表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/19

一日目

 殺人鬼は藍色の紙袋を手に駅前の携帯電話ショップから出て来た。


 その顔は疲労が色濃く塗り重ねられており、いつもとは違う意味で覇気が無い。

 殺人鬼は毎日獲物を探していたバス停のベンチにどっかりと腰掛けると、自分の靴を眺めた。

 視線を上げる事すら億劫だった。


 スマートって何だと力無く呟く殺人鬼は、つい先刻まで携帯電話の契約をしていた。


 当初こそ最近流行りのスマートフォンとやらにしようと意気込んでいたのだが、適当に端末を決めてプラン説明を聞いている段階で相当量の疲労が蓄積されていた。


 まず料金が高い。実質無職の殺人鬼の懐は非常に貧弱なのだ。

 そして決して出来の良いとは言い難い頭脳に殺到する膨大な量の注意事項とその確認書類。

 それらが説明用に簡略化されている事は何と無く理解出来たが、肝心の内容に関しては殆ど理解出来なかった。


 思えば職を辞する前は普通の携帯電話を使っていたなと、そんな言い訳で自分自身を納得させてスマートフォンは諦めた。


 殺人鬼の英断に店員はほっとした様な残念な様な曖昧な顔をした。

 しかし店員の苦難はそこで終わらず、殺人鬼は更に色々諦めたてプリペイド式の携帯電話を契約した。


 契約が終わって携帯電話を手渡された時点で、入店から三時間が経過していた。

 料金をチャージする方法を教えて貰う為にそこから更に三十分が経過した。


 最後に店員は販売直後は電池残量が少ないので帰宅したら充電する様にとアドバイスした。

 殺人鬼の頭に残っている注意事項は既にその一つだけである。


 殺人鬼は夕暮れの中で深い溜息を吐いた。

 心理的に外界と隔絶した生活を送っているとこうも鈍るのだろうかと嘆いた。

 これからの行動に一抹の不安を抱きながら殺人鬼は到着したバスに乗った。

 走り出したバスの振動に揺さぶられながら、買ったばかりの携帯電話を箱から出す。

 傷防止用のビニールを全て剥がして紙袋の中に放り込み、充電器と携帯電話本体だけをポケットに仕舞い込んだ。

 帰る前に名賀に一報を入れる予定であったが、疲れたので諦めた。

 帰ってからでも問題無いだろうと殺人鬼は自分に言い訳した。


 三十分程バスに揺られながら殺人鬼は昔の事を思い起こしていた。


 殺人鬼が使う取材方法は様々だ。

 相手を騙す貶す賺す脅す。

 とにかく攻撃的な取材が殺人鬼は好きだった。

 激しい感情と相対するのが好きだったし、相手を傷付けるのも好きだった。

 記者とは天職だった。次第に過剰な取材を批判する風潮も強くなって行ったが、そんなものはやり方次第である。

 特に取材対象をボロボロになるまで攻撃する様な手法がお気に入りだった。


 苦しむ人間を見ると殺人鬼の心は落ち着き、殺人衝動が少しだけ軽減したのだ。

 殺人に対する感情的な躊躇は無かったが、社会的常識に関して十分に理解のあった殺人鬼は殺人衝動に身を任せる訳にもいかなかったのだ。

 そんな事情があったのだから尚更、正義を装って他人を攻撃出来る記者と言う職業は天職だった。


 しかし、その手法は別の記者が懐柔的なアプローチをするからこそ有効だった。

 一人ではそうそう上手く情報を引き出せない事くらい殺人鬼にだって分かる。


 恐らく名賀はそこまで見越した上でこの話を持って来たのだろう。

 そう思い至った殺人鬼は忌々しげに舌打ちをした。


「俺は当て馬か……」


 殺人鬼に反骨精神じみた激しい気概は存在しない。

 魚岩省吾に関わらない事であれば、適当に関係者を苛めて憂さ晴らしをしても良かったのだろう。

