四日目 後
狭い後部座席で着替えを済ませた殺人鬼は、若干疲労した顔で車を降りた。
朝から岬美咲に振り回されて来た疲労が今になって顕在化しているのだ。
「ネクタイが曲がっているな」
そう言って殺人鬼のネクタイを直す詐欺師の額が殺人鬼の口の前にあった。
「身長が伸びた?」
岬大五郎と会った時に比べて、明らかに背が伸びていた。
「今は男だからね」
爽やかな笑顔の詐欺師はどこからどう見ても男だった。
それは美丈夫と言う言葉がかっちり嵌る印象の男だった。
カジュアルフォーマルを着こなすこの男は平泉城後と言う。
もちろんそれは詐欺師が持つ偽名の一つである。
平泉城後は開耶勇気に坂下円花を紹介した雑誌記者だと、殺人鬼は説明されていた。
相変わらずの性別不詳っぷりだと殺人鬼は素直に感心した。
「一郎先輩は私の尊敬するジャーナリストだと紹介するから」
誇らしげにそう言う詐欺師に、殺人鬼は自分のどに尊敬出来る要素があるのかと疑問を口にする。
詐欺師は深山無罪判決の立役者と言う功績があるじゃないかと呆れ顔で言った。
その言葉に対して殺人鬼はただただ疑問符を浮かべた。
深山無罪判決と言う言葉に対する殺人鬼のその表情を見て、詐欺師は恐る恐るその言葉の意味を知っているかと確認する。
殺人鬼は当然の如く知らないと答えると、詐欺師は深く深く嘆息した。
「自分の夫を殺した罪で起訴されていた深山八重と言う女性が無罪を勝ち取った事件だよ。覚えていないか?」
殺人鬼は暫く記憶を漁って、一人の取材対象を思い出した。
「深山未夏の母親か」
それは深山八重が警察に対しても弁護士に対しても黙秘を貫いた事から注目を浴びた事件だった。
殺害された深山健夫は地元では評判の良い名士で、殺人鬼も記事のネタを求めて奔走した事件だった。
「被告は黙秘を貫き通して、その娘は目の前で母親が父親を殺したショックで何も喋らない。まあ、それは娘を慮る母親の行為だった訳だが」
詐欺師はそこで一旦言葉を区切って意地悪そうな笑みを浮かべた。
「その真実を暴き立てたのが、先輩じゃないか」
殺人鬼は当時の事をある程度思い出した。
事の真相を聞き出そうと深山未夏を追い込み、追い回し、付け狙い、脅し倒して、事の真相を聞き出したのだ。
「真実と言っても大して面白くも無かったけどな」
実の父親から性的暴行を受けていたと言う面白くも無い真実。
殺人鬼の言う面白くないは後味が悪いと言う意味では無い。
本当に詰まらない些細な事実だったからだ。
結局父親を殺したのは母親で間違いが無かった。
それは心身共に疲弊した深山未夏に対して何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も壊れるまで確認したのだから間違いない。
深山未夏が父親を殺したのではないかと予想していた殺人鬼にとっては、本当に詰まらない結末だったのだ。
「ま、実際面白くない話だと思う人も多いだろうけれどもね」
詐欺師は殺人鬼から一歩離れて、真っ直ぐになったネクタイを確認して満足気に頷く。
深山無罪判決に関する殺人鬼の行為に対して、当時の世論は二つに割れた。
よくぞ真実を掘り出したと言う意見と、何故真実を掘り出したのだと言う意見の二つに。
裁判が行われた頃から殺人鬼はその事件に対する興味を失っていたので、裁判の結果に関してはほぼ忘れていた。
誰かから聞いた記憶はおぼろげにあったのだが、実際の所そんな事はどうでも良かったのだ。
無罪になったのかと興味無さそうに呟く殺人鬼に、詐欺師は最低限の話は合わせてくれよと低い声で念を押した。
事実に対して話を合わせろだなんて斬新な打ち合わせだなと、殺人鬼はどこか他人事の様にそう思った。
そして詐欺師が深山無罪判決の話を出しにすると判断をするのであれば、開耶勇気はそんな話に対して肯定的な反応を示すか否定的な反応を示さない人物だと言う事は明白であった。
