名前が…?
『勿論、終わりじゃないですよ。お嬢さん』
不吉な音色と不快な振動を伴った言葉が空間に木霊した。
深い湖の底から浮かび上がる青黒いシミのように、底冷えする女の声が周囲に滲んでいく。
荒涼とした平野は、より一層ザラザラした質感を増し、凝縮された砂がノイズのように領域を埋め尽くした。
分厚く巨大な雷雲にすっぽりと覆われた大地が、そこだけ幾分気温を下げ、寒々とした表情で沈黙している。
「<人類史>という滑稽で醜悪極まりない悲劇が増産され続ける限り、崇高なる我らが原理教の活動も永久にその意義を失わないのです」
上空から響いてくる、その一音一音には、生理的嫌悪を催すような絶望的色彩が含まれていた。
先程まで奇妙な形の岩山の上に揺らめいていたはず三つの人影は、いつの間にやら瞳子達三人が集っている場所の上空に呼応するように佇んでいる。
何の不自然さもなく、さながら世界は最初からその配置でしたとでも言わんばかりに。
その三つの質量を象る輪郭が刻々と鮮明さを増し、この場へと急速にピントが収束されていく。
「とりあえず目撃者は手っ取り早く屠殺してしまおうと思ったのですけどね」
三つの人影の内の一人が、機械的な無感情さで悪気もなく発言する。
何かの魔法技術でも使っているのか、呟くように発せられた言葉が、その場にいる者達の鼓膜へ鋭く伝播する。
「残念ながら、そう簡単にはいかないようですね。随分と優秀な学生さん達のようです。虫唾が走ります。穢らわしい……」
凍結した能面のような顔に、爛々と妖しく光るエメラルドの瞳。
毒々しく赤く濡れた唇から腐食した音声が滴り落ちる。
雪のように白い髪をボブカットにした女。年の頃は20代前半だろうか。
髪の色に負けず劣らぬ純白のドレスを細身に纏い、その胸の部分には気色の悪い笑みを浮かべた髑髏模様の刺繍が呪詛のように黒々と刻まれている。
全身を空中に妙な角度で固定したまま、顔の下半分だけが動き、言葉を紡ぎだす。
「いずれにせよ、元気いっぱいの学生なんてものは清廉潔白な政治家や生真面目な芸術家と同じくらいに存在価値無しのクソです。できるだけ新鮮なうちに処理しなければなりません……。ですよね?ノエマ?」
その女の隣に、コピーでもしたかのように殆んど同じ容姿の人物が浮遊している。
双子だろうか、唯一違うのはその二対の瞳の色が燃えるように紅いことだけだ。
ノエマと呼ばれたその女は、口を三日月形に歪めながら、死後硬直したマネキンの如き冷静さで周辺の様子を伺っている。時折、眼球だけが神経症っぽくキョロキョロと動き、瞳孔が収縮を繰り返す。壊れたジッパーのように微かに開いた唇から、呻きのような奇妙な音が断続的に漏れ出している。だが問いかけに対する反応はない。
「相変わらず反応が薄いですねぇ貴女は。ですがそれも洗練された愛情表現の一種なのですよね。さすが我が誇らしき妹……。下らない反応を返してくる凡百のゴミどもとは大違いです。ふふ……」
その上から下まで脱色されたかの如く真っ白な双子のいる空間から少し離れた場所には、二人とは全く異質の存在感を発する人影が浮遊している。巨大な筋肉で覆われた重厚な体躯に軍装を纏い、縦横無尽に広がった悪魔的なドレッドヘアと、感情を一滴残らず絞りつくしたかのように硬質な瞳を持つ黒人の男。耳やら鼻やら唇から指まで、様々なピアス、シルバーアクセサリーが装飾過多とも言えるほど満載されている。身長は2m以上、体の厚みも常人の四倍はありそうな密度をしている。格ゲーに必ず一人はいるような重量感溢れるパワーファイターに違いない。精密機器を隣に置いたら機能不全を起こしそうな程、濃密なオーラを全身から放っている。
石から削りだした棺のように微動だにしないが、ほんの些細な刺激で猛獣の如く襲い掛かってきそうだ。
「さっさと処理してしまおう。時間が惜しい。何か問題があるか?」
大型バイクの排気音を思わせる野太い声で、極めて実務的な口調で語る男。
「いえ、構いませんよ。さっさと終わらせて帰りましょう。新しい紅茶の葉が手に入ったばかりなんです。メイデン社製のアールグレイなのですけどね。凄く評判が良いんです!」
緊張感のかけらもない軽快な口調でそう返答し、頭をこくりと右に傾けると白い髪がふわりと揺れた。
「な……なんなんですか!処理だのなんだの勝手な事を言って!なんですか貴方達は!」
ぷりぷりと憤慨したマリネ先生が、地上から上空に浮かぶ招かれざる来訪者達に向かって叫んだ。
「ですから、崇高なる原理教の一員だと言ってるでしょう。私はノエシス、そこの彼女はノエマといいます」
