本編
近所で有名なゴミ屋敷。
それが僕の家だった。
友人と別れて程なく歩くと見えてくる。木造の古い日本家屋。二人で住むには広すぎる家も、今は多くの仲間に囲まれて寂しくはない。全部無機物だが。
パッと目につくのは踏み切りの信号機だろうか。他のガラクタよりも高さがあるから目立つ。いったいどこの拾いものだか知らないが、鳴らない警告に何の意味があるのだろうか。この家では表札をぶらさげるためだけに存在している。表札は木の板に油性ペンで書いただけのものだ。お母さん執筆。『和泉渚』の下に『清治』と僕の名前が書かれている。
今日も見慣れぬ自転車が増えていた。動かぬガラクタよりはマシかもしれない。まぁ、すでに要塞のごとくガラクタで囲んでしまっているので今更だ。
全部、お母さんが拾ってきたもの。
本人は落とし物を預かっていると供述している。情状酌量の余地は果たして。
「お前も預かっているだけなのかねえ?」
水を舐めているペットに話しかける。『らいおん』と書かれた小屋に住むこいつの名前はらいおん。リードに繋がれた我が家の門番を担当している。
頭を上げて、わふ?と鼻を鳴らした。せっかくなので頭を撫でる。ただいま、おかえり、という挨拶である。
ちなみに、らいおんは柴犬だ。
家に入ると、壁から真っ白な手が飛び出てひらひらと上下に揺れた。なんてことは無い。襖の隙間から手を出しているだけである。おかえりも言えないのだろうか。足元くらいの高さで力無く手を振っている。明らかに、相手は寝転がっている。
「お母さん」
呼びかけてみると、真っ白な手は動きを止めて、投げやりに床に落ちた。相当お疲れのようだ。
「あぁ……廊下が冷たくて気持ちいい……」
「お風呂でも入っていたの?」
廊下や玄関にも預かり物は多い。ブリキの玩具やらアクセサリーやら小物の類ばかりだが、小物ゆえに踏んでしまうとけっこう痛い。獣道のようなものは出来ているので現在は通行の問題は解消されている。
それでも一応注意を払いながら部屋まで進むと、お母さんは割烹着で畳みの上に仰向けに寝転がっていた。三角頭巾まで被っている。
珍しい格好だった。確かに緩い服装を好む人だが、割烹着姿を見るのは初めてだ。
「何、料理か掃除でもしたかのような格好だけど。でも割烹着なんて着たことあったっけ」
「掃除の方。ちょっと気合いれて、形から入ってみたんだ。似合うかい」
手を足に絡ませてきた。答えるまで放さないつもりなのか。
「似合っているとは思うよ」
手が離れる。安堵したように大きく息を吐きながら、お母さんは笑った。
それにしても、掃除、ねえ。
部屋の中が片付いたとは微塵にも思わない。相変わらずゲームは出しっぱなしで、畳の上はよく分からぬ小物ばかりだ。
仕方がないなぁ、と笑う。
「ゲームはどうだった?」
「あと3時間ほどでよしあき君は世界制覇できるな」
「やっぱり遊んでいたか」
セットされているゲームをチラリと見る。
主人公名、よしあき。ジャンルはアドベンチャーだ。一昨年買ってきたばかりのはずだが、古いゲームで、途中からでもあるからそんなものなのかもしれない。
「なんだ、疑ってるな、君。私は本当に掃除したんだ。掃除というより、整理だが」
「整理、ね」
掃除よりも格が下がったように思える。
「ゲームの合間に整理かい」
「楽しかったぞ」
胸を張られてしまった。
「それに、いい物も拾ったからな」
じゃらり、と手をかざして見せたのはガラス玉がついたキーホルダーだった。光を受けて節々が輝いている。
「どう見ても安物だけど」
「お金で測る価値じゃない。これは時間の質や量で測るものだ。思い出ってやつさ」
「へぇ……。で、それはどんな思い出があるの?」
