四日目 中
両手が塞がった状態で殺人鬼は墓前に佇んでいた。
墓石には魚岩敬吾ノ墓と記されていた。
魚岩敬吾は魚岩省吾の実父であり、魚岩省吾の実母である真実を殺した人物の墓でもある。
その最後は刑務所の中。病死だった。
「意見が割れているのよ」
しゃがんで手を合わせる岬美咲の言葉に殺人鬼は何がだと問うた。
岬美咲は墓石を見詰めながら魚岩省吾の遺志を述べる。
生前の魚岩省吾は支援者達に対して一つだけ希望を伝えていた。
「自分の骨は父の墓に納めて欲しい」
魚岩省吾が死ぬと言う事は即ち死刑の執行を示唆しており、それをその無実を信じる者達に言い遺すと言う行為は残酷ですらあった。
岬美咲は遣り切れない気持ちに対してただただ押し黙り、その辺りの心境を今一理解していない殺人鬼は掛ける言葉を見付け出せない。
殺人鬼の思考に一つの疑問が浮かび上がり、そのまま言葉になる。
「母親の墓は?」
目の前の墓石には魚岩省吾ノ墓と記されている。魚岩家の墓ではない。
普通に考えれば殺した相手と殺された相手を同じ墓に入れる事も二人の墓を隣接する事も無いのだろうと、殺人鬼がそんな事に思い至ったのは疑問を言葉にした後だった。
失言したかと黙る殺人鬼に、岬美咲はここには無いと呟いた。
「省吾はお母様の事を語ってはくれなかったから」
立ち上がった岬美咲は少し落ち込んだ声でそう言って殺人鬼の方を向くと、水と柄杓の入った桶を奪い取った。
右手の重荷から解放された殺人鬼はごりごりと肩を解すと、左手の墓花に視線を落とした。
殺人鬼は墓掃除と言う行為に込められた意味が今一理解出来ない。
死者の事を考事に何も感じないと言う訳では無い。
死んだからと言ってそれまでの人生が消える訳では無いと思っている。
むしろ、だからこそだ。殺人と言う行為は人生を強制的に終了させられる行為だからこそ、大いに意味があるのだと思っている。
それは殺人鬼自身も同じ事であり、だからこそ殺人鬼は殺されたくはないし殺されるのを想像するだけでも嫌なのだ。
しかしながら、自分以外は他人である。
殺人鬼にとっての他人とは全く相容れない存在でもある。
少なくとも殺しても心が痛まない程度には、自分自身とは異なる存在である。
「墓掃除は私の仕事なのよ」
パパ達は嫌がったからねと言った岬美咲は非常に誇らしげであった。
墓の下に眠る、配偶者を殺した男に対する忌避感は存在しない。
岬美咲にとっての他人もまた殺人鬼と似た基準で捉えられている。
この二人の間を隔てる大きな違いは特別があるか無いかだけだ。
魚岩省吾が肯定的に語るその父親であれば、生前殺人犯であったとしても忌避感等は発生しない。
そして魚岩一家に対するその認識の違いが、岬美咲が自力では辿り着けない疑問に殺人鬼が辿り着いた理由でもある。
「世間一般的な感覚だと」
そう前置きした所で殺人鬼は一度言葉を探した。
言葉を探しながらポケットの中でボイスレコーダーのスイッチを入れる。
それは岬美咲の言葉を録音する為ではなく、自身の考えを記録しておく意味合いが強かった。
同時に取材のスイッチも入った。
「世間一般的な感覚として、実の母親を殺した実の父親、と言う存在をその子供は受け入れられるのだろうか? 自らの死後も、受け入れられるのだろうか?」
岬美咲は丁寧に墓石を拭きながら省吾は優しいからと生返事をした。
最愛の人が敬愛する人の墓なのだから、他人の疑問よりは大事なのである。
「それ程優しかったとして、実の母親を蔑ろにする理由は何なのだろう」
殺人鬼が追加した言葉は意図しないニュアンスで伝わった。
「省吾が優しく無いって言いたいの?」
鋭い殺気が殺人鬼に降り注ぐ。
愛する人を侮辱された様に感じて岬美咲は静かに怒っていた。
人を殺せそうなその殺気に殺人鬼は僅かにたじろぐが、それでもその思考回路の占有率は疑問の方が大勢だった。
それは分からないけれどもと言い訳をして、君はどう思うのだと岬美咲に問い返す。
岬美咲は殺人鬼の言葉を反芻して考え込む。
岬美咲の中で魚岩省吾は際限無く美化されるが、魚岩省吾に関する矛盾を全て無視出来る程論理性が損なわれている訳では無い。
岬美咲と言う人間は論理性をある程度残したまま狂気に浸れる人間である。
魚岩省吾に対して極度に執着するその狂気の中で、岬美咲は比較的客観的に殺人鬼の疑問に対する検証を始めた。
「何故」
それは殺人鬼への回答では無い。単なる自問自答だ。
「何故、お母様の墓を恋人である私に教えなかったのか。てっきりそれ位自分で調べろと言う事だと思ってたけど、実際調べたけれど、その答え合わせが無かったのは不自然だったわ」
岬大五郎が聞いたのなら嘆きそうな認識をぶつぶつ呟く岬美咲を、殺人鬼は無言で見守る。
取材には待つ事が必要な時もあると、そのくらいは殺人鬼でも理解していた。
例えば追い詰めた相手が泣き崩れるのを待ったり、侮辱した相手が激昂するのを待ったり、罵倒した相手が震えだすのを待ったりするのは重要な時間である事を理解していた。