 だが今回はそうも行かない。やってもいない咎を盗んだその動機を知りたいのだから。


 そんな慣れない手法の取材をしなければならないのかと思うと殺人鬼は少しだけ憂鬱になった。

 そんな憂鬱を窓の外の景色と一緒に後ろに流した殺人鬼は、取り敢えず魚岩省吾の関係者を思い出そうとして全く記憶していない事に気が付いた。


 殺人鬼は魚岩省吾が逮捕された当時の記憶を無理矢理掘り起こす。


 魚岩省吾は逮捕された時点でさえ天涯孤独の一歩手前だった。

 そんな状況だったので魚岩省吾を出しに煽れる相手は少なかった事は覚えていた。

 加えて殺人鬼自身は魚岩省吾の自首に酷く困惑していたのだ。

 攻める相手が少なく、攻める側のコンディションも最悪。

 そんな理由で殺人鬼は偽殺人鬼魚岩省吾に関する取材をあまり積極的にしていなかった。


 そもそも取材対象を選定する行為は苦手だった。手当たり次第に関係者に絡むのが殺人鬼の取材なのだから。

 そうなるとやれる事は昔も今も変わらない。

 取材対象の情報は名賀から得なければならなく、その為には一度話をしなくてはならない。


 しかし、名賀と話すのは万全のコンディションであっても億劫だった。

 あの間延びした気怠い口調は苦手だとそうぼやいた直後に、車内アナウンスが降車駅付近である事を伝えた。


 殺人鬼がバスを降りると、どどめ色だった。

 晴れていれば夕焼けが見える空がどどめ色の雲で覆われているのだ。

 殺人鬼は暗くなる前にと早足で歩き始める。

 明滅する街灯の光が足元を照らしていた。


 暗い森を背後にした残酷荘が見える頃には辺りはすっかり暗くなっていた。

 残酷荘の前にぼんやりとした人型が見えた様な気がした殺人鬼は、少しばかり不気味な光景だなと少し歩くペースを落とした。



 気が付くと疲れ果てた殺人鬼は自室で腰を下ろしていた。

 目の前には運送会社の伝票が貼り付けられた箱があった。

 持ち上げようとしてみるとその箱はずっしりと重く、殺人鬼は持ち上げるのを諦めた。


 送り主の名前は名賀功。品名の欄には重要書類と記されていた。

 それはまるで印刷したかの様に均質な、見覚えのある名賀の字であった。


 その段階でようやく大家が預かっていた小包を受け取った事を思い出して、更なる疲労感に包まれた。

 大家の顔を思い出そうとしたが、覚えていなかった。

 声を思い出そうとしても、名前を思い出そうとしても、同じ事の繰り返しだった。


「ま、あの大家印象薄いし」


 そもそも他の住人に至っては一人を除いて覚える以前に会った事も無いのだ。

 脇目も振らずに咎を取り戻す方法を考え続けて日々を繰り返していたのだから、当然と言えば当然でもあった。


 殺人鬼はガムテープを引き剥がして小包を開封する。

 中には分厚い紙の束が納められていた。

 箱から出した資料を万年床の上に並べながら、殺人鬼は読むのが面倒臭いとやる気を減退させた。


 資料は三冊の小冊子に分けられていた。

 事件発生から逮捕までの流れが一冊。

 逮捕後から起訴までの流れが一冊。

 公判の内容と刑の確定後が一冊。

 それとは別に取材対象の情報が収められた若草色のクリアファイルが二枚。


 殺人鬼は一冊目の資料を部屋の片隅に投げ捨てた。

 事件内容に関しては他の誰よりも犯人である殺人鬼本人が一番詳しい。見るまでも無かった。


 二冊目には軽く目を通す。

 ぱらぱらと適当に見た限りでは逮捕後に関する資料には目ぼしい情報は無かった。


 そもそも魚岩省吾は取り調べに対しては一貫して「殺人罪の判決が欲しかった。死刑にしてくれ」とだけ主張してそれ以上の動機に関しては黙秘を貫いたのだ。

 当時も実は犯人では無くて真犯人を庇っているのではないかと噂されたが、結局の所その様な人物は報道にも捜査線上にも浮上しなかった。