どちらにしても扱い易そうな奴だと言うのが殺人鬼の予断である。
そもそも、初対面の相手を自宅に呼び付けると言う無警戒と無礼を兼ね備えた人間が扱い難い事など無いと言うのが殺人鬼の予断でもあった。
開耶勇気の自宅は閑静な住宅街の一角に建てられた普遍的な戸建て住宅である。
豪邸では無いが大学生が一人で住む様な家では無い。
開耶勇気の両親が息子の為に一戸建てを用意したと聞かされていた殺人鬼は、実際それを目の前にして得心した。
詐欺師が今回の一件に関して協力的な理由は開耶勇気の豊富な資金に拠る物だったのだと。
詐欺師が呼び鈴を鳴らすと、数秒の間を置いて開耶勇気が応答した。
室内に入った殺人鬼は辺りをゆっくりと見回した。
絢爛豪華な調度品がある訳では無いのだが、一目で安物と思しき物は皆無であった。
見栄の塊みたいな金持ちよりも、この手の無自覚な輩の方が大抵の場合たちが悪い。
「お待ちしておりました」
慇懃無礼言葉遣いの青年がまるでその家の調度品であるかの様な自然体でそこに居た。
服装もまた自然体。ジーパンにポロシャツと言うラフな格好である。
中肉中背で顔立ちも崩れてもいなければ整い過ぎてもいない。
全体の印象としては中庸で凡庸ではあるが同時に小奇麗でもあった。
「魚岩省吾君を支援する会の、開耶勇気と申します」
開耶勇気は人当たりの良さそうな笑顔でそう言った。
数日前にその支援対象の死刑が執行された等と思えない様な笑顔だった。
「小三塚、一郎です」
そう言って殺人鬼が名刺を差し出すと、開耶勇気は片手でそれを受け取って殺人鬼を見た。
「高名なジャーナリストの小三塚さんにお目に掛かれるなんて、光栄です」
高名と言う単語に勝手な違和感を覚えつつ殺人鬼は曖昧な返事をした。
開耶勇気は詐欺師と幾らかの言葉を交わすと、本革のソファーにどっかりと腰を下ろした。
両手を肘かけに添えて、優雅に足を組んでから、詐欺師と殺人鬼に対して着席を促す。
座っているのに浮遊感を感じるソファーの感触に対して座り心地の悪さを感じながら、殺人鬼はボイスレコーダーのスイッチを入れた。
殺人鬼は開耶勇気に対して遠慮は必要ないと感じていた。
世間知らず。
開耶勇気を表現するのであればその一言で事足りる。
害意も悪意も無いが、対面してからの僅かな時間で見え隠れする自然で傲慢な態度。
策を弄する必要も無く、一方で脅しても効果は薄い。
普通に聞けば普通に答える。
そんなある意味では手応えの無い人間だと殺人鬼は判断していた。
「早速ですが、色々聞かせて下さい」
殺人鬼は単刀直入に話を始めたが詐欺師はそこに何等言葉を挟まなかった。
当然ながら詐欺師もまた開耶勇気の人柄に関して熟知しているのだから。
「魚岩省吾とはどの様な出会いを?」
「中学以来の親友です。恥ずかしい話ですが僕は友達が少なくて、省吾位しか親友と呼べる相手が居なかったのです」
特に恥ずかしがる様子も見せずにそう言う開耶勇気に、殺人鬼は予想以上に話を聞き出し易いと感じた。
隠し事も腹芸も出来ない、素直と言うよりは馬鹿に属する類の人間だと、そう感じた。
「魚岩省吾の父親については何か知っていますか?」
答え辛い質問をあえてぶつけてみるも、開耶は駅までの道を聞かれた時の様に気安く応える。
「僕が小学生二年生の頃に母親を殺して投獄されていたと言う程度しか知りません。唯一の肉親だったせいか省吾は良く父親の話をしてくれました。話を聞く限りでは省吾にとって良い父親だったみたいですね」
「では、母親については何か知っていますか?」
その質問に対して、開耶勇気は数秒考える仕草を取った。
「そう言えば、何も知らないですね。省吾は何も話してくれませんでしたね」
不思議そうにそう言う開耶勇気を見て殺人鬼は何か引っ掛かりを覚えた。
何が何に対してと言う説明も出来ない。ただ少し引っ掛かっただけだ。