「確かに不自然、不自然。省吾の中でお母様は重要では無かった? 確かにお母様の墓を省吾が訪れた形跡は、無かった。これまでに一度も。お父様を赦したのだとしたら、それは不自然」
殺人鬼もまた考えていた。
考えていると言っても、そこに論理性はあまり無い。
ただ引っ掛かっているだけだ。
魚岩省吾。
殺人鬼を騙った男。
殺人犯を赦した男。
それでいて人も殺せなさそうな男。
優しい男。
殺された母親を蔑ろにする男。
繋がる様な、繋がらない様な。
散在する点が殺人鬼の中で無軌道に駆け廻る。
「省吾は死んでしまった人に対して無感動? いえ、山田の死にすら心を痛めるのが省吾。分からない。分からない」
殺人鬼がもやもやした思いを抱く程度でしかないその不整合性は、岬美咲にとってはとても耐え難い。
何故なら魚岩省吾を最も理解している者が岬美咲でなければならないから。
岬美咲が信じる自分はそう言った存在なのだから。
「有り得ない。私が省吾の事を分かれないなんて、有り得ない」
強く両手を握りしめて苦悩する岬美咲を見守りながら、殺人鬼は一旦思考を放棄した。
答えが出ないのは判断材料が足りないから。殺人鬼はそんな理屈でそれらの不整合性を許容した。
大体が魚岩省吾と言う人物に対して詳しい訳では無いのである。
不整合性の前提条件が全て正しいと言う確証すら無いのだから、悩むだけ無駄だと言うその考えは至って正しくもある。
一方でぎりぎりと歯ぎしりする程苦悩する岬美咲はと言うと――変なスイッチが入っていた。
「これは試されているのね」
岬美咲は想像以上におめでたく、度し難い程前向きな人間であった。
「私が省吾をもっと深く知る鍵は、私と省吾が出会う前?」
その言葉は独り言では無かった。
疑問を投げ付けられた殺人鬼は知らんと返答する。
「決めた」
殺人鬼に対して岬美咲はきらきらとした声音でそう言った。
何を決めたのかを聞くのを殺人鬼は躊躇した。
聞かない方がいい気がしたのだ。結局聞かなくても聞かされる羽目になるのだが。
「私は小三塚さんの取材を手伝うわ」
名案だと言わんばかりに偉そうに、しかし否定を許さない威圧感を込めて、岬美咲はそう言った。
殺人鬼はそれを断る理屈を幾つか考えて、最終的に断る方が面倒だと言う結論に着地した。
「何をどう?」
何を手伝うと言うのか。投げ遣りに言葉足らずに問う殺人鬼に、岬美咲はお母様ですよと答えた。
「きっとお母様の事を調べればいいのよ。そこに省吾を知る鍵があるわ!」
殺人鬼の脳内で敵は本能寺にありと言う言葉が脈絡無く浮かんだ。
本能寺がどこにあるのかも敵が誰なのかも未だに分かっていないのが現実である。
どうせ詐欺師からの連絡待ちだと思った殺人鬼はああそうですかと曖昧に肯定した。
そしてこのいかれた女は割と利用価値がありそうだと思った。
「では準備してまた連絡します」
岬美咲はそう言うと、桶と柄杓を持って去って行った。
何の準備かも聞かずにその背中を悠長に見送ってから、殺人鬼は自身の左手に握られた墓花の存在を思い出した。
「どうするべきか」
墓花は一束であるが備え付けの花瓶は二つある。
言葉とは裏腹に余り迷う事も無く、殺人鬼は花束の包装を剥ぐ事も無く片方の花瓶に突っ込んだ。
そこは所詮他人の墓であり迷うだけ時間の無駄なのだ。
殺人鬼が墓に背を向けてボイスレコーダーのスイッチを切ると、そのポケットで携帯電話が鳴った。
歩きながら電話に出た殺人鬼の耳に詐欺師の声が飛び込んで来た。
「どこにいるんだい?」
唐突な疑問に墓場だと答えると、詐欺師は意味有り気な感嘆詞を返した。
「それはそうと、今晩開耶勇気と会う約束を取り付けて来たよ」
仕事が早いと殺人鬼は素直に感心してそれを言葉にした。
詐欺師は愉悦の混じった声を漏らし、僕は優秀だからねと自画自賛した。
「それで一郎を迎えに残酷荘まで来たのだけれども、生憎の留守だったのでね」
こうして電話したのだよと、詐欺師は若干責める様な口調でそう言った。
それに対して殺人鬼は淡泊な口調でそれはタイミングが悪かったなと感想を述べた。
詐欺師は浅く溜息を吐いて、諦めた様な声で墓場の場所を尋ねた。
殺人鬼が曖昧な現在地を告げると詐欺師は再び意味有り気な感嘆詞を返した。
しばらくじっとりとした沈黙が受話器から漏れ出たが、殺人鬼がその沈黙に込められた意味を感じる取る事はない。
詐欺師は根負けした様な口調でそこで待っててと言って沈黙と通話を終わらせた。
殺人鬼は携帯電話をポケットに仕舞ってから、詐欺師に用事を思い出して再び携帯電話を取り出した。
電話帳に唯一登録されている詐欺師の番号をコールすると、三コール目で詐欺師が電話口に出た。
「どうしたんだい?」
訝しげな口調の詐欺師に対して殺人鬼は自身の服装を見下ろしながら用事を告げる。
「部屋から、スーツ、持って来て貰えるかな?」
第一印象が大事と言ったのは詐欺師である。
殺人鬼の部屋着によれよれの上着を羽織ったその恰好を受話器越しに幻視した詐欺師は、感情を押し殺した声で分かったと答えた。