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序章

 平日の夜十時過ぎ、殺人鬼はバス停前のベンチに腰掛けて呆けていた。

 冷たい風が吹く中、薄い外套の前をぴっちりと閉めて、腰掛けていた。

 基幹駅の改札を抜けて流々と散る人々を漫然と眺めながら、殺人鬼はもやもやした思いを払拭出来ずにいた。


 殺人鬼が最後に人を殺してからもう四年の歳月が流れていた。

 一頃は二年で五人も殺したと言うのに、もう四年も人を殺していないのだ。

 それは殺人鬼にとって異常事態であった。


 今日も人の流れに獲物を見出す事は出来なかった。

 昔はこうして数多の人を眺めていればいくらでも殺したい獲物が見つかったと言うのに。


 完全にブランクだと殺人鬼は呟いた。


 そうやって一時間半程時間を無駄にして、殺人鬼はその日最後のバスに乗った。

 バスには何人かの人が乗り合わせていたが、そこにも獲物は見いだせなかった。

 運転手が最終バスである旨をアナウンスして乗車口が閉まる。

 ゆっくりと走り出したバスの後部座席で殺人鬼は深い溜息を吐いた。

 全ては岩魚省吾のせいだと、先日この世を去った男に恨みを募らせる。


 魚岩省吾。世間では殺人鬼と認識されている男。

 半年で五人もの人間を殺して死刑判決を下された。

 魚岩の死刑が執行されたのは三日前の事であり、それは殺人鬼が魚岩を殺す機会を永遠に失った日でもあった。


 信号待ちの車窓から見える神社を意味も無く眺めながら、殺人鬼は真実を誰にも打ち明けられない悔しさに苦悩していた。

 魚岩の咎は、本来全てその殺人鬼の咎である。

 殺人鬼は四年間ずっと自分の全てを否定された様に感じていた。


 殺人鬼が学生の頃に殺人罪の時効は廃止された。

 即ち殺人と言う咎は、本来ならば一生失う事の無い称号である筈であった。


 魚岩が持ち去った咎はその殺人鬼が最初に犯した殺人をも含んでいた。

 過去に未遂は多数あれども、未来に殺人は数多に可能であっても、記念すべき一人目は大切な記憶であり得難い咎であったのだ。


 最高裁が魚岩の刑罰を確定し、その執行までもが完遂された今、殺人鬼の大切な咎は完全に失われたのだ。


 殺してでも奪い取る予定だったその咎はもうどこにも無いのだ。


 恨みと苦しみと悔しさと悲しさと遣る瀬無さに、殺人鬼は静かに涙した。


 そうして三十分程バスに揺られた先にある停留所で殺人鬼は下車した。

 自宅まではそこから十五分程歩く。


 一昨年まで殺人鬼は大手新聞社で記者をしていた。

 今はフリーランスの記者である。

 但し仕事は殆どしていない。

 二年もの間何をしていたのかと言えば、刑務所に侵入する方法を探していたのだ。

 魚岩との謁見であればフリージャーナリストと言う職業を建前に可能だったし、実際数度それは実現した。

 しかしながら、魚岩を殺す事は透明な壁に阻まれて不可能だった。

 殺人鬼を閉じ込めて逃がさない筈の牢は、実際には殺人鬼から獲物を守り通したのだ。


 何の皮肉だと殺人鬼は嘯いた。

 その心情を大声で叫びたかった。


 大きく息を吸い込んだが、近所迷惑なので止めた。


 とぼとぼと夜道を歩き殺人鬼は自宅へと帰る。

 木造三階建てのそのアパートの一室が殺人鬼の部屋だ。

 鉄門には残酷荘と書かれた木札が掛けられている。

 達筆なその文字は残酷荘の大家が書いたのだと言う。




 自室の前に立ち力を込めて歪んだ扉を開ける。

 その先で、四畳半一間の簡素な部屋が底冷えしていた。

 室内に一歩踏み込むと万年床の黴臭さが鼻腔をくすぐる。

 部屋の明かりを点ければ見飽きた自室が広がっていた。

 万年床の横には膝程の高さの丸机が乱雑に重ねられた新聞紙に埋もれる様にぽつんと座り込んでいる。


 その新聞記事の下で赤い光が点滅していた。


 そこには古いプッシュホンがあったが、殺人鬼は自分に連絡をする者に心当たりが無かった。