「高校では部活も一緒だったと聞いていますが?」
「登山部の事ですね?校則で生徒は何かしらの部活動に従事する事が定められていまして、特にやりたい事の無かった僕等がたまたま所属したのが登山部でした。当時は僕と省吾を含めて部員が五人でしたね。二年の暮れに僕等の代で廃部にする事が決まっていましたから、僕等五人が登山部最後の部員になる予定でした。三年の時に同期の山田君が死んで省吾が中退したので卒業の時点で三人になりましたが」
岬大五郎の時と異なり、開耶勇気は部員の死に対して忌避感を見せなかった。
「山田、君が死亡した事故に関して詳しく聞かせて貰えますか?」
そう言えば山田何某の本名は知らないなと、殺人鬼は言葉にしてから思い至った。
「その事件に関しては直接見た訳では無いので全て聞いた話になりますが、何でも山田君がふざけていて滑落して死んだそうです。省吾以外は口を揃えて勝手に落ちたと言っていましたが、省吾から聞いた話では岬先生の娘さんに暴言を吐いた山田君を諌めている過程での事故だったそうです。省吾は自分が殺した様な物だと酷く落ち込んでいましたから、きっと省吾は山田君を助けられる位置関係にいたのではないでしょうか」
殺人鬼の隣で詐欺師がほうと興味深そうに声を漏らした。
「警察が調べて何も言わなかった事を鑑みるに、あの事故は矢張り不幸な事故だったのでしょうけれども、結局省吾はその年の暮れに高校を中退してしまいました。父親が病死して話せる相手が減ったのも一つの要因だったのかも知れませんが、登山部の皆は今でも山田君の事故が原因だと思っています」
人を殺した事程度で悩む人物。
ここでもまた、魚岩省吾に対する評価は画一的にも感じるそれであった。
殺人鬼からすれば不思議でしかない感性ではあるが、それがまた普遍的な感性でもあるとも理解している。
「中退後の事は何か知っていますか?」
「仕事を転々としていました。登山部の事故が八月、高校を中退したのが九月で、翌年には新聞配達、塗装業、コンビニ、最後に郵便局で、その時点で中退の翌々年の年始でした」
二年間で三回の転職が多いのか少ないのかは殺人鬼には判断出来なかった。
詐欺師に視線で尋ねると、詐欺師はまあまあ多いねと視線で回答した。
「郵便局を止めたのが年明けで、自首したのは八月です……とこれはご存じですよね」
殺人鬼は殺人の記憶と魚岩省吾の経歴を照らし合わせた。
一人目を殺したのは魚岩省吾が高校を中退した年の十月だった。
二人目は翌年の二月。三人目が九月。四人目が十二月。
五人目はまた翌年の六月。その八月に魚岩省吾の自首。
殺人鬼が殺人を始めた時期と魚岩省吾が高校を中退した時期はほぼ一致している。
これもまた世間では殺人の理由の一つとされた。
好んで殺人を犯す者の考え方など理解不能だと判断される一方で動機は求められる。
実際理解不能ではある。魚岩省吾は殺人犯では無い。
それは殺人鬼だけが事実だと知っている。
折角名賀が用意した資料がある事だし明日はその辺りの時系列を整理してみようかと、殺人鬼はそんな事を考えた。
「会のメンバーは岬大五郎を含めて三人だと伺っていますが、登山部OBで不参加の方が居る計算になりますよね?」
「一人卒業後に交通事故で死亡していますので」
登山部は部員がよく死ぬなと殺人鬼は呟いた。
魚岩省吾を含めると五人中三人が死亡した事になる。
そんな不用意な発言に対して、開耶勇気は不快感を表す事も無くそうですねと同意した。
この時点で聞きたい事はほぼ聞き終えてしまっていた殺人鬼は、その後三十分程開耶勇気と雑談をした後に帰路に着いた。
「良い鴨だったろ?」
ぐったりとシートにもたれ掛る殺人鬼に詐欺師はそんな言葉を投げ掛けた。
「気持ち悪い位良い鴨だった」
岬美咲との時間と比較して、殺人鬼はそんな感想を言葉にした。
明日は家でゆっくりと休もう。
殺人鬼はそう決意した。