「さぁな。私の物じゃないからさっぱりだ。だがまぁ、なんとなく分かるよ。これの事。長い間持ち主の傍にいたってことぐらいは」
拾い物で、預かり物。
妙な気分だ。嬉しいような、落胆したような。他人の物で嬉しそうな表情をするお母さんに、自分はどうしても笑えない。
「よっと」
小さな掛け声と共に、お母さんは立ち上がった。
顔を合わせた拍子に、頬をつねられた。ぐいぐいと上下に左右に引っ張られて、バチン、離す。少し痛かった。
「……何をするのさ」
「難しそうな顔をしていたからね。ほぐしてあげたのさ。大丈夫かい」
意識を確かめているつもりなのか、目の前で手のひらが踊っている。
大丈夫だよ、と返す僕にお母さんはうん、と頷いた。
お母さんの物は、いったいどこにあるのだろう。
■
「いってきます」
朝っぱらからゲームに夢中なお母さんの背中に声をかけた。お母さんは間延びした声で気のない返事を寄越す。それを正すにしても時間がもったいないので、鞄を持って、靴を履いて、扉を開けて。
「いってらっしゃい」
そこではっきりとお母さんの声が聞こえた。僕はクスリと笑って扉を閉める。餌を期待して飛び出してきたらいおんにもおはようと挨拶した。
そして、すぐ。家を出て、すぐ。
捨てられた物の山を、少女が物珍しげに見上げていた。
眼鏡をかけた清純そうな女の子である。透き通りそうな肌に、長い睫毛。髪は亜麻色で、フリルのついたふわふわの服がより可愛らしさを際立たせていた。
こちらに気付いた少女。人懐っこい笑顔を浮かべて、が駆け寄ってくる。
「あなた。この家の人?」
「はい、そうですよ」
「学生さんかな。ふーん」
僕の胸に顔を近づけて、少女はすんと鼻を動かした。
「……あの女と匂いがする」
その呟きの意味は分からなかった。あの女とは誰のことだろう。朗らかな笑顔から一転した、苦々しい表情が印象的だった。
「じゃあね、学生さん。また会いましょう」
ひらひらと軽く手を振りながら、少女は別れを告げた。
「なんだろう。家に用事があったんじゃないのかなぁ」
名前も知らないけれど、また会えると少女自身も言っていただから、期待しておこう。
放課後の教室。
自分の机に置かれた将棋盤を眺める。対面に座っているのはセーラー服の女子。腕を組んで、彼女、四辻遥は不敵に笑っていた。
戦況は、優勢。けれど四辻の表情には何ら焦りが見えない。それどころか勝者のような余裕ぶりだ。全く、何を考えているのやら。
ふと、目が合うと四辻はかみ殺したような笑い声を出し、腕組を解いた。
「和泉は何を考えているか分からんな」
「……んん?」
こちらの台詞だ、なんて気の利いた返しはできず。新見の盤外からの不意打ちに間抜けな声を出してしまった。
四辻は自分が討ち取った駒を盤上に落とした。布陣が滅茶苦茶になる。自身の部隊が混沌としていく様を見て、彼女は満足気に笑った。長い黒髪を指で流して整える。
「負けだ。投了。これだけボロボロにされて勝てる気がしない。父にはそこそこ勝てるが、どうしても和泉には勝てないな」
「お父さんとはよく遊ぶのかい」
「ああ。この間はキャッチボールをした。相変わらず女ッ気のない遊びだよ。母や姉がいたら折鶴でも作れるようになっていたろうか」
「いや、変わらないと思うよ。お母さんとはゲームの対戦や協力ばっかりだ。ままごともしたことないや」
「それは和泉の家が特殊なんだよ。普通は自分の息子に中古ゲームの選別を頼んだりしないさ」
「四辻が普通の母を語るのも変な感じだねえ」
言ってしまって、後悔した。失言だ。冷や水をかけられた気分。冗談のような口調で、僕は何てことを。
「それもそうだ。私は母を見たこともないからな」
四辻は笑う。笑い飛ばしている。僕は安堵した。そうだ、四辻はこういう奴だった。
