺は、実際こうして、キャッチボールでグラブを開いて待つようなポーズを作ってしまっているのだから、もうどうしようもない。
もう遅い。
…というか、遅かった。
奴はすでに俺の目には映っておらず。
代わりに俺の左手のひらに、びゃっとなにかのぶつかる感触。というかゴキの感触。
目まぐるしい、とはこのことだろうか。
俺にはなにが起きたのか理解できていない。
頭が追い付いていないのだ…
そうして、混乱する頭に代わって左手がとった行動は、あまりにあんまりなものだった。
なんだろう、「逃がすまい」とでも考えたのだろうか。
この、ろくでもない俺の左手は。
あっ--と思ったときにはもう、グラブをしっかりと閉じてしまっていた。
…しん、と。
ほんの一瞬、台所に静寂が満ちた。
俺の目は左手にくぎ付けで。
その左手はといえば、凍り付いたみたいに固まっている。
いまばかりは冷蔵庫だって、息をのんで動きをみせない。
本当に、世界が止まったみたいだったのだ。
だけどやっぱり一瞬のこと。
俺も冷静になれば速攻で奴を投げ捨てただろうけど。
それよりもまず、この、俺に拘束されたGの方が黙っているわけがなかったのだから。
――…ぞ。
もぞもぞもぞっ!
といった風に急激に。
俺の手のなかでGが暴走を始めた。
もう半ば働くことを忘れた俺の頭に、そのGの感触が、電気信号になって直撃した次の瞬間。
俺は泡を吹いて膝から崩れ落ちてしまった。
――人がGに敗北を喫した、歴史的迷勝負だった…