落ち着いた口調で答えながら、胸に手をあて恭しく一礼する。
「そんなことはどうでもいいです!さっきの雷は貴方達の仕業ですね!焦げたらどうするんですか!逮捕です!逮捕!!」
ビシッビシッと指をさしながら、殺人未遂だのテロリストだの連呼しながら飛び跳ねるマリネ先生。
学園講師の威厳はどこへやら、初等部の子ども達に混じってもあまり違和感はなさそうな勢いだ。
普段は知能指数180超えの彼女だが、いったん頭に血が昇ってしまうと、使用できるボキャブラリーが極端に減ってしまうのだ。
「で、そっちのゴツいオッサンの名前は……?」
騒がしい担任を無視しつつ、知り合いに話しかけるような軽いノリで質問するカイト。
興味ないですが取り合えず訊いてみましたという風情で上空を仰ぎ見る。
問われたノエシスはというと、ゆっくりと目を丸く見開きながら数秒ほど黙考する。
「……さぁ……?……え?名前……が……?」
何を訊かれているのか心底解らないといった表情で首を傾ける。
口がへの字に半開きになり、先ほど消費期限が切れましたと言わんばかりのどんよりした表情を浮かべている。心なしか微量の苛立ちさえ声色に含まれているようだ。
「いや……そっちのオッサンの名前……」
「……?名前……が……??」
高速でまばたきを繰り返しながら、今世紀最大の謎に侵されたかのように体を湾曲させる白髪女。
上半身がプルプルと震え始め、微量の青白い電流がパチパチと体表を巡り始める。
「彼女は……ノエマといいます……」
生まれたばかりの言葉を取り扱うかのように注意深く、そう答える。その顔には引きつったような勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。
「あ、ハイ……」
カイトはフムと小さく呟き、恐らく何か根源的な所で言葉のすれ違いが発生してるのだろうという結論に達する。
古代の哲学者の言に依れば、言葉で正確な意味を伝達できるという考えがそもそも幻想に過ぎないのだ。
言語システムに刻まれた不可能性の溝。その深い奈落の中へ、<黒人のオッサンの名前>という些事はどうしようもなく飲み込まれてしまったのだ。今はただその絶対的な現実性を受け入れるしかない。
そして当の筋肉ゴリラ、もといオッサンはといえば、何も言わず一人禍々しいオーラを放ち続けている。その迫力と圧倒的な存在感の前では、まさに名前など何の意味もなさないように思えた。思うしかない。
「名前、名前、名前と……。随分と小煩い学生さんですこと……」
沈鬱な声でそう呟くノエシス。その目が若干血走っている。
「名前など必要ない……。名称付与こそ人類の原罪……。世界のあらゆる過ちの起源、それが名前……」
両耳につけられた銀色のイヤリングを弄くりながら、呪うような言葉をブツブツと呟く。
「この世界から名前のつけられたものを駆逐する。名前を認識する主体ごと駆逐する……。それこそ原理教の目指す完成形の世界。選択された未規定の世界なのです……」
全ての証明を終えたかのように満足感を漂わせながら言葉を紡ぐノエシス。
「え……ノエシスとか、名前じゃないの……」
その疑問形が空中に放散されると同時に、その空間を切り裂く白い電流が発話者に向かって襲いかかる。寸前の所で殺人的な電荷を回避するカイト。
「うぉっ!危っ!!」
ノエシスの全身から電流が迸り、断固とした狂気が見開かれた大きな瞳に宿っている。
「名前ではない!!!ノエシスもノエマも観念の一つの形態に過ぎない!!!」
甲高い声でそう叫ぶと、両腕を天に向けて大きく掲げる。
「穢らわしい!!一刻も早く処理を!!ゴリラ!!やってしまいなさい!!殺せ!!滅してしまえ!!」
「承知した」
黒人のオッサンがおごそかに返答する。
その言葉を聴いたカイトは残念そうに口を真一文字に結んで佇んでいる。ゴリラ??
「キチ○イじゃないデスか……狂信者ってのは人語すら通じないんデスか……?」
絶えられなくなった瞳子がウンザリした様子で会話に参加する。
「で、ゴリラさんは軍人崩れデスかね?武器なし。ただの強化系なら恐るるに足りませんが」
マリネ、瞳子、カイトの三人は各々のバイオリズムに従って即時に戦闘モードに移行する。
「瞳子さん!!油断は禁物ですよ。テロリストなんて何を考えているのか解らないんですから!あぁ、もう特衛軍は何をやってるんですか!」
責任感ある市民のような顔をしてプリプリするマリネ先生。
「来るぞ。ゴリラ、もといGが。瞳子まかせた」
「ええぇぇ……」
圧縮された高濃度の殺意が、回転する弾丸の如くハイスピードで上空から地表に向けて発射される。