四辻に母親はいない。彼女を産んだ時に死んでしまったらしい。片親という共通点があるからか、四辻と僕はよく気が合った。ただ、もし僕が同じような冗談を言われたとして、同じように笑い飛ばせるかは自信がない。
四辻も悩んだりするのだろうか。
「この歩が飛車や角だったらもう少しやれたのだろうな」
ばらけた駒の一つを拾い上げた四辻は、ニヤニヤとしながら歩兵の漢字を見つめている。勝負の感想をご要望らしい。どうやらすぐに再戦という気分ではないようだ。
「無い物ねだりかい。負け惜しみに聞こえるよ」
「ああ負け惜しみだ。負けて悔しくないものなどあるものか。勝負ってのは裸になる覚悟でするものだと父が言っていたぞ」
「賭け事じゃあるまいし」
「私に覚悟がないとでも?」
「いやいや。もっと軽くいこうよ。遊びなんだから」
「ん、脱ぐか?」
スカートの裾をつまみあげる四辻。太ももが少しずつあらわになって、僕は急いで四辻の腕を掴んで止めた。
「間があったな」
「四辻さぁ……」
「すけべ」
反論は、できない。材料の有る無しではなく、このニヤケ顔の女は頑固で、僕が説き伏せた試しがないのだ。相手に合わせていてはドツボにはまる。相手の土俵に立ってはダメだ。深呼吸一回。手を放す。
「じゃあ、いいよ。交換しよう」
「ほう。何と何を」
「手を出してみて」
四辻は手の平を上に差し出した。乗っている歩兵を拾い上げる。僕は持ち駒から飛車と角を選び、盤上に置いた。
「好きな方を取りなよ」
「これはまた。正直者じゃないと全部持っていかれてしまいそうだ」
「何の話?」
「金の斧と銀の斧」
「あー。鉄の斧を落とした木こりのやつか」
木こりは鉄の斧を湖に落としてしまうが、湖の女神が出てきて落としたものは金の斧か銀の斧か選ばせる。木こりは正直に「落としたのは鉄の斧です」と言うと女神は金の斧と銀の斧を両方渡したという話。
神は正直者を助けるという教訓である。
「試すなら木こりが本当に欲しいものを選ばせるべきだと思うがね、私は」
「駄目だろ、それじゃ。どっちにしろ嘘つきだ」
「どうしてそう思う?」
「本当に欲しいものを、欲しくないって言ったら嘘だろう」
だから秤に載せるなら単純に一般的な価値で、だ。思いなんて移ろいやすいもので量れなんて神様も困ることだろう。
まぁ、家の仲間たちはその見えない重さがあったから連れて来られたのだろうが。
「和泉。質問は『何を落としたか』だ。欲しいものを聞いているんじゃない。嘘にはならないさ」
確かに、その質問に対し答えは一つだ。明確な質問、分かりきった答え。互いが正解を知っているからこそ、正直者の確認になる。
でも、じゃあ。
「質問の内容がさっきみたいのだったら何て答える?」
「さっきって?」
「どっちが欲しいか、さ」
「何だ。そんなの決まってる」
そう言い四辻は飛車と角の両方を拾い上げた。
「全部だ」
手を差し出して、歩兵まで要求している。
「正直だねぇ……」
「うむ」
別に褒めているわけでもないが、彼女が満足気なので触れないでおこう。大人しく歩兵を返す。
「もうこうなったら飛車角落ちでやり直そうか」
「私はこのままでも構わないぞ」
「すぐ詰むっていう状況なのによく言うよ。並べ直すよ」
駒を一つ一つ最初の位置へと戻していく。四辻も憎まれ口を叩きながらも僕の動きにならって駒を並べ始めた。
四辻とはよくこうやって放課後の暇を潰している。潰し方は様々。今日はたまたま将棋だっただけで、校内を走り回って宝探しをしたこともある。もう少し寒くなれば外に出ることだってあるだろう。
四辻遥と、僕と、もう一人。
独霧千里という男と一緒に。
「―――独霧のことを考えているのか」
