宵に溺れる
お題箱サービスの創作お題、「バニラアイス」より即興の超短編です。
文中で出てくるアフォガートとは、アイスクリームなどに飲み物をかけるデザートのことを指し、日本ではエスプレッソをジェラートにかけたものが主になっているようです。飲み物にアイスクリームを浮かべるフロートとは逆で、アイスクリームやジェラートの方が主役となっています。
その名前の語源はaffogato、「溺れる」という意味のイタリア語なんだそうです。
「それにしても、今日はまた随分と寒いね」
「そうねえ。参っちゃう」
僕たちは空いているテーブルに座った。こんな都会には珍しく、大きな窓越しには雪が惜しげもなく舞っている。重たい雲に、染められた道路がモノクロだった。
外套を脱ぎ、椅子の背もたれに掛ける。
生憎の天気、昼下がりという微妙な時間も手伝って、このカフェには僕たちの他には誰も居なかった。
「何か温かいものが飲みたいね」
アンティーク調の室内では、電気ストーブがこれ見よがしに佇んでいる。それでも人の気がない部屋は寒々しくて、凍えた僕の指先が機嫌を治すには時間を要するようだった。
「このお店はアイスが美味しいんだけどな」
彼女がぼやく。そんなもの食べて腹から冷やしたら後で辛いぞ、宥めつつ、僕は二つあったメニューの一つを手に取り、彼女に渡した。彼女が受け取ってから、もう一冊を開く。
とはいえ、僕の注文はもとから決まっているようなものだった。
「僕はブラックコーヒーかな」
「好きねえ」
「まあね。温かいし、なにより目が冴える」
それ苦いじゃない、呟く彼女の視線は見開きのメニューに注がれている。きらきら輝く瞳で、甘い一品を探しているのだろうか。
「君と言えばアイスだけど、今日はやめておいたほうがいいからね」
「わかってるわ」
彼女はアイスが好きだ。特にバニラアイスには拘りがあるようで、こういう店に来ると、いつも決まって頼んでいるのだった。だからこそ、今日の彼女の選択は実に楽しみだ。
「そういう貴方はいつもブラックコーヒーじゃない」
「好きなんだよ」
「変化ないわね」
拘りを指摘されて、なんとなく恥ずかしい。
「そんなことより、注文を考えたらどうだい」
「……それもそうね」
彼女が再びメニューに集中して、押し黙る。
さて、自分から仕向けておいてなんとも無責任な話だが、手持ち無沙汰だ。
コートを脱いだ彼女の、白いニットに目を細める。小洒落たランプの灯りが仄暗く、僕たちの影は曖昧だ。
ゆっくりと流れる時間は、ブラックコーヒーのように濃く贅沢だ。
淡く流れるジャズのスタンダード・ナンバーに耳を傾けていると、彼女から遠慮がちな声がかかった。
「ごめん、注文決まった。いつものが禁止されて、悩んじゃった」
「いや、気にしてないさ。店員を呼ぶよ」
言いつつ、僕は机に置かれていた銀の卓上ベルを鳴らした。
ちりん、ちりん。
すぐに従業員が現れる。客も居なくて暇だったのだろう、とは想像に難くない。
「オーダーをお願い。僕はブラックコーヒー」
「あたしはこれかな、アフォガート。以上です」
二人が黙ったのを確認してから、店員が頷いた。
「承りました」
すたすた、足音が遠退いていく。
僕は一度置いていたメニューを再び手に取った。
「なんだい、アフォガートって。こういうのにはどうも疎くてね」
開いて確認しようとしていたその手が、不意に止められる。
彼女がテーブルの向こうから、僕の手首を掴んでいるのだった。
「折角だし、来てからのお楽しみ、ってことでどう?」
「ふうん。……まあ、そういうのも悪くないか」
彼女のいたずらっぽい笑みが僕の視線を絡め取る。
僕は気圧されたように頷き、メニューを手放す。満足したように彼女は頷いた。
「貴方がアフォガートを知らないことぐらい分かってたわ」
「そうかい。なんだか悔しいな」
「いえ、お似合いよ」
尚更悔しいじゃないか、僕は笑った。
「あなたはコーヒーだもの」
「好きだからね」
デジャヴを感じるやりとりに、しかし、風向きが変わる。
「そうじゃなくて。あなたがコーヒーみたいだって言ってるの」
コーヒーみたい。真意を計り損ねて、僕は首を傾げた。
ワックスの効いた木張りの床は、落ち着いた色でカラメル色に光っている。
「真っ直ぐで苦くて熱くて、コーヒーが似合うもの」
「なるほど?」
「それに見て、いつも黒いスーツだわ」
彼女がくすくす指さす。黒いトレンチコートに黒いブレザーとスラックス、堅い奴だと弄られることにはもはや慣れていたが、こう笑われるのはどうもくすぐったさを感じた。
「なんだよ、それは関係ないだろう」
「大アリよ。イメージって、そういう所から来るの」
なるほど、彼女から見た僕は、コーヒーのイメージなのかもしれない。僕は相槌を打った。
「じゃあ、そういう君はさしずめバニラアイスかい」
「それは?」
「綺麗で爽やかでちょっと冷たくて、アイスが大好きだろう」
おまけに白いセーターがよく似合う、とつけると、なんだか収まりがよくて自分で笑ってしまった。なによそれ、彼女も笑う。
彼女の服がうっすら夕焼け色に染まっていて、少し晴れて来たな、などと窓を見ずに思った。
っようやく彼女の顔から視線が外れ、盆を携えた店員が視界に映った。
「お待たせしました、こちらコーヒーと」
「僕だね」
「アフォガートです」
「あたし」
二人の前に、それぞれの注文の品が置かれる。
答え合わせといこう。僕は件のアフォガートを覗いた。その端が目に映っただけで、しかし、僕は納得してしまう。名前に騙されていただけか、深めの皿には見慣れたデザートがあった。
「なんだよ、結局アイスじゃないか」
「ふふ、許してよ」
そこで、僕は彼女の前に置かれた小さなコーヒーに気がつく。
「あれ、君もコーヒーを頼んでいたかい?」
「違うわ、これも合わせてアフォガートなの」
言いつつ、彼女はそのコーヒーが入ったカップを持ち上げた。陶器のぶつかる音が、こつん、静かに響く。
そして彼女は、おもむろにそれをアイスの上にかけ始めた。
「何をしているんだ」
「こういう食べ物なの」
二人は、暫く、流れるコーヒーと染まるアイスを眺めた。
零れる音は小さくて大きくて、あまりに贅沢だ。
小さなカップに入っていた量は少なかったようで、すぐに途切れた。
「貴方、あたしのことをバニラアイスだと言ったじゃない?」
「ああうん、言ったね」
彼女がカップを置き、楽しそうにスプーンを手に持つ。
「今のあたしは、アフォガート」
「……どういう?」
さっきのように、僕は聞き返す。しかし彼女は答えずに、四角い頭をしたデザートスプーンを口に運んでいた。
「うん、おいしい」
「話が気になるんだけれど」
「せっかくのホットコーヒー、冷めちゃうよ」
幸せそうに笑いながら、彼女が指摘する。はっと我に返れば、いつのまにか空も暮れ。夜の薫りが窓の外からしとしとと忍び寄っていた。
「続きも気になるけど、確かにそうだね。僕もいただくとしよう」
白い陶器のカップを手に取る。じんわりと温かい。こくり喉を通せば、よく飲むそれよりずっと柔らかく甘く感じた。
彼女のアフォガートは、バニラアイスとコーヒーが溶け合ったカラメル色をしていた。
読んでいただき、ありがとうございました。