 それもその筈だ。殺人鬼と魚岩省吾の初対面は刑務所だったのだから。


 二冊目の資料は大半を占める新聞記事の引用と僅かな警察内部資料で構成されていて、これと言って有益な情報は無かった。

 それでも動機を知る上では何かの手掛かりになるだろうと、二冊目は散らかった机の上に放り投げられた。


 そして三冊目に目を通す。

 これが一番分厚かった。

 そして読み難かった。


 数ページで読むのを諦めた殺人犯は、携帯電話の箱を藍色の紙袋から取り出すやいなや肩越しに放り捨て、空になった紙袋に三冊目の資料を詰めた。


 明日、移動中にでも読もうと思ったのだ。

 結局の所取材対象の所在以外は重要な情報では無い。

 なので、本命はクリアファイルの方である。


 クリアファイルの片方にはクリップでメモが挟まれていた。

 メモにはそういったフォントがあるかの様に均質な文字で「現在所在が掴めている二名。追加は別途郵送する」と書かれていた。


 殺人鬼はクリアファイルの中身を確認する。


 一人は開耶勇気。魚岩省吾の唯一とも言える友人である。

 一人は岬大五郎。魚岩省吾の高校生時代の担任である。


 顔写真と名前から、殺人鬼は魚岩省吾が逮捕された後によくテレビの取材に応じていた奴等だと、二人の事を思いだした。

 どちらも扱い易そうな奴だったなとそんな印象を思い出した殺人鬼は、二人の所在を確認して岬大五郎の方から攻める事にした。

 単純に開耶勇気よりも岬大五郎の方が近くに住んでいたからだ。


 殺人鬼は開耶勇気のファイルを机の上に放り投げて、岬大五郎の情報を頭に叩き込む。

 年は五十二歳。現在は魚岩省吾の母校とは別の高校で校長を務める。家族は妻と娘二人。妻は五十歳、娘は二十二歳と二十歳。住まいは二階建ての一軒家。


 隣家との距離や壁の具合にもよるが、アパートやマンションと比べれば騒がしくしても大事にはならないだろうと殺人鬼は思った。

 実際にはフォロー役が不在の状況でそこまで大事には出来ないのだが。


 その資料には魚岩省吾が高校一年生の時、部活動の最中に遭遇した事故についても記載されていた。

 魚沼省吾は当時登山部に所属していたのだが、夏休みの部活動中に部員一名が事故死していた。


 その記述を読んで、殺人鬼は名賀が岬大五郎を取材対象に選んだ理由はこれだろうと当たりを付けた。

 定年間近で地位のある人間に、過去の些細なトラブルをぶつける。

 例えば、事故と魚岩省吾の関係についてとか。

 恐らく名賀もそんな事を考えてこの資料を作ったのだろうと殺人鬼はそう思った。


 殺人鬼であればそこに実際何があったのかは関係無く岬大五郎を貶すだろう。

 事実かどうかは大きな問題では無い。

 いかにして発言を引き出し、吊るして晒すか。

 かつて殺人鬼が取材をする際にはそんな事しか考えていなかったし、名賀もそのやり口を熟知していた。


 そして今回は魚沼省吾の人生を追い駆ける取材である。

 関係あろうがなかろうが根掘り葉掘り聞けばいいのだ――本来ならば。


 だが、昔とは違い今回の取材は事実を掘り出す事は手段でしかない。

 目的は動機なのだから。

 魚岩省吾と言う人間が何を考えたのか、ひいてはどんな考え方を持った人間なのか、それを引っ張り出す事が目的なのだから。


「さて、風呂に入るか」

 岬大五郎の住所を記憶した殺人鬼は、立ち上がって玄関へと向かう。


 残酷荘。

 風呂とトイレは共用である。


 名賀に電話する事も携帯電話の充電をする事も忘れて、殺人鬼の一日は終わりを迎えようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