僕の様子を察してか、四辻が重々しく嘆く。返答はしない。拾い上げた駒は定位置へ。思考をすり潰すように作業を行う。
「忘れろとは言わない。だがあまり気にしても体によくないぞ」
「それは無理だよ。いないように扱うなんてできない。器用じゃないんだ、僕」
「まぁ、そうだな。私もできない」
教卓の前にある机を見やる。誰も座っていない椅子。独霧の場所。教室に残っているのは僕と四辻だけで、他は誰もいない。
「あぁ、まったく」
僕が呟くと、四辻が続ける。
「惜しい奴を亡くしたものだ」
「勝手に殺すな」
低い声に突っ込みをいれられた。ふと窓の方に向くと、千里がぶらさがっている。上の教室から降りてきているのだろう。
「千里。今、君の話をしていたんだよ」
「なんだ独霧。普通に扉から入って来られないのか」
僕と四辻が別々に千里に声をかけた。四辻の言葉は注意のようだったが声色はむしろ笑っている。
「よっちゃん、そこどいてくれ。ひとまず入りたい」
「ご要望とならば」
四辻が立ち上がって椅子を片付けた。
千里が教室に軽く入る。まるで猿のような身のこなしだ。
「それで、三年生の教室に用でもあったのかい」
「いい質問だよ。いずみん、君にちさポイントを五あげよう」
「わーありがとう」
「喜ぶな和泉。話を続けろ」
「よっちゃんはせっかちだね」
深くため息をつく千里。疲労がはっきりと分かるほどまいっている。
「よっちゃん。いずみん。キーホルダーを見なかったか」
「どんなものだ?」
「ガラス玉の、まぁ、安っぽいやつなんだけどさ。どっかで落としたみたいで校内を探し回ってたわけよ」
「ふむ。私は見覚えがないな。和泉、お前はどうだ」
正直、心当たりはあった。
千里の表現と昨日に見たお母さんが持っていた物が一致する。お母さん自身が拾い物と言っていたから、可能性はより高い。
けれど、なぜだろう。
「安物なら、買いなおせばいいのに」
本当のことを言えなかった。
お母さんの嬉しそうな顔がチラついたのか。僕は聞いてみたかったのだ。
どうしたら、他人の物であれだけ嬉しそうに出来るのか。
「んー、そうなんだけどねー」
「煮え切らないなぁ。大切なものかい」
「や、そうでもない。無いならそれでいいんだ。もうどこで買ったかは忘れてしまったけど、子どもの頃から身近な物につけていて愛着が湧いてしまったらしい。自分でもこんだけ探してることに驚きだよ」
無いならそれでいい、か。
「残念だけど、僕は知らないなぁ」
「そうかー、いずみんならひょいとポケットから出してくれそうな気がしたんだけどなー。家が家だし」
「なんでも揃ってるわけじゃないんだよ……」
僕は嘘をついた。
何のためと問われれば、お母さんのためと答えるかもしれない。
けれど、本当は自分のためだったのだろう。
家に帰ると。
朝に会った少女が犬小屋の前にいた。
いつも僕が行う頭を撫でる挨拶を、すでに少女が行ってしまっていた。らいおんは妙に嬉しそう。座ってらいおんの相手をしている少女。
「えー、と。ただいま」
「あら、おかえり」
面食らう僕に対し、なんでもなさそうに少女は応えた。
「あなた、本当にただの人なのね」
「え?」
「学校でずっと見ていたの。気付かなかった?」
すれ違いもしたのよ、と少女は言う。僕にそんな記憶はない。いつも通りの学校だった。制服でもない少女に会えば、印象に残るはずだ。
少女は立ち上がると、僕の方を向いた。
「私はシロ。あなたは?」
「僕は……清治、だけど」
「そう。セイジ、あなたはイズミにとっての何?」
意味が分からなかった。狼狽する僕を見限るように、シロと名乗った少女は背を向けてしまった。
「ねえ、何、このゴミ山!」
両手を広げて、声を荒げるシロ。