 力を込めて扉を閉めて、適当に靴を脱ぎ捨てた殺人鬼は、一先ず赤い点滅を無視して石油ストーブのスイッチを押す。

 そろそろ固定電話回線は解約しようかなと考えながら、殺人鬼は丸机の前に胡坐をかいてがさがさと新聞紙払い除けた。

 新聞紙は総じて古く黄ばんでいて、所々切り抜かれていて穴が開いている。

 新聞紙を取り払われて露わになった光るボタンを押すと、磁気テープが巻き戻されて録音が再生された。

 不快な電子音の後に、メッセージの件数と録音された時間を電話機の電子音が伝える。


 メッセージは四件。最初のメッセージが録音されたのは夕方四時半頃だった。


「やあコミちゃん久しぶりぃ」


 気怠い声がスピーカーから流れる。

 声の主は元上司である名賀だと、殺人鬼は一瞬で分かった。

 大手新聞社時代の上司であった名賀デスクは、現在は系列の出版社に出向して週刊誌の編集長をしていると、今年の年賀状に書いてあった。

 今の住所や電話番号は誰にも教えていないのに何故届いたのかと、年賀状を受け取った時に首を傾げた事を殺人鬼は覚えていた。


「仕事してないよねぇ? ちょっと仕事を頼みたいんだぁ。ほら、この前連続殺人犯の魚岩省吾死んだじゃん? 知ってるぅ?」


 魚岩省吾と言う名前に、殺人鬼は再生を止めようと伸ばした指を止めた。


「実わぁーコミちゃんにぃ」


 そこで一件目のメッセージは途切れた。


 続いて二件目のメッセージが再生される。


「なにこれぇ、録音時間短くなぁい?」


 お前の喋りがのろまなんだよと殺人鬼は毒づいた。


「あれぇ? 何の話だっけぇ? あぁそぉそぉ、魚岩省吾の話ねぇ?」


 その後名賀が要件を伝えるまでに、メッセージは二度途切れて、いつしか石油ストーブは温熱を吐き出し始めていた。

 要約すると、魚岩省吾について特集記事を組みたいから取材をして来いと言う内容だった。

 経費を含む報酬は記事の出来で払うかどうか決めるとのも言っていた。

 安上がりで取材をさせたいのだろうと殺人鬼は思った。


「馬鹿馬鹿しい」


 殺人鬼は吐き捨てる様に呟いた。

 その呟きは酷く弱々しく、覇気の無い物だった。


 殺人鬼はどっかりと布団の上に背中を放り投げる。

 そうしてから外套を脱いでない事に気が付くが、割とどうでも良かった。

 ぼんやりと天井を眺める殺人鬼は、馬鹿馬鹿しいと切り捨てた筈の名賀の依頼を反芻していた。


 狭い部屋は数分で暖まり、石油ストーブは排出する熱風の勢いを減衰して行くにつれて殺人鬼は眠っていた。

 そして殺人鬼は夢を見た。


 夢の中で魚岩が殺人鬼を嘲笑って去って行った。


「待て!」


 殺人鬼は叫んだ。魚岩は待たない。


「何でだ!」


 近所迷惑だからと言い訳して叫ばなかった心の内を、殺人鬼は夢の中で偽殺人鬼の幻影に向かって叫んでいた。


「何でお前は、無実の咎で自首したんだ!」


 夢の中で魚岩は殺人鬼に振り返った。

 魚岩の口がゆっくりと開かれ。喋った。

 その言葉に単調な電子音が被せられた。


「―――っ!」


 叫び声を寸前の所で呑み込んで、殺人鬼は目を覚ました。その身体はじっとりと汗ばんでいた。

 石油ストーブが点火から二時間が経過した事を電子音で伝えていた。


 のそりと起き上がった殺人鬼は石油ストーブを殴った。


 振動を感知した石油ストーブが自動的に鎮火し、石油臭さで部屋が満たされた。

 殺人鬼はぼんやりと夢の内容を思い出していた。

 既に魚岩の表情や最後の言葉は忘れてしまっていた。

 しかし自分の問い掛けはおぼろげに記憶していた。


「何で、自首したんだ?」


 四年間感情の底に埋もれていた疑問を殺人鬼は口にした。


「魚岩のぉ、人生を記事にしたいのねぇ。例えば殺人に至る動機とかぁ?」


 名賀の声が脳内で再生された。


 殺人鬼は明日携帯電話の契約をしに行こうと思いつつ、再び留守録の再生ボタンを押した。

 名賀の言っていた連絡先を控える為に。

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