ゴミ山と、苛立った声で言った。ゴミ。彼女にとってはそうだろう。だが、僕には。お母さんにはそうでない。そして、本来の持ち主にとっても、おそらく。
だからお母さんは拾ってきた。それをゴミと言われたら、僕は、どうなるのか。
「お母さんが拾ってきたものだよ。ゴミじゃない」
「お母さんだって?」
振り返るシロの目は、非難しているようで。それが無性に僕をささくれさせた。
「ばっかじゃないの。お母さんだって」
「お母さんはお母さんだ。和泉渚。そこの表札に書いてあるだろ」
「あなたに馬鹿と言ったわけじゃない」
玄関の扉が開く。
いつもの緩い地味な服を着たお母さんだった。日常、僕が見る普段の姿。
「私が馬鹿と言ったのはあなたのお母さん。ね、何か反論がある?」
「特にない」
伏せがちの顔も、どこか諦めを感じさせた。いつも通りのお母さんのはずなのに。
「落とし物を届けるのがあなたの仕事でしょう」
「分かっている」
物心ついた頃からお母さんはお母さんだった。だけど本当は知っている。いや、ずっと言われていたことだ。
「分かっているさ、すまない」
僕も、ゴミ山の仲間にすぎない。
■
僕が今よりもずっと幼かった頃の話である。
「どうして僕にはお父さんがいないの?」
「それは君が捨て子だから」
手を繋いでの買い物帰り。ふとした疑問をお母さんは簡潔に答えた。
見上げると、いつも通り眠そうな眼をしながら、前を向いている。いつも通り。だから、何てことはないものなのだと思った。
「じゃあさ、お母さんはお母さんじゃないの?」
「そうだね。正しいよ」
むっとした。強く結ばれた手を、少し振り回してみる。ブランコに反動をつけるように、左右に振って、思い切り足を上げて歩く。
「正しくない。それは嘘だ。決まってるだろ、そんなの」
前に出て、お母さんを引っ張って。振り向いた。
「お母さんはお母さんだ。それ以外何があるのさ」
小走りさせられて、前のめりになったお母さんと顔が少しだけ近くなる。伸びすぎた前髪に隠れた目の色は、優しいものだったと思う。
お母さんは呆れたようにため息をついて、笑った。
「なら、君は何だっていうんだい?」
「お母さんの子どもだろ。当たり前じゃん」
自分の世界ではそれが常識で、覆ることのないことだった。けれど。
「違うさ」
お母さんは、どうしても認めるわけにはいかなかった。
事実と違うことを、許すことはできないのだ。
「私は、神様なんだ。何も凄くない、ただ忘れた物を思い出させるだけの、それだけの、存在なんだよ」
きっと僕はその告白を否定したと思う。今思えば子どもの我侭にすぎなかったのだろう。僕の望みは皆を嘘つきにしてしまうことになるのだから、決して叶えてはいけないのだ。
どこかに実の母がいて、その息子が僕。それが事実。
ならお母さんはいったい何なのだろうか。
僕の世界は、全部嘘だったのだろうか。
■
シロが来てから日に日に仲間が減っていった。うず高く積もられた無機物たちの跡は更地しか残らない。何もなかったかのような、雑草の生えた地面を眺めて、僕は少しだけ寂しくなった。目立っていた警報機もどこかへ消えてしまった。
お母さんにもまったく会えていない。
「お母さんの仕事って何なの?」
シロと並んでらいおんの散歩。リードはシロの手に。なぜかシロはらいおんの世話を積極的にしてくれた。
「前に言ったと思うけど。落とし物を届ける。それだけよ。あんまりにも怠けていたから私が警告しに来たってわけ」
「警告って、無視し続けるとどうなるの」
「消えちゃうわよ。自分で存在理由を否定しちゃってるもの。当然ね」
シロの手からリードが離れ、らいおんが僕にめがけて突っ込んでくる。僕はらいおんの頭を撫でながら、シロに労いの言葉をかけた。
「らいおんの散歩、お疲れ様。そういえばさ、最初に会った時にえーと、その、らいおんのー」
「あぁ、匂いのこと。犬同士の挨拶みたいなものよ」
「犬同士って、君は犬なのかい」
「まぁ、元はね。それにあの時が最初ってわけでもないよ」
「……前に会ったっけ。ごめん、覚えが無い」
「学校で見かけたってだけどね。私はね、人間が大好き。だからふと人の集まる場所に寄り道しちゃったりするんだ。追いかけられたりして大変だったけど」
「千里が言ってた女神って君のことだったのか……」
らいおんを犬小屋に戻して、振り返ると。シロがジト目で僕のことを見ていた。何か気に入らないことでもあったのだろうか。
「あなたって、順応性が高いね」
「そうかな」
「だってさ、いきなり神だとか犬だとか言われて納得できるものなの。今までの生活が壊れて、イズミとだってあの日から会ってないのでしょう?」
気に入らないのではない。シロは僕が不思議だったのか。怒ってもいいはずだ、やさぐれてもいいはずだ、僕は子どもなのだから。
子どもだから、何もできない。
「千里がさ、見たことのあるガラス玉の飾りを持ってたんだ。縁日で、初めて友達からもらった贈り物らしい。ずっと忘れていたんだけど、ふと最近見つけたんだって」
「イズミの仕事ね」
「うん。お母さんは頑張ってる。だから、僕はその邪魔をしちゃいけない」
「……それ、本音?」
「本音だよ。決まってる」
少なくとも、嘘はついてない。
学校が終わってから、四辻と買い物に行くことにした。千里も行きたそうにしていたが補習があるので学校に居残り。
「和泉が私の寄り道に付き合ってくれるとはな。どういう心境の変化だ?」
「何が?」
「帰り道は真っ直ぐ家に、が信条だったろう」
「ちょっとね。四辻はどうしてこんないつも時間を潰しているんだい」
「あんまり早く帰りたくないから」
意外だった。はっと四辻を見ると、四辻はいつも通りのからかうような余裕のある笑みを浮かべていた。
「四辻は、父親が大好きなんじゃないのかい」
「大好きだから。一人の家は寂しいだろう」
そうか。四辻も、逃げたり悩んだりするものなのか。
「なんか、安心した。四辻も人間なんだな」
「なにそれ。腹立つ……な」
四辻の表情から余裕が消えた。笑みが沈んだ。何かに見入っているのか、大きく開かれた双眸の先には。
「……あれは私の、母親だ」
一人の女性が、いた。
それから暫く、四辻は、何と言うか、酷かった。
早口で母親らしい女性に自分の近況を捲くし立てたと思ったら、今度は質問攻め。何をしていた、どこにいた。趣味とか好きなものとか。
お父さんとの、思い出とか。
恥ずかしいなら言わなくていいと四辻は何かと理由をつけて質問をすぐに撤回した。ずっと考えていたのかもしれない。母親との会話を、ずっと胸の中で膨らませていたのかもしれない。
女性はただ優しげに四辻の言葉に頷いていた。
次第に涙を流していたことを四辻自身が気付いていたかどうか、僕は知らない。僕はその光景に呆気にとられていた。
「ええと、ええとね。お母さん。それでね」
会話の種を必死に探す四辻は、何か怖がっているように見えた。喋っていないと、引き止められない。きっと、すぐに消えてしまうのだと。
女性は、そんな四辻を抱き寄せた。
甘えてもいい、と耳元で囁いて。
「――――」
四辻は何を考えたのだろう。
「―――違う。やっぱりこんなの、間違いだ」
そっと、母親を押して離れた。
「前に言ったろう! 私の母は死んだ! 父にも、私にも! なぁ和泉、お前も聞いただろ!」
声を大きくして、四辻は否定する。
これは嘘だ。
母親なんて、いない。
僕は何も答えなかった。答えることができなかった。
それが事実だとしても、四辻が、今の四辻がとても傷付いているように思えて、どう答えればいいのか分からなかった。いると言えば救われるのか。いないと言えば立ち直れるのか。
僕には分からなかった。
「母は死んだ。何度でも言うぞ。母は死んだ」
痛いほどに歯を食いしばって、四辻は逃げるでも悩むでもなく、目を閉じて涙を流した。
女性は静かに、暖めるように四辻の手を握る。女性は幻のように、薄らと消えていく。
「そうだね、それが正しい」
その声は、お母さんのものだった。虚像が消えていく中、実体として、お母さんが見える。
四辻の手にはぬいぐるみが握られていた。
手作りらしい、少しみすぼらしいけど、愛着のあるぬいぐるみだった。
「君は正しい。だから、これを返そう」
涙を拭う四辻。ぬいぐるみを一瞥してキッと前を向いた。
「確かにこれは私の物だ。母が妊娠中に私のために作ったものだと聞いた」
ガキ、と骨と骨がぶつかるような音がした。四辻がお母さんを殴った音だった。止める間もない。四辻の拳と、お母さんの頬が赤くなっている。
「大切な物だ。だがな、私はお前を許せそうにない。お前は私の母を汚したんだ」
「君は君の思い出を否定しなかった。私はそれで満足だよ」
お母さんは僕と一度も目を合わせることなく、立ち去った。
僕が実の母の元に返されたのは、この数日後だった。
僕の実の母親は病室にいた。
機械の規則的な音だけが病室に響いている。やつれた頬は衰弱の程を表していた。体を起こすことも辛いのか、寝たきりの母を僕は見下ろしている。
「……」
互いに暫く何も喋れなかった。何か喋れば何かが込み上げてきそうで。四辻のように、溜め込んでいたものが噴出してしまうのが怖かった。
ただ、それでも。
言葉にしなくても、目が熱くなるのは止められなかった。それがなんだか情けなくて、瞼を必死に閉じた。
「……あなたが、僕のお母さんですか」
上擦った声。取り繕うことも、もうできそうにない。
そうだよ、と微かに聞こえた。
恥も外聞もなかった。僕はお母さんに抱きつく。もう涙が流れていることは気にならなかった。
「なんで……せっかく会えたのに、死にそうになってるんだ。僕は、ずっと会いたかった! あなたに!」
言葉がまとめきれないうちに次々と吐き出してしまう。言ってもどうしようもないのに。現実が変わるわけもないのに。
「僕は、僕は」
ふと、僕の頭に感触が。お母さんに、撫でられていた。
「もういいんです」
何がだろう。何がもういいと言うのだろう。こんなにも悲しいのに、こんなにも悔しいのに。
「もういいの。息子のふりなんて、しなくていいの」
息子のふり。
「そうだね。それは、正しい」
■
僕は寝たきりの女性を見下ろしていた。
この人が僕の母親らしい。特に湧き上がる感情はない。あるのは戸惑いばかりだ。文句を言うにしても、質問するにしてもこの人は弱りきっている。鞭を打つ真似なんて僕にはできなかった。
「……」
それでも、この人は自身の理想を否定した。
感動の再会を、否定できた。
何故だろう。僕には分からない。四辻のような、強さを持っているならともかく、この人はどうして理想を拒むことができたのだろうか。
僕の、母親か。僕は大切に思われているのだろう。
大切に思われていたからお母さんに拾われて、大切に思われていたから返された。
けれど、捨てられて、これが初対面。
「とても、申し訳ないのだけれど。僕はあなたのために涙を流せそうにない」
他人としか思えなくて。
僕がこの人に愛情を持つには、都合が良すぎた。
「いずれあなたのことを母と呼ぶこともあると思う。でも今は無理です。ごめんなさい」
謝らなくていいのよ、と弱々しい声が聞こえた。
結局、一度も母と呼べずにこの人は死んだ。
病院の入り口でお母さんは待っていた。
「おかえり」
「あ、うん。ただいま」
また会えると思っていなかったので、不意打ちをされたかのような気分。あんまりにもいつも通りの声色だったので、僕も普通に返してしまった。
「さて、どうする」
「どうするって?」
まだ何かあったろうか。
「いや、清治にも思い出があるから」
「何にさ」
「私」
お母さんとの思い出。たくさんあったはずだけど、今はもういまいち思い出せない。
「清治にとって、私は何だい」
事実は明確。けれどそれは自分の気持ちに嘘をつく。幼い頃の自分を否定する。
お母さんは、誰かの思い出を大切にしたけど、自分の思い出はどうなのか。忘れてしまっても、平気なんだろうか。
お母さん、と答えることは簡単で。
それはしかし、誰にとっても間違いで。
四辻のように偽者を許せないと思うわけでもなく、実母のように現実を認めることも、僕にはできそうにない。
嘘だけは、つかない。
自分に正直でいよう。
「僕にとってあなたは、好きな人だよ」
「……あぁ。まぁ、間違いじゃないな」
なんとなく、雰囲気でお母さんが笑っているように感じるけど、もうぼんやりとしか見えない。
嘘じゃない。単なる気持ち。意味なんてないのだ。こんな移ろい易いものは、正しいと呼ぶには程遠い。
「けど、正解でもない」
行き着くところは、結局変わらないことは知っていた。どう答えてもお母さんはお母さんではなくなるのだ。
「お母さんは誰かの思い出にならないの」
我慢できなくて、ふいにそう口に出ていた。
「なれない。なれないから、他の人が羨ましくて。捨ててしまったものを拾ってしまう」
「忘れないよ、僕は。お母さんのこと。誓ってもいい」
「期待はしておくよ、清治。まぁ、努力賞だ。受け取ってくれ」
渡された物は、中古ゲームの束だった。
「じゃあ、帰ろうか。一緒に」
「お母さん。手を繋いでもいいかな」
お母さんの手は冷たかったけど。
とても、柔らかかった。
僕は実母の住んでいたアパートに引っ越すことになった。
「ま、いずみんがずっと幽霊屋敷に一人暮らしできたことが奇跡だったのかもね」
千里はそう言って笑って。
「女々しいことは言わない。また会うぞ」
四辻はそう言って強がった。
みんなゴミ屋敷やお母さんのことを覚えていないようだった。
「あなた、母親に感謝することね」
「何を?」
「あそこで真実を見抜けなかったら、あなた消えていたもの。過去を否定するってことはそういうこと」
「じゃあ、お母さんも消えちゃったのかな。正解を言えなかったけど」
「さぁね。どちらにしろイズミとは会えないでしょうね。もちろん私とも。もう用がないもの」
「あぁ、うん。お世話になった、ありがとう」
「……あなた、大丈夫なの?」
シロは意外とお節介焼きだった。
最後に幽霊屋敷となった元我が家を覗いて見ても、やっぱり幽霊屋敷で、犬小屋も存在しなくなっていた。
らいおんは、どこにいったのか僕にも分からない。
■
「は……あぁ」
背伸びをして体をほぐす。荷物を部屋に入れるだけでかなり疲れてしまった。
「……ん」
ふと、見覚えのある紙袋を発見した。中には中古っぽいゲームソフトが大量に詰め込まれている。
そういえば、自分で遊んだことはあんまりなかった。
「これはいい息抜きを見つけた」
さっそく準備をして起動。やはり中古だったらしく、ロムの中にはすでにセーブデータが存在した。
主人公の名前『ああああ』。
「てきとうだなぁ」
くすりと笑う。元のプレイヤーは相当めんどうくさがりだったのかもしれない。
そういえば、元の持ち主を感じるからこそお母さんが言っていた、ような。
ああ、そうか。
「あの人、自分で最初からやったのか」
不思議とまた、くすりと笑った。
【おわり】